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013

 山道を越えている途中で霧が濃くなり、今日中に部屋へ帰るのは無理そうだった。花火を見ていて冷え切ってしまった体を暖めたくて、わたし達はどうするべきか迷っていた。

「どこか、泊れる場所があればいいんだけどな」

 先生は、そう言いながら慎重に車を走らせていた。

 その時左手にペンションの看板を発見し、その看板のすぐ近くにあった道を入っていくことにした。

「やっていればいいけど」

 時計の針は、深夜の〇時を回ったところだった。

「そうだね。もう、眠ってしまっているかも……」

「うん」

 暫く走っていくと、綺麗な建物が見えた。でも、そのフォルムは、ペンションやホテルと言うよりは、病院のように見えた。

「行ってみよう」

 車を止め、先生が下りて行くので、わたしも急いで後を追った。

 夜の森を怖いと思う気持ちはなかったけれど、知らない景色を見ると、心細い気持にはなる。

 先生の呼吸の音だけが頼りだった。

「こんばんは」

 中にあかりが付いていたので、わたし達はゆっくりとドアに手をかけた。

「すみません」

 受付のような場所で声をかけてみるけれど、誰も出て来ない。

「時間も遅いし、あまり大きな声も出せないよね」

 先生が耳打ちのようにわたしに囁く。

 わたしも、頷くだけにしてみた。

 その時足音が近づいてくる気配がし、振り向くと、白髪の男性が近づいてくる。

「すみません。霧で迷ってしまって。この辺にペンションがあるようだったんですが、ここで宜しいですか?」

 先生が訊ねると、その男性は静かに首を振る。

「あの看板は、少し紛らわしい場所にあるんだ。もう少し進んだ先だったね」

「……そうですか」

 先生はそういうと、戻ろうかと、わたしに小声で言う。

「うん」

 間違えてしまったのなら仕方がない。もと来た道を戻ろうとしたその時、背後から声がした。

「いいよ」

「えっ?」

「ついておいで」そう言って、わたし達を中へ案内してくれた。

 廊下を歩く男性の背中に、先生が訊ねかける。

「ここはもしかして病院なんですか?」

 男性は首だけを向け「いや。ここは病院なんかじゃない。最後の砦と言うべきかな」と、微笑んだ。

「最後の砦、ですか?」

 わたしは、ふたりの会話を黙って聞いていた。

「そう。ここは、とても珍しい病気を患ってしまった人たちの、最後の砦なんだ」

 なぜか胸が騒ぎ、先生や、父の姿が頭をよぎる。先生もきっと同じだったのだと思う。まさかと言って、訊ね返す。

「まさか、睡眠障害の患者達ですか?」

 男性がピタリと足を止める。

「知っているのかい?」

 先生と一瞬視線を交じり合わせた後、一緒に、わたしも頷いてみせた。

「まさかなぁ……」

 そう言って、男性は綺麗にそられている顎を撫でた。


「そうか、きみも、きみのお父さんもそうなのか……」

 応接間のような場所に通してもらったわたし達は、知っていることを話してみた。

「運命なんて信じちゃいないんだけど、ここを建ててから、こういうことが何度かあるんだよねぇ」

「患者さんたちが辿り着くんですか?」

「うん。経路はいろいろあるけどね、きみ達みたいに迷い込むこともあるし、誰かに聞いて来ることもある」

 けれど、父の姿はここにもないようだった……。

「すみません。ひとつお訊ねしてもいいですか?」

 ずっと黙っていたわたしも、どうしても訊きたくなり男性に声をかける。

「どうぞ」

「他にも、ここのような最後の砦となる場所があるんでしょうか?」

「お父さんを探しているんだね」

「はい」

「あることはあるよ。私の知っている限りでは、国内に五ヶ所」

「五ヶ所」

 わたしは繰り返す。多いのか、少ないのか判断が難しい数ではあったけれど、期待は出来る。

「教えていただくことは出来ますか?」

 わたしは、期待のような、不安のような気持ちで問いかけた。

「まぁまぁ。お嬢さん待ちなさい」

 男性は諭すように微笑みかけてきた。

「今日はもう遅い。明日きみ達が立つまでにはリストは用意しておいてあげるから。今日はゆっくり休みなさい」

