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012

 蝉の声が街にも響き渡り、日照りが続く。

 ここのところは、家と診療所まで片道十五分程の距離を行き来しているだけなので、体力も落ちているのか、先生のところに行くだけでも、水分補給をしなければ、熱中症で倒れてしまいそうになる。

 そんな暑い日差しの中「どこかへ出掛けようか」と先生が提案してくれた。

「えっ? どこでもいいの?」

「うん。どこか行きたい場所があるの?」

 わたしの頭の中には、昔何度か連れられて行ったことのある母の地元が浮かんでいた。

「母の地元にね、綺麗な湖があったの」

「うん」

「そこに行ってみたいな」

「わかった。じゃあ、そこにしよう」

 先生はわたしの頭を撫でながら微笑んだ。

 翌日、先生はいつもの可愛いミニカーのような黒い車に乗ってやってきた。

「準備はいい?」

「うん」

「じゃあ、行こう!」

 そうしてわたし達は、片道三時間程の旅に出たのだった。


 湖まで後少しという所まで来ると、車のスピードが一気にダウンした。

「道、混んでるね」

「うん。何かあるのかもしれない」

 そのままノロノロと進んでいくと、金額の書かれたボードを持った人が駐車場で暇そうにしているのを見かけた。

「あっ」

「どうした?」

「今ね、湖上花火大会って見えた!」

「ああ、なるほどね。花火大会か」

 その時コンビニが見えてきたので、わたし達はそこに入ることにした。当然だけれど、店内、特にトイレは混雑していた。

「ごめんなさい。遅くなっちゃった」

 車に戻ると、先生はすでに戻っていて、飲み物や食料を買ってきてくれていた。

 紅茶のペットボトルを渡しながら先生は言った。

「レジのところにあった花火のパンフレットを貰ってきたんだけど、この先、歩行者天国になっているみたいなんだ」

「えっ!」

「うん。一応通り抜けできる道もあるみたいなんだけど、これからもっと混む時間になりそうだし、きみが良ければ、来た道を戻って、湖の向う側を回ろうかと思うんだ」

 パンフレットの地図を見ると、先生の言うとおり戻る方がよさそうだったので、わたしは頷いた。

「そうしよう。その方がよさそう」

 その読み通り、反対車線は特に混雑することもなく、わたしたちは湖に到着することが出来た。

 広場の駐車場に車を止める。

「広いね。そして、すごく綺麗」

 先ほどまでの喧騒とは打って変わって、とても穏やかな空気が流れていた。

「そうだね。でも、海とかじゃなくてよかったの?」

「うん。わたしね、海って片手で数えられるくらいしか見たことないんだ」

「ぼくたちの街には海がないからね」

「そう。だからね、ちょっと怖いの」

「怖い?」

「向う岸が見えない場所って、一度行ったら帰って来れないような気がして。だからこそ引き付けられる人もいるんだろうけど」

「何となくわかるかもしれない」

「そう?」

「うん。ぼくも海はあまり得意じゃないんだ」

「じゃあよかった」

 わたしはホッと一息ついた。

「ここからだとちょっと遠いかもしれないけど、せっかくだからこのまま花火大会も見ていこうか」

「いいの?」

「もちろんだよ」

 先生はそう言ってわたしの頭を撫でた。

 最近、先生に頭を撫でられることが多くなっていた。嬉しい反面、自分の隠している気持ちに気づかれてしまうんじゃないかと怖くなる時もあった。

 花火大会を待つ間、わたしは湖の近くを散歩することにした。先生は、持って来たノートに何かを書き留めているようだった。小説の題材かもしれない。

「むこうに公園が見えるから、そっちの方に行ってみるね」

 先生はノートから顔をあげ、頷いた。

「あまり遠くへは行かないで」

「はーい」と、わたしは子供のように返事をし、微笑んだ。

 夏であるのに、標高の高いこの土地はさわやかな風が吹いていて、わたしの前髪を静かに揺らした。

 公園の入り口には大きな噴水があり、その周りに浅い水遊び場が作られていて、子供たちが楽しそうに水を掛け合っている。

「ママー!」

 栗色の髪の毛が額に張り付いているのも気にしていない様子の男の子が、わたしの横を駆け抜け、木陰に座っている白いワンピースの女性に飛びつく。

「ちょっとちょっと、ハルトったら」

 びしょ濡れのその男の子に飛びつかれた母親は、少し怒ったような顔を見せたけれど、すぐににっこりと笑って、カバンの中から取り出したタオルで男の子の髪を拭いてあげていた。

 わたしにもあんな頃があったのだろうか?

