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003

 電話の音がした気がして、驚いて現実に戻された。けれどこの部屋には、もう電話はない。自分の鼓動の音だけがそこにあった。

 たまにこうやって頭の中で反響のように聞こえることがあり、わたしはそれでまた苦しむ。次は玄関をたたく音が聞こえるのでないかと怖くなり、家を出ることにする。

 穏やかな夢を見ていたのだろうか?

 あの人に出会ったのは、夢なのだろうか?

 この部屋にいると、今の現実と過去の現実、今の夢と過去の夢の境がとても曖昧になり、気が休まる思いがしない。

 森へ行こう。あの場所が、わたしの居場所なんだ。あの場所だけが、わたしを癒してくれる。

 長い坂道の中腹まで来ると、街を見下ろせる場所があり、その先が三差路になっている。

 左へ行くと高台にある大学へ繋がっていて、右へ行くと隣町の方へ続くゆるい傾斜道。わたしが行くのは、真ん中の、今はあまり使われることはない道だった。

 ここまで来ると一気に住宅は減り、人通りも少なくなる。大学生たちも、駅の近くから上って行ける道があるため、この先の道を使う人などほとんどいないと思う。

 大学への道の途中に、山の中の病院へ続く道もあるけれど、あそこもあまり人が近づくタイプの場所ではなかった。

 大きな白い車が何台も入って行くけれど、一台も戻って来ないとか、そうでなければ、真黒な車ばかりが下りてくるとかそんな噂があった。でも、わたしはそのどちらも見たことがない。

 ただ、それでも少しだけ周りに目を向けながら真ん中の道へと進んでゆく。カーブしている所まで来てしまえば、後は気にすることはない。その先には、わたしを傷つけるものはないのだから。


 いつものスペンサーの横で、わたしは少し目を閉じ、耳をすませてみた。

 なんだか今日は会えそうな気がしていたから。

 あの日「また会えるかな」と南山さんは言ったけれど、具体的な日付などを約束したわけではなかった。

 彼が微笑み「よかった」と呟いた後「きっとまたここで会えるよね」と言い、わたしも頷いた。ただそれだけのこと。

 聞こえてくるのは足音ではなく、遠くのシジュウカラの鳴き声と、風が幹を揺らす音と、金属の軋む音だけだった。

 ここのところ、会えない日が続いている。もちろん、南山さんは仕事をしているのだろうから、毎日ここへ来るはずもないと思うけれど、期待している自分がいた。

 胸の中の靄を吐き出すように、溜息をつきながら彼の名を呼んだ。

「スペンサー」わたしの呼び掛けに答えることはない。

「今、調子がいいな、きみはって思った?」

 端正な顔立ちの彼は、表情を崩すことなく、誇らしげだった。

「知ってるんだね。きみが好きなのはぼくだけでしょって」

 ちょっとだけ笑って、そうだよ。ごめんね、と呟く。

「ただね、今日また、電話の音が耳に響いたんだ」

 一呼吸、彼が頷く時間を開け、わたしはまた喋り出す。

「もう、ずっと前に電話なんて止めたのに。すごく近くで聞こえた。怖かったよ」

 思い返すだけで、ゾクリと寒気が走る。

「あの部屋ももう出ないとまずいかもしれないけど、どうしよう……」

 わかっていた。次の部屋に移ったとしても、きっと同じことの繰り返しになってしまうって。わたしがこんなにも焦り始めたのは、暖かい間はこの場所に来ていれば少し眠ることが出来るけれど、秋、その先にある冬になってしまえば、ここに来ることは難しくなってしまう。

 去年は毎日のように図書館に通っていたけれど、試験勉強などで使う子たちに迷惑な気がして、部屋にこもりきりになった。そして症状が悪化した。それが、想像しただけで怖かった。

