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014

 蝉の声が遠くなり、夕闇が早くなった。そして、朝晩の冷え込みが始まっていた。

 少しずつ、去年のことが頭を過る。先生が眠りについてしまう日が近くなっていた……。

 でも、わたしはそのことを顔に出しはしないと決めていた。今日、お父さんに会いに行く。

 診療所の前に、先生の車が既に止められていた。横を通って診療所のドアを開ける。

「おはよう」声をかけると、峻作さんが出てきた。

「今日、行くんだね」

 わたしは小さく頷く。峻作さんも、先生がいない時にわたしの話しなどを聞いてくれていたので、父のことを心配してくれていた。

「怖い?」訊ねられ、わたしはまた頷く。

「父の姿は記憶の中に少ししかなくて、もしかしたらその記憶すらも、わたしが勝手に作り上げたものかもしれないと思うと、怖い……かな」

 峻作さんは、先生と同じように、わたしの頭を撫でてくれた。

「気をつけて」

 なんだか、ふたりの優しさが似ていて、暖かい気持ちになれた。

「行ってくるね」そう言ったところで、二階から先生が下りてきた。

「来たね。行こうか」

「はい」

 峻作さんが小さく手をあげ、それに応えた先生はゆっくりと車を出発させた。

 最後の砦で出会った男性の情報をもとに、先生がまた連絡を取ってくれた。そして、その中に、父の名前があった。

 車で一時間ほどの場所だった。近いのか遠いのか分からない。でも、五十キロメートル程の場所にずっと父はいたのだ。まだ同じ世界にいたことが、どこか不思議で、あるような、ないような、不確かな気持ちでいっぱいになる。

 父が家を出てから二十年程が立っていて、眠り続けている年数も同じくらいだと言う話だった。母やわたしを心配させないためだったのか、分からない。

 わたしは、父が眠りについている街に近づくたび言葉を失って言った。

「大丈夫。ぼくがついてる」

 そんなわたしを見透かすように先生が声をかけてくれた。

「うん」

 わたしは、先生の方を一度見た後、窓の外に目を向ける。金色に染まった田園風景が続いていた。


 最後の砦と同じように、森の奥に簡素な建物があった。車を降りると、わたし達はゆっくりと歩みを進めた。緊張が最大限まで高まっていて、わたしは建物の中に足を踏み入れることが出来なかった。

「少し歩こうか」そう言ってくれた先生の背中を追う。

 子どもたちでもいればサッカーが出来そうな程の中庭があり、そこに大きな桜の木が植わっていた。遊園地で、先生とお花見をしたことを思い出し、近づいて良く見ると、小さな蕾が付いていた。

