015
月の綺麗な夜だった。でも、少し肌寒い。隣を歩く先生が、不意にわたしの手をとったので、驚いて先生の方を向いた。
「具合でも悪い?」
「えっ?」
「手が、冷たいから」
「ううん。そんなことないよ」わたしは首を振る。
「そう?」
「うん」
「じゃあ、ちょっとだけこのまま歩いてもいい?」
わたしは頷き、暫く、手をつないだまま黙って歩いた。
「もう、大丈夫?」
先生の方に顔を向ける。それが、父のことを言っているのだとすぐに分かった。
父が亡くなった後、少しだけわたしは塞ぎこんでいた。だけど、思ったよりは受け止めることが出来ていた。最後に、一度でも会うことが出来たからだと思う。そして、あの日記と設計図。あれが、父が残した私たちへの愛であると思えたから。自分は愛されていたのだと思えたから、乗り越えることが出来た。
「ありがとう、先生。先生がいてくれたから大丈夫になれた」
「それなら良かった」
何となく先生の顔を見るのが恥ずかしくなり、丸く大きな月に視線を逸らした。
「きっとぼくは……」公園の近くまできたところで、先生が話し始める。
「きっとぼくは、きみとの約束を破ることになると思う」
「……約束?」
「うん。約束」
暫くわたしは考えた。
すると先生は、小さくつぶやく。
「約束っていうのは変かな。きみに言ったある掟を、ぼくが破るだけなんだ」
「掟――」
「ぼくを好きになったらいけないって言ったよね」
あの日のことを思い出す。
わたしがずっと破って来た約束だった。
『ぼくを好きにならない、隠し事をしない』
「そう言えば、そんなこともあったね。わたしね、先生の弟さんにも言われたことあるの」
なんとなく罰が悪くて、落ち着かなくなる。わたしは話の続きを促すように先生に訊ねる。
「その掟を破るっていうのはどういうこと?」
「言葉通りだよ」
先生がわたしを見つめた。
「ぼくが、きみを好きになった」
好きになったというセリフが頭の中をグルグル回る。
わたしが先生を想っていたことが分かってしまったんじゃないかと思い、青ざめた後、もう一度先生の言葉の意味を考え、今度は顔が赤くなった。
「先生が……わたしのことを好きになってくれたの?」
「そうだよ」
胸が高鳴り、その音が先生に聞こえてしまうのではないかと、気が気ではなくなった。
「言い出したのはぼくなのに、約束を破ってごめん」
わたしは、かぶりを振る。自分の気持ちを言うのならここしかないと思う反面、言ってもいいのか分からなかった。モジモジとしていると、先生は空を見上げ言った。
「あっ。流れ星!」
「えっ?」
わたしも空を見上げる。そこには先生に似た月がわたしたちを照らしていた。
「見えなかった」
「冗談だよ」
一瞬時が止まったような気がした。見上げる空模様が先生の顔に変わり、わたし達は最初で最後のキスをした。
身じろぎも出来ずにいると、先生が、いつものように頭を撫で、帰ろうと言った。
そしてわたしは、自分の気持ちを伝える機会を永遠に失ってしまった。
あの遊園地が取り壊されると耳にしたのは、吐く息が白く見え始めた頃のことだった。
買い出しに行った帰り、小さな公園を近道として横切っていると、よく孫を遊ばせに来ているおじいさんと、たまに寄ることのある魚屋のおじいさん二人が話しているのが聞こえてしまった。
「森のあの場所、ついに解体が決まったそうだね」
「随分ほったらかしにされてたねぇ」
背筋が凍りつくのが判った。
明確なことが言われていたわけではなかったし、他の情報は何も聞けなかった。ただ、森のあの場所というのは、間違いなく遊園地のことだということはわかった。
誰の記憶からも忘れ去られてしまったと思っていたあの場所が、まさかこんな形で蘇ってくるなんて。
いつ壊されるのだろうか? 壊された後は、どうなってしまうのか? そしてわたしは、居場所だと思っていた場所を また一つなくしてしまうのだ。そんなことを考えながら歩いた。
先生はこのことを知っているのだろうか?
部屋に戻ってきたものの、さっきの話が頭から離れなかった。わたしは玄関に荷物を入れるとすぐに、診療所に向かった。
「先生?」
この時間、先生はここで本を書いていると思ったのだけれど、呼びかけても返事はなかった。
庭の方へまわってみる。カーテンのひかれている窓ガラスの向こうを覗き見たけれど、人影は見えなかった。寂しさが増してくる。遊園地が今どうなっているかだけでも確認をしに行ってみようかとも思ったけれど、そこに先生がいなければ、これ以上の寂しさに押しつぶされてしまいそうな気がして、動けなかった。
どのくらいそこにいたのか。冷え切った体がとても重い。
「先生?」
もう一度呼びかけてみたけれどダメだった。仕方がない。今日はもう帰ろう。
夕焼けに染まる空があまりにも綺麗で、切なくて、心細かった。あの頃、遊園地の帰り道、また来れるとわかっていても、何故か遠く感じたあの気持ち。その遠さが、現実になるんだと思うと、怖かった。
「思い出も、消えちゃうのかな」
冬の近づいている夕暮れはすぐ終わってしまう。濃藍色の空を見上げながら、わたしは呟いた。
部屋に戻ってからも、ずっと同じことを考え続けていた。
母との思い出も、先生との思い出も、それがわたしのすべてであるのに、この先それが奪われてしまうのならば、わたしの存在意義はまたなくなってしまうのだろうか?
