004
「こっちだよ」
他愛のない話をしながら、坂の中腹まで下りてきたところで、彼は隣町方面へと足を進めた。緩い下り坂を進み、また坂道を上がっていく。その先に、二階建ての白い建物が見えた。普通の建物とは、少しだけ作りが違う気がする。近づいてみて、そのわけを知る。
「ここがぼくの家」
そう言って彼は庭の方へ進んでいく。
玄関の曇りガラスに、南山診療所とうっすら書かれていた。
「お医者さんだったんだ」
わたしは、納得するように頷き、彼の背中を追う。
その時灰色の猫が奥の垣根の下から庭に入ってきて、わたしに驚いたのか、慌てて逃げていくのが見えた。
「さあ入って」
テラスの方へ回ったところに、ゆったりと眠ることも出来そうな大きなソファが置かれている部屋があり、薬品の匂いなどはしなかったけれど、壁一面に作りつけられた本棚の近くに白衣がかけてあった。
ここが診療室だろうか?
「お邪魔します」恐る恐ると上がらせてもらう。
「どうぞ」
彼は、ソファにわたしを誘導し、自分は窓際の席に腰を下ろした。
「お医者さんだったんですね」
わたしは小さく微笑んだ。
「ぼくは医者ってほどでもないよ。たまに、一人暮らしの年配者の話し相手みたいなものをしてるだけ」
「でも、あの大きな病院って」
最近隣町に出来た大きな総合病院を思い浮かべる。
「うん。そうだよ。あれは、おじさんの病院なんだ」
わたしはまた一人で頷いていた。そして、ひとつの案が浮かんだ。
「あの。先生って呼んでもいいですか?」
「ん?」
「あっ。さっきの、呼び方を決めようって言っていた話のことです」
「ああ。なるほどね。それで、ぼくを、先生って?」
「はい」と、頷く。それしか考えられなかった。
「あかりがそうしたいのなら、ぼくはかまわないよ」
先生。先生と、何度か心の中で呟いてみると、とても安心する気がした。
「後、ぼくがいない時には、ここのカギはいつもあの中に入っているから、もしあかりが休息を取りたい時なんかには、勝手に入ってきてくれていいからね」
そう言って先生はテラスに置かれた、陶器製のドワーフの置物を指さした。
わたしは無意識のうちに、部屋の中をそっと見まわし、電話が近くに無いかを確かめていた。
先生はそんなわたしを見透かしたかのように「大丈夫だよ」と言った。
「この家に電話は置いていないんだ」
「えっ」
わたしが驚いた顔をしたからか、先生がちょっと微笑む。
「あの。でも、お仕事に支障があるんじゃ?」
「うん、平気。ぼくは落ちこぼれ組だからね。それに、あかりの気持ちも分かる。支配されているみたいで、ぼくも実は苦手なんだ」
少しの沈黙が落ち、また先生が話し始めた。
「ここは、ぼくを必要だとしてくれる人たちだけしか来ない。だから、大丈夫だよ」
わたしは暫く考えてから「はい」と返事をした。ただ、本当にここへ来るかはわからなかった。最終的な安息の場所として考えておきたかったけれど、あまり甘えるわけにもいかない。
その時、玄関の方で音がした。
反射的に立ち上がる。
やはりわたしは、家という場所自体がダメなのかもしれない。
「ごめん。ごめん。驚かせたね」
先生も立ち上がり、わたしの方へ来て顔を覗き込んだ。
「あっ。いえ……大丈夫です」そう言ってみたけれど、手が震えているのが分かった。
「きっと、弟が帰ってきたんだ」
言うと同時に、先生によく似た綺麗な黒髪の男の人がドアを開けて入ってきた。誰もいないと思っていたのか、目の合った男性も、わたしがいることに少し驚きの表情を浮かべていた。
「あっ。悪い」
「峻作!」
先生は扉の方に駆け寄り、出て行こうとする彼を呼びとめた。
「本当にごめん。玄関の鍵かかってたから。誰もいないと思った」
もう一度わたしの方を見て頭を小さく下げながら、その男の人はまた部屋を出て行こうとする。
「ちょっと、待て、待て」と、それを慌てて制して、先生は改めて、と紹介をしてくれた。
「弟の峻作。よろしくね」
「いいから」
頭をポンポンとたたかれ、照れているのか、ぶっきらぼうにその手を払いのけようとする仕草が可愛らしかった。
兄弟のいないわたしには、その光景がとても微笑ましく見えた。
「はじめまして。前宮あかりです。こちらこそよろしくお願いします」手の震えはいつの間にか止んでいた。
乱れた髪をかきながら、その男の人は小さく頭を下げた。
わたしと同じ年くらいか、少し上なのかもしれない。
二人とも背が高く、顔立ちが優しいせいか、雰囲気も柔らかく感じる。そんな兄弟二人に見つめられ、わたしは少しドギマギとしたけれど、その反面どこか懐かしい気がして、怖いという気はしなかった。きっと二人が似ているせいだと思う。
「じゃあ、俺は上にいるから」
「ん」そう言って、右手をサッとあげる仕草を二人同時に行い、なんだか面白くなった。
先生がドアを閉め、またイスに座るのを見てから、わたしも腰を下ろす。
「先生と弟さん、似ていますね」
「そう思う?」いつもより楽しそうな顔で微笑んでいる。
「はい。目元とか、雰囲気が似ているように思いました。ちょっとだけ、弟さんの方がクールな感じがしましたけど」
「でも、ぼくの方がもてるんだけどね」
目をパチクリとさせるわたしを見て、先生は「ごめん、ごめん」と笑った。
「もてるって言っても、動物になんだよ。犬とか猫とかね、なんだかぼくに寄ってくるんだ」
そう言えば、ここへ来た時に猫が庭に入り込んでくるのを見かけた。あの猫も、先生に惚れてしまった一匹なのだろうか?
