001
流れ続けている水の音にハッとし、わたしは慌てて手を洗って蛇口を閉めようと腕を伸ばした。微かに指先が震えていて、赤く冷たくなっていることに気付く。どのくらいああして水をかけ続けてしまったのか。手のひらをぐっと一度握りしめてから、力の入りにくくなった手で蛇口を閉めた。
濡れた手を冷蔵庫にかけてあるピンク色のタオルで拭おうとしたけれど、既にしっとりしていたので、タンスから新しいものを取り出した。出て来たのは、黄色いふわふわした肌触りのタオルだった。優しく拭って行くと、少しだけ動機もおさまったような気がした。
「またやっちゃったな」
自嘲じみた笑みを浮かべ、ベッドの端に小さく丸まって座りこむ。
目についた読みかけの本を手に取ってみた。けれど、この本もここのところずっと同じページからしおりは進んでいなかった。けして本が面白くなかったわけではない。前のわたしならば、容易く情景を思い浮かべ、すんなりと物語に入っていけたはずなのに、近頃は文字が文章として脳内で変換されなくなっている。
どうしてこうなってしまったのか、それは考えたくない。その答えこそが、結局はわたしが動き出せない最大の理由であるから。今はただ、目を逸らしていたい。膝に顔を埋めてじっとしていると、鳥の鳴く声が聞こえた気がして顔を上げた。そっとカーテンに手を伸ばし、少し開けて窓の外を眺める。薄っすらと明るくなった世界がそこにはあった。
「そろそろ出掛けよう」と呟き、カーテンを閉めて着替えを始めた。
アパートを出て五分ほど歩くと緩い上り坂が始まり、団地のあたりを過ぎると、坂道の角度がぐっと増す。小さく呼吸を繰り返しながら、わたしはゆっくりと森に続くその道を上った。この先にあるお気に入りの場所へ行くためだった。
今年は四月が始まっても雪が降り、桜も例年に比べると一週間ほど遅かったというのに、梅雨もまだの今のうちから夏のような暑さが続いていた。
「はあ」
ひとつ息をつくと、しっとりと汗の光る額を、朝の清々しい風が撫でていった。
「静かだなぁ」
鳥の声も遠くで弱々しく鳴いているのが聞こえるだけだった。
人通りのない場所まで来たところで、大きく伸びをして森の香りを胸一杯に吸い込む。遅咲きの桜の木が蕾を付けているのが見えた。深呼吸のおかげか、肩がほんの少しだけ軽くなり、胸の奥につかえていた何かがはずれた気がした。
「もう少し」
また大きく伸びをして、わたしは足を速めた。
アスファルトの道路からただの砂利道に変わり、色褪せたパステルグリーンの門が道の行き止まりに見えてきたところで少し脇に入って、斜面を下ってゆく。けもの道とも言えないその道の先に、錆びついたフェンスに開く穴があった。
幾度となく人が侵入したのであろうその穴は、大人の男性でも楽に通りぬけることができるほどのものだった。補修などはされていない。わたしの体はスルリと穴を抜け、いつもの場所に向かった。
鬱蒼とした森の中には似つかわしくないレンガ色の歩道を進む。パタパタと響く靴音が心地よい。よくよく見渡せば、スイカズラの蔦が伸びていたり、コブシの花が咲いていたりする。
ここは、数年前経営破綻により廃園になってしまった遊園地だった。
綺麗に舗装された道ももう所々に割れ目が出来、その隙間から名前のわからない雑草などが伸びていて、蔦に拘束され朽ち果てていくだけの遊具たちが悲しげに子供たちの帰りを今も待っているような気がする。
気持ちが悪いと思う人もいるかもしれない。でもわたしは、不思議と不気味だという気持ちは感じない。それは、彼がいるからかもしれない。
「スペンサー」
寂れた遊園地の中で、そこだけは少し賑やかなメリーゴーランド。その中に一頭だけいる端正な顔立ちをした黒い馬。その子にわたしは名前を付けていた。
「夜の警備、お疲れさま」
たてがみの部分を優しく撫でると、どこか誇らしげな顔をしたような気がする。
「いい子だね」わたしはもう一度声をかけ、彼を撫でた。
ふとスペンサーの足元に目をやると、伸びて来ている蔦の葉に気づく。
「少し草たちが伸びて来ているみたい」
頑丈に絡みついてしまわないうちにと思い、屈みこんで細い蔓をむしる。少し綺麗にはなったけれど、きっとまた伸びて来てしまう。
「今度、ハサミを持って来なくちゃ」
辺りを見回していると、隣でスペンサーは困ったような顔をしていた。
「そうだよね。でも、大丈夫。また綺麗になるからね」
そう言ってわたしは手をはたくと、ファッションショップの袋に入れて物陰に隠しておいたタオルケットをとりだし、腰から下に折りたたんでからかけ、スペンサーの横にある馬車に座り体を預けた。
「ごめんね。今日もまたちょっとだけ休ませてね」
目を瞑ると、葉の擦れるような音の中に、どこからか不規則に金属が軋む音が聞こえてくる。
遊園地が閉園された頃はこの音が誰かの啜り泣く声に聞こえるとかで、近くの学生達が面白がって肝試しに来ることも多かったようだけれど、今はそれも珍しく、みなこの遊園地の存在を忘れてしまっているようだった。いつ取り壊されてしまってもおかしくはないはずなのに、そのような噂を聞いたことがないのもその理由からだと思っている。
忘れさられてしまった場所。ここは、わたしだけの場所だった。
風にそよがれていると、やっとウトウトとしてきた。部屋では安心して眠ることが出来なくなってしまったので、ここに来て仮眠するしかない。疲弊していたわたしはまどろみに逆らうことなんて出来るはずがなく、身を任せた。もうそこまで、夢の世界がわたしを招待してくれていた。
パキン――
ドキリという自分の心臓の音が、森の中に響き渡った気がしたのはその時だった。反射的に目を開けるけれど、音の先を確認する勇気はない。風、葉、金属。この場所にはそれしかなかった。そうであるはずだった。だからこそ、わたしは一日の大半をここで過ごしているのだから。
それなのに……。
普段耳にしなれた音の中に、他の何かを見つけたのは初めてのことで、一気に心臓が縮こまる。でも、音はまだ遠かった。
(気付かれてないよね……)
静かに身を起こし、そしてゆっくりと屈みこんだ。耳の感覚だけをフル活躍させ、辺りの気配を伺う。しんとした中に聞こえる風の音。いつも通りがそこにある。
さっき何か物音がしたような気がするのは思いすごしだろうか?