 男性は先生の顔を伺い、きみは……少し話をしようかと、言い、先生は小さく頷いていた。


「お世話になりました」

 外に出ると、雨はすっかり上がっていた。けれど、施設は朝でも夜のように静まりかえっていた。

 昨日は分からなかったけれど、小さな湖が施設の奥に見える。静かで綺麗な場所だった。

「はい。お嬢さん」

 そう言って男性はわたしにリストを渡してくれた。

「本当にありがとうございます」

「彼の傍にいてあげてくださいね」

 そう微笑みかけられ、強く頷いた。

 昨夜、先生たちがどんな話をしたのか、わたしには分からない。けれど、先生が少し表情を和らげている気がしたので、きっといい話が出来たんだろうと思った。

 男性に手を振り、わたし達は自分たちの街へ戻る。

 言われた通り、ペンションへの道は、少し先に行ったところにあった。けれど、わたしたちはきっとあの場所に迷い込むことが決まっていたような気がする。

 母が父の病院を見つけたように、きっと、わたしと先生も、何かに引き付けられたんだと思えた。


 花火旅行から帰った後、先生は「きみの胸の内をすべて吐き出してからお父さんを探しに行こう」と提案した。

 わたしは頷いた。一つずつ片付けて行きたかったから。

「それじゃあ、きみの、お母さんが亡くなった時の話を聞かせて」

 わたしの、セラピー最終段階だった。

 目を閉じ、少し回想してから頷く。

「前も言ったかもしれないけど、覚えていることって、かなり少ないの」

 先生は小さく頷く。

「わたしの母はね、自殺したの」

 あの日は、とても寒い日で、本当は母と一緒に布団に入りたかった。

 けれど、出来なかった。

 病気がちだった母は、入退院を繰り返していたけれど、わたしが春休みになってからは家で安静にするという約束で、帰宅が許されていた。だから、出来るだけわたしは母と一緒にいたくて、お風呂に入るときも、眠るときも、傍にいた。 そして、いつでも目を光らせていた。母の調子が悪くなっていないか。極論を言えば、母がちゃんと息をしているかを、こっそりとわたしは確認していた。

 でも、結局体調を崩したのはわたしだった。三八度以上の熱が出て、寒気がすごくて、お決まりの肺炎のような咳が止まらなかった。

 もちろん、そんなわたしの傍に母が来ることは論外だった。その頃はまだ、祖母も元気で母やわたしの看病をしてくれていたから、体のだるさも相俟って、母を少し蔑ろにしてしまったのかもしれない。

 多分あれは、体調を崩してから三、四日目のことだったと思う。体はだいぶ良くなっていた。

 夜中目の覚めたわたしは、母の体調を伺い見に隣の部屋のふすまを少しだけ開けた。薄暗い部屋の中でもわかった。布団の中に母の姿がないこと。いつもならそこにある膨らみが、まるで見てとれなかった。ここにいないなら、トイレか、キッチンかお風呂場しか思い当たらない。

 わたしは、まだ少し残る咳をしながら部屋を出た。廊下の向い側がキッチンだった。

「ママ?」

 曇りガラスの向こうに人影を感じることはなく、わたしは少し不安になって、もう一度母を呼んだ。

「ママ?」

 返事はない。

 トイレだろうか?

 けれど、廊下の突き当たりにあるトイレの電気は付いていなかった。

「ママ?」

 また一度呼びかける。さっきよりも大きな声で呼んだつもりだったけれど、震えてうまく声は出せなかったように思う。

 今考えると、その辺りから、わたしはきっと悪い予感に気づいていたのかもしれない。

 何度か母を呼んでいると、祖母が部屋から出てきた。

 どうかしたのかと訊ねられ、母がいないことをわたしは告げたのだと思う。

「ここの辺りから、記憶があやふやなの」

 先生は黙って、先を促すように頷いた。

 祖母がキッチンへの扉である曇りガラスを引くと、そこには当然のように暗闇があった。そして、その中に母の姿もあった。冷たいフローリングに体を横たえて、眠っているようだった。

 目の前で何が起こっているのかわからない間に、母の体は病院へと運ばれていき、わからないまま、母は薄暗い部屋に寝かされ、白い布をかぶせられてしまった。

 わたしは、母とは別の部屋に一人残され、朝方まで白い壁の部屋で窓の外を見つめ続け、その先にある記憶は、母の遺体が火葬されそうになる瞬間、大声で泣き叫ぶ自分の姿だけ。

