002
あの日から半月ほどが経ったある日、二度目の出会いが訪れた。
わたしがいつものようにスペンサーの隣の馬車に身を委ね、他愛のない話を彼にしていた時だった。
「最近また暑くなってきたね」
梅雨に入ったというのに、まるで雨の降る気配はなくムシムシしていた。それでも、スペンサーは平気そうな顔をしている。
「そうだね。ここは、とっても気持ちのいい風が吹いているもんね」
風にのって、ニセアカシアの甘い香りがどこからかやってくる。心地がいいと油断すると、体が冷えすぎてしまうこともあるので、タオルケットは欠かせない。それがずり落ちそうになってしまい、引き上げようとしたその時だった。
「この間も会ったね」
ビクリと体が強張る。
「ごめんね。驚かしたよね」
ゆっくりと声がした方を向き「あ、いえ。全然」と首を振ったものの、内心とても驚いていた。今回は物音に何も気づかなかったのだから。つかんでいたタオルケットを放し、もう一度男性の方に向き直す。
なぜだろう? 背の高いその人は、見ていると泣き出してしまいそうなほど優しい笑顔でわたしを見ていた。
「またここに来れば、きみに会えるんじゃないかって思って。もし良かったら、少し話をしたいんだけど、いいかな?」
わたしはまた驚いていた。こんな自分に会って、話をしたいと思う人がいるとは思っていなかったから。暫く俯いた後、なんとか頷いた。
「はい」
けれど、それを言うだけで、また俯いてしまう。気恥ずかしさと、今まで向けられたことがない明るい笑顔に、眼が眩んでしまいそうになったからだった。
「むこうの方に、座って話せる場所があるからそこに行こうか」
男性に促されるまま立ち上がり、ゆっくりと背中を追う。
アトラクションの近くに設置されているベンチは、雨ざらしになっているためどれも腐食が進んでいて、原形を留めているものは少なかった。
以前はあのベンチで、子供たちが遊具で遊ぶ姿を愛おしい目で親御さんたちが見ていたのだろう。そんなことを考えると、なんとなく子供たちのはしゃぎ声が聞こえる気がする。
「大丈夫だよ」
前から声がして、そちらに顔を戻す。
「歩き回っていたら、レストランだった建物を見つけたんだ。そこになら、座れる場所があるから」
わたしが無言だったからなのか、男性が振り向き声をかけてくれた。
「あ、そうなんですね」
ゆっくりと進む足取りに、数歩下がってまたついていく。
男性が歩いていく場所は、遊園地のサウスエリアの方だった。
こちら側はジェットコースターやゴーカートの跡地であり、見渡せる場所が広く、わたしがいつもいるイーストエリアとは雰囲気がまるで違う。
ここへ来るようになって、警備員のような人を見かけたことは一度もない。けれど、こんなにも見通しがいいと、誰かがこちらを見つけてもおかしくない。そんな不安が頭をよぎり、胸を灰色の何かが染め、きょろきょろと周りを見回してしまう。
そんなわたしに気づいたのか、前を行く男性が振り返り、頷いた。なんとなくその動作が「大丈夫だよ」と言ったように見え、少し落ち着く。
レインボーパレスレストランという横文字が、かろうじて読める程度の看板が建物の前に出ており、ガラスの割れたショーケースの中で、色褪せて埃をかぶった食品サンプルが倒れてしまっていた。
その時、昔この場所で母にクリームソーダを飲ませてもらったことがあることを不意に思い出した。
あの日も、今日のように暑い日だった――
まだ母が病気がちではなかった頃、多分きっと、幼稚園の夏休み中に水族館へ連れて行ってくれると約束していた。けれど仕事の休みがうまくとれず、楽しみにしていた水族館がダメになってしまい、わたしは拗ねていた。
食事に呼ばれても頑なに拒否し、大好きなグラタンを作ってもらっても「大嫌い」だと悪態をつき続け、目が合えば「ママのウソつき!」と言い放ち、母の謝罪に耳を傾けもしなかった。