 時々、こんな風に急にこの先のことが見えず、不安でいっぱいになることがある。

 こんな気持ちになるために、今日ここへ来たわけではなかったのに。

「ごめんね。スペンサー。こんなことが言いたかったんじゃないよ。ただでも、すごく不安なの」

 その時、横から声がした。

「何が不安なの?」

「あ」と言って「いえ」と付け足す。

 スペンサーがついに応えてくれたのではない。南山さんが、立っていたのだった。

「何かあったの? もし、きみさえよかったら、話してみない? ぼくに――」

 どうしようかと、考えが頭の中をグルグルと駆け巡った。

 話してしまいたい気持ちもある。誰かに聞いてほしくて仕方なかった。でも、つい先日出会ったばかりの人に話してしまっていいのだろうか?

 知らないからこそ、話せることもあるのかもしれないけれど、こんな暗い話を喜んで聞いてくれる人など、いるはずがない。

 暫く沈黙していると、また彼の声がした。

「大丈夫。ゆっくりでいいから、話してみて?」

 まただ。「大丈夫」という彼の台詞が、わたしの中に優しく溶け込んで、懐かしさに似た感情を刺激した。

 わたしは、彼の笑顔を見つめ、小さく頷いた。


 前回と同じ、白いウサギの描かれたステンドグラスの前の席に座っていた。

 どこから話せばいいのか、わからなかった。ただ、目の前にいる男性に導かれるような気持ちで、わたしはポツポツと語り出した。

「何年か前、一緒に住んでいたおばあちゃんが亡くなって、それから……」

 俯いて、テーブルの上で握っている手を見つめながらその先の言葉を紡ぐ。

「手を……」

「うん」

「手を……」

 わたしはまたゆっくりと話しだす。

「何度も何度も洗うようになってしまって、気がつくと、流しっぱなしの蛇口の前で手が冷たくなるほど立っていたりするんです」

 よくよく見なくても分かる。わたしの手は、年齢からするととても荒れていて、クリームは付けているはずなのに、所々割れて真っ赤になってしまっている。

 わたしを見ていた彼の目線が少し下がり、手の方を見たような気がしたので、恥ずかしくなって手をテーブルの下へ隠す。

 なんとなく、気まずい雰囲気がそこに落ちた。次の言葉を、必死に探す。

 でも、その先を紡ぐ事が出来なかった。

「何か、心配事があるみたいだったよね?」

 見かねてくれたのか、先を続けられないわたしに、彼はそう訊ねた。

「……はい」

 きっと話し始めたら止まらない。ただでも、ひとりきりで抱えきれそうにもない。わたしは話を続けてみることにした。

「手を洗う癖が出始めたのと同時期に、電話と、郵便と、来客がとても怖くなりました」

 向かい側に座る男性が、真剣なまなざしで小さく頷いているのがわかった。

「引っ越しをして、電話回線も止めたんですが、今もまだ、幻聴のように聞こえることがあって。部屋で眠ることが出来ないんです」

「だからきみは、ここで仮眠をとっていたんだね?」

 驚いた。それと同時に、俯いていた視線をあげる。

「知っていたんですか?」

「うん。知っていたというか、何日か前ここへ来たときに、きみがいつもの場所で眠っているのを見つけたんだ。声をかけようか迷ったんだけど、とても穏やかな顔で眠っていたから、遠くから見ていた」

 南山さんは微笑んでいた。

 寝顔を見られていたかもしれないという恥ずかしさもあったけれど、物音にも気付かないほど、ここでは眠れていた自分にも驚いた。

「いつも、ここで眠っているの?」

「いつもと言うわけではないんですが、ここへ来ることはとても多いです」

「きみは女の子なのに」

 女の子と言う表現に、なんだか苦笑してしまった。

「女の子だなんて。そんな年じゃないですし、ここへは誰も来ませんから。大丈夫ですよ」

「そうかな?」

「えっ?」

「だって、ぼくは来た」

 言われてみればそうだった。

 物音にはすぐ反応すると思っていた自分も、ここにいると靴音にも気付かず眠っていることもあったのだとすれば、ちょっと問題かもしれない。そう言えばさっきも、考え事をしていて彼が近くにいるのに気付いていなかった。ゾクリと、背筋が凍るのが分かった。