「これが、わたしの記憶にある、あの頃の出来事」

 先生はノートから顔を上げ、わたしの方を見たけれど、その視線はわたしを通り越し、遠くを見つめたまま何も言わなかった。先生が何を考えているのか、想像出来なかった。

 わたしはその無言が少し怖くなって、また話し出す。

「小学校の帰り道、公園を歩いていると友達のお母さんたちが立ち話をしているのを聞いてしまった。母親が自殺するなんて不憫ねって。そこでわたし、母が自殺だったって知って……」

 もう涙は出なかった。今まで、ずっと泣いて来たから。

「それをずっと、自分のせいだと思って来たんだね?」

「そう。だってあの時、わたしが具合なんて悪くならずに、母の傍にもっといることが出来たなら、母は逝ってしまわなかったんじゃないかって、ずっとずっと思ってて」

 先生は、わたしの前まで歩いてくると、跪く。

「ぼくの言葉できみの呪縛が解けるとは思わない。だけど、きみのせいじゃない」

 先生の目が真剣にわたしを見つめる。

「うん。先生ならきっとそう言ってくれると思ってた」

 わたしは小さく微笑む。

「祖母に相談したことはなかった。でも、やっぱりどこかで聞いたらしくて、わたしに違うって、言ってくれたことがあったの。ただ、わたしはその言葉を聞き入れることはできなかった。後々思ったことだけど、何かを背負っていたかったんじゃないかなって。一人じゃなかったって思いたかったから」

「だから、おばあさんの時もそうしたんだね?」

「うん。祖母が本当にお金を借りたかは分からない。だけど、その重荷を背負うことで、祖母もわたしの傍にいてくれたんだと思いたかった」

「そして……お父さんも……」

 先生に言われ、わたしは頷いた。

 あれだけ憎んで来たと思った父のことも、本当は背負いたかったんだと分かっていた。

 家を出てしまったとしても、わたしの父だったことに変わりはないから。

「でも、それでわたしは壊れてしまった。ひとりで背負うには、少し無理をしすぎてしまったみたい」

「だけど、今はぼくがいるから、お父さんのことも受け止められる」

 もう一度頷く。

「ごめんね。先生には本当に迷惑をかけちゃった」

「そんなことないよ。ぼくは、迷惑だなんて思ってないんだから」

「それも、きっと言ってくれるって思ってた」

 わたしは心が軽くなって来ているのをずっと感じていた。ただ、今もまだ電話も郵便も来客も怖い。それに甘えて、先生の近くにいたのだと思う。

「先生に、もうきみはひとりで大丈夫って言われるのが怖くて、ずっと甘えてきちゃった」

「もう、終わりにするみたいな言い方だね」

「でも、これで最後だよ? わたしに話せることはこのくらいしかないもの」

「そんなことない。まだ、ぼくはきみに訊きたい話がいっぱいあるんだからね」

「……?」

「まだ本も完成していないし、期待しているきみには申し訳ないけど、お父さんも見つかるか分からないだろ?」

 そう言う先生は頭をかく。

「ごめん。そう言う意味じゃない」

 わたしは分かっていた。それが先生の優しさだって。わたしが少しでも甘えられるように言ってくれているんだって。

「ぼくだって、きみとずっと一緒に来たんだ。病気のことも、弟以外に話したことはないしね」

 そう言ってからまたわたしの顔を覗きこんだ。

「きみが嫌だって言っても、ぼくの重荷を、背負ってもらうからね」

 わたしは、唇をかみしめた。油断したら涙が出てしまうそうだったから。先生に、思いを伝えてしまいそうだったから。ギュッと口をつぐんだ。

 先生が、立ち上がり、わたしの肩を優しく抱き寄せた。

「前も言っただろ? ぼくも、きみに出会ってぼくの心の氷も溶かしてほしかったんだ。きみと一緒にいることで、ぼくも安心したかったんだ」

 堪えていたはずの涙がわたしの頬を伝い、先生の肩を濡らした。

「ごめんなさい。先生」

「いいんだ。いいんだ」

 わたし達は、暫くそうしていた。


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