 母に昔連れられてきた思い出でも蘇るかと思ったけれど、懐かしい気はするものの、それ以上は何も感じなかった。もう、二十年以上も前のことなのだから、仕方がないのかもしれない。

 縦長に伸びる公園をゆっくりと進んでゆく。

「ママ」

 不意に呼びかけたくなって、声に出してみた。もちろん、返事などあるはずがない。

「ママ」

 風がまたわたしの髪を揺らした。

 さっきのあの男の子が、なんだかとても羨ましくなった。

「ママ」

 胸の奥で、涙の込み上げる音が聞こえた。

 その時背後で声がした。

「あかり」

 ビックリして振り返る。

「どこまで行っちゃうつもりだったの?」

 今向かっていた方を見返す。どこまでだろう?

 首をかしげながら答える。

「思い出の見つかる場所」

 言ってしまってから気づく。なんて面白くない答えなのだろうか。

「ごめんね。冗談だよ」

 先生の答えが返ってくる前に、わたしは茶化して笑った。笑ったつもりだった。

 けれど、先生はいつものように笑ってはいなかった。わたしよりも苦しそうな表情でこちらを見て言った。

「きみの呪縛が解ければいいのに」

 いつもはそこで頭を撫でてくれるはずであるのに、今日は静かにわたしに近づき、そっと抱きしめてくれた。

「先生?」

 先生は何も応えなかった。ただ、ずっとわたしを優しく抱きしめ続けた。

 出番をなくしていた涙が、また込み上げた。

 どのくらいそうしていただろうか? 先生の鼓動を近くに感じていたため、わたしの心は幾分か落ち着きを取り戻していた。やっと周りの音が聞こえてくる。遠くで、ゴロゴロと雷の鳴る音が聞こえた。

 先生が少し体を離したので、わたしも顔を上げる。

「夕立が来るかもしれないな」

 不安げに空を見上げるわたしを諭すように、先生は頷いた。

 空模様はいつの間にか雲行きが怪しくなっていて、今にも雨が降り出しそうな気配だった。そして、熱されたアスファルトが蒸されたときに発するあの匂いが微かにしていた。

「車に戻ろう」と、先生が肩に触れた。

 背中を追いかけながら、トボトボと来た道を戻る。

 先ほどの親子の姿はもうどこにもなく、水浴びをしていた子供たちの殆どが家路についたようで、弾ける水の音がやけに大きく聞こえた。


「花火、上がるかな」

 窓の外を眺めながら、独り言のようにつぶやいた。

 あの後車に戻ると、ちょうど雨粒がポツポツと地面を濡らし始め、たちまち車の屋根をたたきつけてうるさい程の雨が落ちてきた。

「一応、雨天決行みたい」

パンフレットを見ながら先生が応えた。

「大丈夫。時間まで待ってみよう」

 わたしは頷いてにっこりと笑った。

 花火を見に来たのか、大ぶりの雨の中、駐車場が込み始めていた。

 花火の始まる時間まであと少しというところで、あの土砂降りが嘘のように雲が晴れてきた。先生が車から降りていく。わたしもつられて外へ出た。

 もうすでに何人かの人たちがシートなどを敷き場所を取っている。

 湖の方から冷えた風が吹いてきて、わたしは少し身震いした。

「寒い?」

「ううん。大丈夫」

 そう言ったけれど、実は少し寒かった。

 先生はそれを見透かすように、車の後部座席から紺色のカーディガンを取り出し、渡してくれた。

「それだけじゃやっぱり寒そうだよ」

「先生は?」

「ぼくは大丈夫だよ。まだパーカーも入ってるしね」

「じゃあ、お借りします」

 先生の、少し大きなカーディガンは暖かく、そして優しい香りがした。

 駐車場の近くは混み始めていたので、わたしたちは少し離れた場所に腰を下ろした。

 湖の対岸の方で、何かアナウンスが流れている声がする。

「何か声が聞こえる……」

 先生と一緒に耳をすませてみると、カウントダウンが微かに聞こえてくる。

「ゼロ!」と言う大きな掛け声の後、水面を小さな火がなぞる様に駈けて行き、何台もの花火台に着火する。

 噴水のような花火が吹きあがり、その裏で、丸く大きな花火が空一面に弾ける。

「うわぁ」

 わたしは、それしか言えなかった。寒くはないのに、全身に寒気のような痺れが走る。触れなくても、肌が粟立っているのは分かっていた。

 先生も同じだったのだと思う。黙ったまま湖に浮かぶ花火を見ていた。


「すごかったね」

 二時間程度の花火大会が終わり、先生が言う。

「うん。もう、言葉なんて出て来なかった……」

 まだわたしも余韻に浸っている。

 辺りが静まり返ってもまだ、わたし達は佇んでいた。

「そろそろ行こうか」

 先生に肩を叩かれ、わたしは歩きだす。

 花火大会中には降って来なかった雨が、またポツリポツリと地面を濡らしていた。


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