そんな日の夜、わたしは興奮しすぎたのか、四十度近い熱を出してしまった。
驚いた母は、家にあった解熱剤をわたしに飲ませた。そうして熱は下がったのだけれど、わたしはその薬の副作用が出てしまい、今度は全身に赤い発疹が現れてしまった。
「ママ……いきが……くるしい……」
母は慌てふためきながらも近くの救急病院へわたしを運んでくれた。もうその時には、母への怒りなんてまるでなくなっていた。
わたしが点滴を受けているカーテンの向こうから、母と医師の話が聞こえてきた。
「あなたは、お子さんを殺すつもりなんですか?」
「――!」
母の息を殺す声が聞こえた。
「殺すだなんて……そんな……」
「早めに連れて来ていただけたから良かったけど、あのまま喉が腫れていたら、窒息していたかもしれませんよ」
「……すみませんでした」
医師のため息のような声が漏れた。
「お母さん。お子さん、何も食べていなかったんじゃありませんか?」
「あっ。……はい」母が小さく頷く声が聞こえる。
「どのくらい?」
「昨日の……夕飯からです」母の声が震えていた。
わたしたちの間にはカーテンがあって見えはしないけれど、きっと泣いているのだと思う。それが、自分のせいだとわかり、わたしも虚ろな中泣きだしていた。
「ママ……ママ……」小さく、震える声で呼んだ。
「どうしたの?」と、優しい声で母がカーテンを開けて覗きこんだ。
やはり、目が少し赤い。
「ごめんなさい」
わたしは大声で泣き出した。
「ママ、本当にごめんなさい」
「ママもごめんね」
力強く抱きしめる母の腕が震えていて、こんな思いを母にさせてしまったことが悔しくて、そしてとても悲しかった。
その数日後、やっと腫れのひいたわたしを連れ、母が働いていたこの遊園地にやってきた。
「乗り物は、具合が悪くなるといけないからね」とレストランに入り「今日はなんだって好きなものを食べていいからね」と、誇らしげに胸を張る母に頼んだのがクリームソーダだった。
いつものメロンソーダよりも少し高価な、クリームソーダ。
母も同じものを頼み、ふたりでアイスクリームを溶かしすぎて、噴きこぼしたあの日――
「どうしたの? 具合でも悪い?」
ボーっとしているわたしを覗きこみ、心配そうな顔をしている男性の顔が近くにあり、ハッとして我に変える。
「すみません。ちょっと昔のことを思い出していて」
現実に戻ると、ツーンと鼻の奥が痛くなり、目が潤む。
「そうだったんだ」
「はい」
彼は涙目のわたしを心配そうに見つめていたけれど、その涙が流れ続けない事を確認すると、にこりと笑った。
店内は真白なシーツのようなもので覆われていた。思いのほか荒れていない。もちろん電気など通っていないので少し薄暗かったけれど、ステンドグラスの施されている窓際の席なら問題なく話が出来そうだった。
わたしを店内の中央付近まで招いたところで男性は足を止め、「ちょっとそこで待っていてね」と言うと、窓に白いウサギが描かれた席に向かって行った。
彼は横を向き、大きく息を吸い込んだ後、シーツを綺麗にめくっていく。砂煙のようなものが一気に舞い上がるのが見えたけれど、わたしのところまでは届かなかった。
戻ってきた男性に「大丈夫だった?」と、訊ねられたので、小さく頷いた。
「多分、もう座れるよ」そう言って、おいでおいでと手招きをされたので、わたしは男性が用意してくれた席に向かい、 頭を下げながら腰を下ろした。店内の床などに比べ、やはり汚れは少なかった。
「ごめんね。こんなものしかないんだけど」
そう言ってショルダーバッグからペットボトル入りのお茶を取り出してくれた。
「あっ。すみません。ありがとうございます」
向かいに座る男性は、頷きながら自分のお茶のキャップを外した。すぐに、ゴクゴクという音が聞こえる。