「餌をやるのはあいつなのに」クスクスと笑う。
「人にももてそうですね」
本心だったので、何の気なしに口にした。
先生は優しい顔はそのまま、でも、少し寂しげに言った。
「そうかな」
「はい。見知らずの私にも優しくしてくれますし、聞き上手な人って、人気あると思います」
お世辞だと思われてしまったのかと心配になったけれど、笑顔で答える。
「ありがとう」
そう言った先生の声は、いつものように戻っていた。あの、少し寂しげに感じた返事は、わたしの気のせいだったのかもしれない。
そこへ、さっきの灰色の猫が入ってきた。
「あっ。この子」
先生の足元の方にすり寄っていく。
「こいつは、カイって言うんだ」
しゃがみこみ、抱きかかえられたその子は、目を瞑って気持ちよさそうに先生に撫でられていた。なんだかそれがとても羨ましく感じた。
「他に、リクっていうのと、ソラっていうのがいるんだけど、今日は来てないみたいだね」
「可愛いですね。兄弟なんですか?」
「ううん。多分違うと思うんだけど、同時期に家に来たから、その可能性も少しあるかもしれないね」
「その子たちの名前は、先生が?」
「違うよ。峻作が判りやすい名前がいいって付けたんだ」
「それで、リクとカイとソラ」
「うん。安易だよね」目を細めて笑う先生が可愛らしかった。
「いえ。そんなことないですよ」
そう言ったところで、猫が不意に立ち上がり、そわそわと外に出て行った。
わたしもつられてそちらに視線を送ると、窓の向こうが、ゆっくりと暮れ始めたところだった。
「少し休んでいけばいい。今日はもう誰も来ないから」
そう言ってくれた先生の言葉に甘えて、わたしはソファで眠らせてもらった。
目が覚めた時、とっぷりと暮れてしまった空に映る月が綺麗で、久しぶりに穏やかな気持になれていた。
「すみません。こんなに眠れたのは久しぶりです」
「それはよかった。送って行こうか?」
先生がそう言ってくれたけれど、わたしは首を振った。
「大丈夫です。いつも、一人で帰っているので」
「そう? それでも、心配だな。気をつけてね」
診療所の前まで送ってくれると、先生は「月が綺麗だね」と呟いた。
わたしも、もう一度空を見上げた。今日の月はとても大きく、そして色濃く輝いていた。
「先生みたいですね」
驚いた様子で、先生がこちらを向くのがわかった。
「ぼくみたい?」
「はい」
空を見上げたまま答える。
「先生も、暗闇を優しく照らしてくれるような優しさがあります。許されるような気がします。だから、あの月と先生は似ていると思います」
先生の方を振り向くと、彼はこちらをじっと見つめていた。
ドキリと言う胸の音が響いた気がして、わたしは目を逸らしたけれど、先生がまだこちらを向いているのはわかった。
「あかり」
「はい?」俯き加減のまま先生の方を向く。
「いつでもおいで」
月明りに照らされた先生の顔がやけに切なくて、寒くはないのに何故か肌が粟立ち、わたしの胸はまたキュウと音を立てた。この音の意味するものを、わたしはまだ知らない。
「はい。また」
離れがたい気持ちはあったけれど、人づきあいの少ないわたしは、その先何を言ってあげればいいのか判らなかったので、その場を後にする選択肢しかなかった。
何度か振り返ると、先生はさっき話していた場所に立ったまま月を見上げているようだった。
「どうしたのか、訊ねるべきだったのかな」
悔やんだけれど、次に振り返るともう先生の姿は見えなかった。
久しぶりに、息苦しい気持ちをかかえないままアパートまで戻ってきていた。そう思った。けれど、それはとても僅かな時間でしかなかった。
郵便受けに、何か入っている。
廊下の電気は薄暗く、見間違いだと思いたかったけれど、間違いなく封書であることがわかった。
鼓動が一気に跳ね上がる。
どうして。どうして、わたしが落ち着いた気持ちを取り戻すと、それを一気に蹴落とそうとする力が働くのだろう?
悪いことが起こらなければいいと願っているだけなのに、どうして、次々にわたしを息苦しくさせるのだろう?
わたしの願いは、そんなにも多くの代償を払わなければいけないのだろうか?
見たくはないと思いながら、見過ごすわけにもいかない。
気づいてしまったからには、それが何かを見ておかなければ、ずっとずっと気が重いままになってしまうからだ。
「どうか、どうか、どうか。あの人たちからではありませんように」
祈るような気持ちで、玄関ポストに挟まれていた封書を取り上げた。
そして、表に返しホッとする。ダイレクトメールか何かのようだった。
「よかった」
ドッと冷や汗が流れ出た。
けれど、少し気持ちは落ち着いたものの、わたしの息苦しさは、前以上に重さを増していた。