今ここで泣ければ、楽になるのだろうか?
自分に問いかけてみたけれど、結局そのどちらの答えの行きつく先も、ノーだったと思う。
たとえ、涙を流せていたとしても、きっとこの思いが晴れることはなかっただろうし、たとえ、先生に話を聞いてもらうことが出来たとしても、先生を困らせるだけになっていたはずだ。
わたしは、わたしの力だけで、立ち上がれるすべを見つけなくちゃいけない。でも、その力は、やっぱり誰かに支えてもらってしか発揮できない。
弱い自分に嫌気がさす。
どうしようもないとわかっているのに、先生にとても会いたかった。
先生に会えたのは、その三日後だった。
坂の上にある先生の診療所へ向かう途中、あの、ミニカーのような黒い車が横を通り抜けていき、わたしが振り返るのと同時にブレーキがかかった。
「あかり」
車から先生が下りてきてくれた。
「先生!」
「ぼくのところに来たんだよね?」
「うん」
「どうしたの? 何かあった?」
頷いたものの、どこから話せばいいのか。
ただでも、伝えなければならない。
「あの遊園地、壊されてしまうって」
先生はきっと知っていたのだろう。驚いた様子はなかった。
「車で話そうか」
わたしは小さく頷いた。
先生の車は近くの公園の駐車場まで行くと、大きな銀杏の木の下に止まった。
「ごめんね」
「知ってたの?」
「一ヶ月ほど前におじから聞かされたんだ」
「じゃあ、本当なんだ……」
「ごめん」
わたしは首を振る。怒りや、不信という気持ちはなかった。一ヶ月前にすぐ聞かされていたとしても、わたしはどうすることも出来ずに今と同じ状況になっただけだったと思う。
「いつ?」
「来年の春だって話だった」
「その後は? あそこは何になるの?」
「まだ本決まりではないようだけど、おじの病院の新しい科が出来るようだった……」
「病院になるんだ……」
面影も、思い出も消えてしまいそうだった。
「そしてもう一つ謝らなきゃいけないことがある」
わたしは胸を抉られるような思いで横を向いた。
黙りこむ彼の姿に、ある思いが湧きあがった。
「先生、まさか……症状が出始めてるの?」
ここのところ会えない日が増えていた。去年よりも、早い気がした。
先生は答えなかったけれど、小さく頷いた。
来る日が来てしまったという思いでいっぱいになり、急に目の前が暗くなった気がした。もちろん、夕暮れはまだ遠い。
「まだ、発作のようなものだけど、もしかすると……」
「先生……でも、去年みたいに春になれば戻って来てくれるんでしょ?」
「……」
沈黙の時間が怖かった。
「そうでしょ?」
懇願するような目で見つめると、やっと先生が重い口を開いた。
「わからない。でも、もう、戻れない気がする」
止めどない涙が溢れる。
「ごめん。きみに重荷を背負わせるなんて言ったこともあったけど、もし、ぼくが発症したら、忘れてくれていいからね」
「……どうして、そんなこと言うの? それだけが、わたしが立ち上がるための希望だって知ってるでしょう?」
「知っているから、後悔しているんだ」
「……後悔? わたしに出会わなければ良かった?」
「違う。そうじゃない」
「じゃあ、どういう意味なの?」
「ぼくも、きみのお父さんと同じように思うようになったから」
わたしは父のところで見たあの手紙の一文を口に出した。
「ぼくを忘れて幸せになってくれ?」
あの日記や写真は、父が死んだ後、先生のところに送られ、最終的にわたしのところへやってきた。
父のことは、ずっと憎んでいた。だけど、今は許せている。それは、父の姿を見てあの紙を見つけることが出来たからだと思う。
だけど、先生はどうだろう? 今先生がいなくなってしまったら? わたしは、きっと元通りになってしまう。
「まだ決まったわけではないでしょう?」
「……」
先生は何も答えなかった。その沈黙は、ある意味決まっているのだと言う返事に聞こえた。
「いいよ。分かった」
わたしはそう言うと車のドアを開けた。
「先生がそれで安心するなら、わたしはもう先生を忘れるね」
「あかり」先生の手がわたしを引き留めた。
わたしは首を振る。
「心配しないで。わたしも、いつかはひとりで立たなきゃいけないから」
いつの間にか、頬を伝っていた涙は乾いていた。
遊園地も、先生も、なくなってしまう。居場所と希望その二つのものがあった所に今あるものは、暗闇と恐怖だけだった。
それでもわたしは先生の手を振りほどき、車を降りた。ずっとずっと後悔することになると分かっていた。縋りついて涙を流せば、先生はきっと甘やかしてくれたかもしれない。だけど、出来なかった。先生に安心して眠りについて欲しいと、わたしの胸の奥が抗って仕方がなかったから。




