016
雨粒が屋根を叩いている音が聞こえていたはずなのに、気付くと、雨は雪へと変わっていた。カーテンの外を眺めていると、思いがけない背中を見つけた。その背中は、わたしの部屋に向かっているように思えた。
玄関を開け、飛び出す。階段のところまで行ったところで、彼が気付いた。雪で髪や服が濡れていた。
「あっ。久しぶりだね」
わたしは頷き、早くあがってと、声をかけた。
「風邪ひいちゃう」
わたしはバスタオルを彼に渡し、空調を強めにセットし直した。
「家を出る時は小降りだったから大丈夫だと思ったんだけどね。やっぱり傘持ってくればよかったな。ごめん」
わたしは首を振る。
「インスタントの紅茶しかなくてごめんね」
マグカップを差し出すと彼は熱そうに紅茶を啜った。
「温まる」
わたしも、マグカップで冷えた手を温めた。
「最近、調子はどう?」
懐かしさのある優しい問いかけに、わたしは頷く。
「ここのところ、ずっと来なかったから心配していたんだ」
「ごめんなさい。わたしもそろそろ、ひとりで立たなきゃいけないって思ったから」
「うん。でも、寂しかったよ」
わたしは、彼の真剣な眼差しに少し照れ、紅茶に視線を落とした。
「だけど、困らせるだけだから」
「困らないよ」そう言う彼の顔が少し暗く見え、わたしは訊ねた。
「先生、どうかしたの?」
暫くの沈黙の後、彼が話し出す。
「……施設に入ることになったんだ。もう、戻れないと思う」
「嘘……」
逡巡している彼を急かすように、わたしは身を乗り出し質問を続ける。
「いつ?」
「今すぐにでも来いって言われている」
「……そう」
乗り出していた体が、ガクリと落ちたけれど、涙は出なかった。まだきっと自分の中で認めていないんだと思う。母を失ったあの時と一緒で……。
「会いに行ってもいい?」
「もちろん」そう彼は言って、だけど、と続けた。
「だけど……今の兄貴には会わない方がいいと思う」
「どうして?」
峻作さんは重い口を開く。
「今年は、すごく調子が良かったんだ」
「でも、秋に会った時には……」先生に会わないと決めたあの日、発作が始まっているようだった。
「うん。だけど、いい施設を見つけたみたいで、そこでのセラピーや薬でかなり時期を伸ばすことが出来ていたんだ。でもここへ来て、その反動なのか、熱と震えが酷くなった。俺もすっかり安心していたから、痙攣して倒れている兄貴を見た時は驚いたよ」
「先生は、大丈夫なの?」
彼は小さく頷く。
「今は、自分の部屋でぼんやりしながら、きみの名前を呼んだりしてる。会いたいって」
わたしも、ずっと会いたかった。
「だけど、自分で言ったことだから、きみを左右させるわけにはいかないって」
「あの時、手を放さなければ良かった……」
彼の寂しさを埋めてあげたかったはずなのに、わたしが、彼を苦しめてしまった。
峻作さんは首を振る。
「兄貴は、本当はすごく我儘なんだ」
「わたしもだよ」
「だけど、欲しくても欲しいって言わない。ふたりは、俺から見るとすごく似ていたよ」
先生を思うと胸が痛んだ。
「いつなら、会いに行ってもいい?」
「兄貴に、訊いてみる」
「ありがとう」
でも、わたしはまた大切な人の最後に立ち会うことが出来なかった。
先生が眠りについてしまったのは、出会って二度目の冬のことだった。
年が明けた後、わたしはひとりで先生の眠る砦へ出掛けた。
駅からタクシーに乗り、施設へ続く道の入り口で下してもらう。ザクザクと音を鳴らしながら雪と枯れ葉の積もった道を進んでいく。雪に煙る森の奥にひっそりと、その建物はあった。先生はここで眠っている。