その音を耳にするとわたしも喉が渇いたような気がし、躊躇いながらペットボトルを手に取り、キャップを外そうとした。その時――
「この近くの学校に通っているの?」と男性が言った。
驚いて顔を上げる。
「わたし、が、学生に見えますか?」
ペットボトルからゆっくりと手を下ろす。
「あっ。ごめんね。普段はあまり間違えたりしないんだけど、なんだか君は無防備に見えたから」
「無防備……」
「うん。いい意味でね。まだ世の中に染まっていない。純粋。そんな感じがする」
にっこりと彼は笑ったけれど、その言葉はわたしを少し暗い気持ちにさせた。
この男性が思っているほど、わたしはきっと純粋ではないと思ったからだった。
「どうかした? また昔のことを思い出してたの?」
俯いているわたしに気づいたのか、男性が顔を覗き込んできた。
「あっ。いえ。なんでもないんです」と言って、慌てて首を振ると、彼は少し不思議そうな顔をしてから、またにっこりと笑った。
「そういえば、まだ名前を訊いてなかったね。ぼくは、南山柊一」
「あっ。はい。わたしは、前宮あかりです」
「よろしくね」
そう言った後男性の手が動いたので、握手でもするのかと、わたしは反射的に手を隠してしまった。
水でがさがさに荒れた手に触れられたくなかったからだった。けれど、男性はペットボトルを手にしただけだったので、わたしもおずおずと貰ったペットボトルをつかんだ。
勘違いしてしまった自分がとても恥ずかしく、絶対に顔が赤くなっていると思ったけれど、何でもないふりを続け、ステンドグラスの方を見つめた。
(バレていませんように)心の中で、何回か祈った。
南山さんもステンドグラスの方に視線を注いでいたけれど、こちらに顔を戻しながら訊ねた。
「きみも、昔ここへ遊びに来たことがある?」
「あ、はい。子供の頃、この遊園地で母が働いていたので、よく遊びに来ていました」
「そうなんだ。ぼくも、結構来ていたんだけどね。こうなってしまってからは、すっかり忘れ去ってしまって。でもきみに会う何日か前、たまたま思い出したんだ。どうなってしまったのかって」
「はい」
「来てみたらすごいね。もうすでに大半が森に浸食されてしまっている。でもそれが、不気味というよりは幻想的に思えて、なんだか虜になってしまって、園内を歩いて回ったんだ」
頷きながら聞いていた。
わたしも、この閉鎖されてしまった遊園地に初めて訪れたとき、怖いという印象よりも、どこか夢のような、不思議な空間に迷い込んでしまったような気がした。
「そうしたら、あの日、回転木馬の近くで人影を見つけてね」
思い出したように、南山さんは微笑んだ。
「久々に、声をあげて驚きそうになったんだ」
「わたしも、声をかけられた時、本当に驚きましたから」
ふたりして、クスクスと笑いあう。笑ったのは久しぶりだった。
一瞬、南山さんがこちらを見た気がした。
「まあでもね、遠くから見ていたら女の子だっていうのがわかったし、なんとなく声をかけてみたくなってね」
わたしはまた頷く。
「思い切ってみてよかった。きみを見ていると、なんだかとても懐かしい気分になるんだ」
懐かしい気分というのは、わたしも初めて会ったときに感じていた。
けれど、恥ずかしかったのか、自分も同じだとは言えなかった。
「ごめんね。あんまり変なこと言っちゃいけないね」
「あっ。いえ……」
南山さんは少し自嘲気味に笑ってから、またステンドグラスの方を向き、遠くを見つめた。
沈黙が怖くなり、ペットボトルに手を伸ばす。
彼の方のペットボトルは、すっかり空になっていた。
「また会えるかな」
小さな声で彼が言った。
「はい」
わたしが返事をすると、今度はとても優しく微笑み、よかったと呟いた。
その優しい笑顔で、わたしは無性に切ない気持ちになった。