「ごめんね。きみを責めたわけじゃないよ」

 彼の言葉でハッと我に返る。

「はい……」

 返事してみたものの、胸の奥は曇っていた。居場所を失ってしまうのではないかと言う恐怖心からだった。

 その時「ねえ」と彼が言った。

 それはとても優しい声で、わたしは縋るように彼を見た。でも、目が合えば逸らしてしまう。こんな状況に慣れていないから、振舞い方がわからない。

「家では、全然眠れないの?」

「あ、いえ。全然というわけじゃないんですけど、夜、布団に入って眠ったりすることはなくなってしまいました。部屋にいると、夢と現実の狭間がとても曖昧になってしまって。夢の中でも、落ち着いていられません」

「それはとても疲れるだろうね」

 そう言われて、わたしは、何度か小さく頷いた。

「雨の日と、夜遅くに少しだけ気分の落ち着く時があるんです。でも、他はずっと水の中に潜っているような息苦しさがあって、あの部屋も、そろそろ移らなくちゃだめなのかもしれないって思ってます。だけど、移ったとしても、結局同じことになってしまう。わたし自身が変わらなければ、結局……」

 そこまでわたしが言うと、目の前に座る彼が、とても優しい笑顔で頷いていた。

「そこまでわかっているなら、きみはきっと大丈夫だよ」

「えっ? わかっている?」

「そう。ぼくに、もっと話をしてくれればいい。きみの心が軽くなるまで。そうすれば、きみはきっと立ち直る」

 とても自信のある言い方だった。

「そう思いますか?」

「そうだよ。ぼくは、その道のプロだからね」

「プロ?」

 彼はにっこりと、誇らしげに微笑んでいた。その笑顔に、わたしは少し、期待してみたくなった。

 一瞬だけ交わった、僅かな頬笑み。

「ごめんね。きみの話を遮っちゃったね」

「いえ」そう言ったわたしの心は、随分落ち着いていた。

 でも……。

「ねえ。それでね。提案なんだけど」

「はい」

「もしよければ、これから一緒に帰って、ぼくの家へ来ない?」

 思いもよらぬ彼の提案に、わたしは自分の耳を疑った。

「えっ?」

 家に招かれたような気がしたけれど、そんな、まさか。落ち着いたはずの心がまた別の意味で揺れ動いた。

 だけどそれは、聞き間違えなんかではないようだった。

「ほら。秋になる前に、ぼくの家に馴れるように」

「馴れるって、それは、どういう?」

「ん? 寒くなってきたときに、きみの逃げ場になるようにね。今から準備しておいた方がいいでしょう?」

「でも、そんな……」

「まぁまぁ、来てみればわかるよ。おいで」

 彼の何故か自信のある発言に、わたしは頷くことしかできなかった。

「オッケイ。それならじゃあ、歩きながら話そうか」そう言って彼は立ち上がった。

 わたしも慌てて立ち上がる。

「善は急げって言うしね」

 歩き出す彼のほっそりとした背中を追いかけて、わたしは少し早足になった。

 パタパタという靴音が園内に二つ響く。やはり、彼も同じ抜け穴を目指しているようだった。

「突然なんだけど、あかりって、呼んでもいいかな?」

 本当に突然名前を呼ばれてドキリとした。とても久しぶりのことだったから。それを悟られないように、小さく頷く。

「ぼくの呼び方も決めていいよ。これから、色々な話を聞かせてもらうんだから。きみが、違う。あかりが、安心して話せるようにね。ゆっくりでいいから。ふだん使い慣れた言葉遣いで、ぼくに話をしてほしい。いい?」

 彼が止まり、真剣な顔つきでこちらを見ていた。

「はい」

 返事をした声が少し震えた。けれど、彼はそんなこと気にしていないというふうに、にっこりと笑った。本当に優しい笑顔だった。


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