父にまた来ると言って後にしたこの場所に、先生の為に来ることになるとは思わなかった。来るべきではなかったかもしれないと思いながらも、足は一歩ずつ前に進んで行く。
ガラスの大きな扉に閉ざされたその先へ歩みを進めようとしたその時、玄関から、十歳前後の男の子と女の子が飛び出してきた。人がいたことに驚きながらも、その子供たちはもうこちらを気にする様子もなく森の方へと駆けていった。誰かのお見舞いに来たのかもしれない。
わたしは深呼吸をする。胸の中に冷たい空気が沁み渡り、引き締まった気持ちで中に足を進めた。
「こんにちは。面会に来た前宮あかりです」
対応してくれたのは、前と同じ女性だった。
「こんにちは。色々大変でしたね」
父や、先生のことを言ってくれているのだと分かり、わたしは頭を下げた。
「お部屋は、こちらです」そう言って、以前と同じように案内してくれると、階段の途中で、女性が言う。
「中庭の桜ご覧になりましたか?」
「いえ。すみません。見ていないんですが……」
女性はこちらに振り向き、笑顔で微笑むと、また静かに足を進めて行く。そして、わたしの知っている部屋の前で足を止めた。
「南山さん、どうしてもこの部屋にって、希望をされていたんです」
「父の、部屋ですね」
先生と来た時のことを思い出す。
「あの後、南山さん何度かうちの先生とお話をされていたみたいですよ」
峻作さんの言っていたセラピーと言うのは、ここのお医者さんのことだったのだと気付いた。
「大分、調子が良かったと話で聞きました」
話で聞いたという表現に、きっと女性は何かあったのだと感じてくれたんだと思う。わたしの背中に手を伸ばし、力強く押し出してくれた。その優しさが、母を連想させた。
「ありがとうございます」
わたしは深々と頭を下げると、ドアに手をかけた。
「先生?」
眠っている先生の脇に置かれたイスに腰を下ろす。顔色は何も変わっていないようだった。父の時も思ったけれど、声をかければ今にも目を覚ましてくれそうだった。
「今日、ここへ来るのすごく迷ったけど、来て良かったよ」
なんとなく、スペンサーに話しかけていた頃のことを思い出した。わたしは、ずっと言いたかった気持ちを打ち明ける。
「ごめんなさい。あの時、先生の手を離すべきじゃなかったのに。いつもわたしは間違ってしまう……」
ハタハタと涙が流れて、床を濡らしていく。でも、先生ならきっと「大丈夫だよ」って言ってくれる気がした。
布団の上に出ていた先生の手を取った。暖かい。いつもの温もりだった。けれど、その手は固く何かを握りしめているようだった。
「このままじゃ指が痛くなっちゃうよ?」
握り上げ、指を一本ずつゆっくりと開いて行くと、ダイヤの形をした、緑色の宝石に似た何か転がり落ちた。
「これ、どこかで……」
見たことがあるような気がしたけれど、どこで見たのか思い出せなかった。拾い上げ、キャビネットの上に置いた。
「ここに置いておくからね」
以前、わたしと母の写真が置かれていたその場所には何もなかった。先生の部屋は、父の時よりも閑散としているように思えた。
「何か、持ってくればよかったね。今度来る時には、峻作さんに訊いてくるから」
父の時に果たせなかった、またという言葉を使い、わたしは急に寂しくなる。先生は、いつまで眠り続けてくれるんだろうか?
やはり、死んでしまうのと、この世界のどこかで同じ夢を見ていると思えるのでは違う。
「夢で、わたし達はまた出会えるかな?」
先生の開いた手を握り、わたしはそっと声をかけた。返事は無いと分かるけれど、頷いてくれた気がした。
そういえばさっき、あの女性が言っていた中庭の桜の木と言うのはどういうことなのだろうか?