「先生、桜が……」わたしの指さす先を先生が見つめる。

「本当だ、珍しい。冬桜かな……」

 先生はそう言ってわたしの手を握った。

「大丈夫だよ」

 見つめ合い、わたしはそうだよねという意味を込めて頷いて見せる。行ける、行ける。そう心の中で念じた。


「前宮あかりです」

 受付で名前を告げると、年配の女性が対応してくれた。

「前宮慎吾さんのお子さんですね。こちらです」優しい声だった。

 静まり返っている施設内をゆっくりと進む。面会に来る人などは殆どいないようだった。

「どのくらいの方たちが眠っているんですか?」

 わたしは沈黙が怖くなり女性に訊ねてみた。

「ここは、年齢で言うと三十代以上の方たちの施設になります。今全体では、四十人ほどですね。男女の比率で言うと、男性の方が少し多いんですよ」

 それならば、父も寂しくなかったかなと思った。いくら眠っているとしても、友人がいないのはきっと辛かっただろうから。

 女性の足が、ある部屋の前で止まる。

「ここですよ。ごゆっくり」頭を下げると、女性は戻って行った。

 わたしは扉の前で深呼吸し、もう一度気合いを入れ直した。

 ノブに手をかけたところで、先生が肩をポンと叩いた。わたしは振り向き、大きく頷いた。

 扉を開けると、まず目に入ったのは大きな窓ガラスだった。開け放たれていて、さっき見て来た桜の木がとてもよく見えた。

 その脇に、ベッドに眠っている父の姿があった。わたしの記憶の中にある、父の姿と何も変わらなかった。眠ってしまったからなのか、年齢よりも若い気がする。

「……お父さん?」

 当時、わたしは父のことを何と呼んでいたのだろう? なんだか馴染まなかった。それでも、わたしは父に呼びかけ続けた。今にも目を覚ましてくれそうだったから……。

「お父さん……」

 頬から伝った涙が、父の布団に落ちた。

 少しずつ落ち着きを取り戻すと、周りが見えてくる。一般の病院などとは違い、テレビや花瓶などは置かれておらず、ベッドと、小さめのキャビネットがあるだけだった。

 そのキャビネットの上に写真立てがあり、幼い頃のわたしと母が笑っている写真と、母のお腹が大きく膨らんでいる時の写真が飾られていた。二枚とも、わたしのアルバムには入っていない写真だった。母の写真を手に取ってみる。母もとても若々しく、最高の笑顔を向けていた。カメラを構えていたのは、きっと父なのだろう。ふたりが愛し合って、わたしが産まれたのだという証明に見えた。

 先生が覗きこんでいるのが分かったのでその写真を渡すと、ふっと微笑んだ後、真剣な顔つきに戻った。

「これ……」

 写真に何かあるのかと、見ていると、写真立ての裏を開け始める。

「何か入ってる気がする。見てもいい?」

 わたしは頷き、もう一つの方の写真立ても開けてみた。

「こっちにも何かありそう」

「これは、手紙かな?」

 先生が取り出してくれた紙を受け取る。わたしの方には少し大きめの紙が綺麗に折りたたまれていた。先生の渡してくれた紙からゆっくりと開けてみる。

「日記……?」

 最初の一行には、ねむいと一言が書かれている。

 その先は、日記のような、母に向けての手紙のような文章が綴られていた。

『かおる、きっと心配しているだろうね。ごめん。あかりも、きっと待っているね。出てくる時あかりに、行ってらっしゃいと手を振られ、ぼくは泣いてしまいそうだった。すぐ戻るよと、嘘をついてしまった。ごめん。ぼくはもうあの家に戻ることは出来ないだろう。

あかりはまだ小さい。ぼくのことなんかすぐに忘れてしまうはずだ。かおる、ぼくを気にせず、新しい人を見つけてくれ。

熱が下がらない。眠気が止まない。かおる、会いたい』

 所々、ペンの色や太さが変わっていた。きっと、何日にもかけて書いていたんだと思う。そして最後の文章は、手が痺れてしまったのか、会いたい、の文字が大きく震えて書かれていた。

「お父さん……」わたしの目からは大粒の涙が止めどなく溢れだしていた。

 もう一枚の紙を広げて見る。

 それは、手書きされた建物の設計図だった。図面の外に矢印で抜き出された文字があり、ぼく・書斎、かおる・キッチン大き目、子供部屋と書かれていた。日付は、わたしの生まれる半年ほど前になっていた。

 わたしは今まで一軒家に住んだことはない。お父さんは、自分の設計した図面で家を建てるつもりだったんだろうか? ……分からない。だけど、とても大切にして来たものだと言うことは分かった。

 もう一度綺麗にたたみ直し、写真立てに戻す。

「また見せてね」お父さんの耳元で声をかけた。勿論、返事はなかった。わたしは零れ落ちる涙を拭って、外の桜に目を向けた。

 せっかく先生に連れて来てもらったのに、何を話せばいいのかわからず、わたしはベッドの脇に置かれていたイスに座ったまま黙っていた。

 でも折角来たのだからと、そっと父の手をとってみると、ひんやりとしていた。それは父の命の火の燃え尽きを示しているようで、とてつもなく悲しくなった。

 込み上げて来る涙をぐっとこらえ、父の手を摩った。腕も指も痩せ細ってしまっているけれど、ごつごつとして、大きかった。昔はきっと、この手でわたしを撫で、抱きしめてくれたはずだった。

(ごめんね、お父さん。覚えていなくて。それに、ずっと恨んで来ちゃったこと、本当にごめんね)

 我慢していたはずなのに、また涙が零れていた。

 暫くそんな時間を過ごしてから「そろそろ帰ろう」と、先生に告げると、先生は小さく頷いた。

「でも、まだ時間はあるよ」

 わたしは首を振る。

「いいの。また来るから」

 そう言って、布団の中に手を滑り込ませ、もう一度お父さんの手を握った。その手は少し暖かくなっていたようだった。わたしの温もりが命の火が、少しでも伝わっていればいいと思った。

「絶対に来るからね」

 声をかけ、わたしたちは施設を後にした。


 だけど、その後わたしたちが父の施設を訪れることはなかった。

 会いに行った三日後、父の死亡の連絡が先生のところに届いたから。

 父はわたし達が訊ねるのを分かっていて、待っていてくれたのだろうか? そんなことを考えると、胸が締め付けられた。


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