動物かもしれないと、気を抜きたくもなったけれど、あの重みのある音は絶対に人の足音だった。間違うはずがない。
(どうか、こっちへ来ないで。来ないで……)
祈るように目を瞑る。
けれど、その思いに反して足音はこちらへ近づき、多分コーヒーカップの辺りに止まった。
「……」
見つかってしまったのだろうか?
暫く息をすることさえ躊躇われたけれど、うっすらと目を開ける。すると、そこには静寂が落ちていて、不思議な感覚に陥った。このメリーゴーランドのむこうには誰かがいるはずなのに、いないような気がする。気づいていないうちにどこかへ行ってしまったのか。それとも、最初から誰もいなかったのか。
その時。
「大丈夫だよ」
森の中に静かに、とても優しい声が響いた。
(……大丈夫?)
怖いという感情は胸の奥にしまいこまれ、どちらかと言えば、懐かしい響きを持ったその声の主に興味さえ湧いた。
わたしが何も言えずにジッとしていると、また声がした。
「ここで、誰かに会うとは思わなかった」
それは誰に向けられた声でもなかったのかもしれない。けれどわたしは身を少し起こし、声のする方を伺い見た。
「こんにちは」
木々の間から洩れる光の中に、男性が一人立っていた。顔はよく見えないけれど、声の感じから、微笑んでいるような気がした。
「こ、こんにちは」
掠れる声で返事をする。ただ、この態勢で話すわけにもいかなそうなので、外に出ようとしたその時――
「あっ」
タオルケットに躓き、足を引っ掛けてしまった。痛くはない。落ち着いて態勢を整える。
「ごめんね」と小さく囁き、たてがみを撫でる。
転んでしまいそうになったけれど、幸いにもそこにスペンサーがいてくれたので、難を逃れた。
「大丈夫だった?」
さっきよりも近くで優しい声がした。
「あ、はい」
ゆっくり顔を上げると、やっとその人の顔が見えた。声と同じで、とても優しそうな人だった。それにどうやら、わたしを咎める様子はない。
ただ、この先どうしたらいいのだろうか? その困惑が顔に出てしまっていたのかもしれない。
「ごめんね、突然声なんかかけて」
「あ、いえ」と言って、わたしは視線を足元に移す。
少しの沈黙があった。
「ここへはよく来るの?」
「あっ」と言って顔を上げると、男性と目が合い、気恥ずかしさが込み上げる。
「はい。ときどき」
最近は毎日のようにここへ来ていたのだけれど、なんとなく言えなかった。
「ぼくは、今日が二度目。運がよかったってことだね」と、男性は笑顔で言った。
何故だろう? 初めて会うというのに、その笑顔も懐かしく思えた。
「邪魔をしてごめんね。ぼくはそろそろ戻るね」
私は「あっ」と言って、「はい」と付け足した。それ以上何を喋っていいのか分からなかったから。周りから見ればわたしは挙動不審に見えたかもしれないけれど、彼はそんなことまるで気にしていない様子だった。
だからなのか「また会えたら、よろしく」と彼が言った時、わたしは「よろしくお願いします」と衝動的に応えてしまった。
(わたし、今……)
そんな自分の行動に驚いていた。でも、彼は返事に満足したように、手を振りながら帰って行った。
男性の姿が見えなくなってから、わたしは安堵のため息を吐いた。
「はぁ。ビックリした――」
優しそうな人だったので怖いという感覚はなかったけれど、心臓がまだバクバクしている。久々に人と関わりを持ったからかもしれない。あれほど嫌だった人づきあいなのに、なぜわたしはあの人の前に姿を見せたのか。そして、また会えることを少しだけ期待していることが、自分でもわからなかった。