「ちょっと寒いかな。ごめんね」そう言ってから窓ガラスに手をかける。
曇りガラスを少し開き、窓の外を眺めると、桜の木に綺麗に雪が降り積もっていた。そう思った。でも、よくよく見ると、雪の間に桜の花が咲いているのが分かった。
「やっぱり、この時期に咲く桜だったんだ」
半分ほど窓を開け、先生の方を振り向き、声をかける。
「先生、見える? 冬桜だよ」
先生が起き上がって、こちらに微笑んだ気がした。
「先生……」わたしの頬を濡らす涙を、先生に変わり、風が優しく撫でた。
「また来ます」
受付で挨拶をし、頭を下げる。
「ちょっと待って」
女性が慌てて奥の方に駆けて行き、綺麗な袋を渡してくれた。
「これは……」
「南山さんが、あなたがここへ来た時に渡してくれって置いて行った物よ」
「ありがとうございます」
受け取る時、手が震えてしまった。
ひとりで中庭に歩いて行く。想像の中の先生の背中を思い浮かべながら。
「やっぱり綺麗」
見上げた冬桜は、凛とそこに咲き誇っていた。
「わたしも、いつかあなたみたいになりたいな」
そう呟き、わたしは施設を後にした。
電車に乗り込み、渡された封筒を開けてみると、そこには束ねられた紙と、手紙が収められていた。
その手紙を手にすると、表に『気持ちの整理がついたら開けてほしい』と書かれていた。
わたしは言葉通り、その手紙を大切に封筒へ戻し、紙の束へ目を向ける。
先生が書いてくれていた小説だと思う。
わたしは、イスに深々と腰掛け、タイトルのついていない表紙を捲った。
小説の中では、ひとりの女の子が母と父を探す旅をしていた。
あの時、先生と話をしたとおりだった。
でも、ひとりで探すことが出来なくなった女の子は、ひとりの男の子と出会い、その子と旅をすることを決める。
男の子も探し物をしていて、丁度旅に出たところだった。
「何を探しているの?」女の子は躊躇いもなく訊ねる。
男の子は、躊躇いながら答える。夢への扉なんだ。
「夢?」
頷く男の子は、自分の抱えている病気の話を女の子に伝える。
「夢の扉さえあれば、あなたが眠りに付いた後も、この世界と繋がれるってことなのね?」
また男の子が頷く。
女の子は、男の子の背中を叩き、大丈夫、見つかるよと声をかける。
「行きましょう」
そして、旅を続けるうちに、女の子は両親の情報を手に入れる。
「嬉しい」涙を流す女の子の肩に、男の子は優しく手を添え、去ろうとする。
「どこへ行くつもり?」女の子に引き留められ、男の子は分からないと答える。
「それなら一緒に行ってもいいでしょう? ふたりの方が、心強いわ」女の子の言葉に、男の子は涙を流した。
女の子も一緒に涙を流す。
疲れたので、ふたりは森の奥にあった家に泊らせてもらう。そこで女の子は不思議な夢を見る。真白い部屋に、一つの扉がある夢だった。その扉を開くと、綺麗な湖の見える森へ続いていた。そして、その森の奥へ歩いて行くと、さっき見つけた建物が見えてきた。
驚いて目を覚ますと、男の子が心配そうに顔を覗きこんでいた。
「あったの! あったのよ! あなたが探していた扉が!」
男の子は目を白黒とさせ、また涙を流した。
「ここだったの。ここの扉だったのよ! こんな近くにあったんだわ!」
男の子は、扉が見つかったからなのか、眠りに付いてしまった。
女の子は女性へと成長を遂げてもひとりで両親を探し続け、やっとふたりのもとに辿り着いた。
両親に一緒に住もうと声をかけられたけれど、彼女は断り、あの男の子が眠る小屋へと戻っていく。
「彼はひとりで寂しがっているはずだから」
そして、彼女もまた眠りに付く。
蹲る背中を見つけ、彼女は肩を叩く。
「戻ったよ」
男の子もまた、男性へと成長を遂げていた。
「ありがとう。待っていたんだ」
そしてふたりは、その世界で幸せに暮らすのだった。
物語の最後に、先生が一言書いていた。
『本当はきみの物語を書いてあげたかった。でも、書いているうちに、ぼくの物語になっていた。ぼくを救ってくれた子の物語に。約束を破ってごめん。でも、これがぼくの望んだ未来だった』
先生は、わたしのことを本当に思っていてくれたんだと思う。
あの時、手を離してしまったことが、またわたしの胸を締め付けた。




