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011

 あの話を聞いてしまってから、暫く先生のところへ行っても先生のことばかりを考えてしまって話が出来ずにいた。

「こんにちは」

 それでも私は、先生のところへ通うことを止めてはいなかった。少しでも、傍にいたいと思ったから。

 返事を待ちながら、手のひらで額の汗を拭う。春先だと言うのに暑い日が続いていて、ベランダのドアは開放され、カーテンが揺らめいている。

 その時、診療室の方から出てきた先生が言った。

「ねえあかり。桜でも見に遊園地へ行ってみようか?」

「えっ?」

 突然の提案にわたしは驚きながらも、頷いた。

 遊園地の中を先生と一緒に歩き回る。桜並木とまでは行かないけれど、ボート乗り場の周りの歩道に添って桜が咲いていた。

 手入れされていないせいで、伸び放題になった桜の枝がアーチのようになっている場所もあった。

「すごく綺麗。ここにこんなに桜があったなんて、わたし知らなかった」

「うん。去年ぼくがここへ初めて来た時に見つけたんだ。でも、桜はもう散ってしまった後だったから、こうやって見るのはぼくも初めてだよ」

 そう言って、先生は桜の木を見上げる。街ではもう散ってしまった桜の木もあるけれど、ここは少し標高が高いからか、散り始めという雰囲気だった。

「あの時、桜の木が芽吹いて青々としている姿が目に止まって、来年は花が咲いている季節にここへ来ようって思っていたんだ」

 わたしたちは、その後何も語らないままエントランスの方へ向かった。

 おみやげ店などが入っていたはずの大きな建物が残っていて、わたしはそこで、昔のことを思い出した。

「昔……」そう言って語り出すわたしに、先生が視線を向けた。

「昔、この遊園地で母が働いていた頃、母の日のイベントをやっていて、待ちくたびれてたわたしは、そこで母の似顔絵を書いて応募したの」

 先生は、話を促すように頷く。

「わたし、昔絵がすごく苦手で、そのとき描いた絵も、母には全然似てなくて」

 俯き、自嘲する。

「でもその絵が、さわやか賞っていう賞に入って、母はとても喜んでくれた。それも、その絵をテレホンカードにしてもらえてね」

「それは、お母さん喜んだだろうね」

 わたしは頷いた。

「母はそのテレホンカードを本当に大切にしてくれていて、入院している時に、家に電話をくれるときもそのテレホンカードだけは絶対に使わなかったの」

 少し、あの頃のことを思い出して目が潤んで来た。

「でもわたし、母の死後、そのテレホンカードを使ってしまった」

 エントランスの、絵が貼られていた位置を見つめるわたしに、先生は、どうして? という風に、人差し指を振って訊ねる。

「前にも話したけど、母がわたしを避けているんじゃないかと思ったことがあって」

「聞いたよ」

「それで、わたしは試してみようって思ったの。学校帰り、あの頃はまだ公衆電話も沢山あったから、そこから家に電話してみた。その時、使ってしまったのがそのテレホンカードだった」

 今も後悔している。なぜ、母があんなにも大事にしてくれていたカードを使ってしまったのかと……。

「電話に出たのはもちろん祖母だった。わたしはすぐに切ったんだけど、穴が開いてしまって……本当に後悔した」

「今もまだ持っているの?」

「うん。下手だけど、見てみる?」

 先生は嬉しそうに笑う。

 わたしは、お財布に入れてあるカードを取り出し、先生に見せた。いつも中にあるので安心していたけれど、この絵を見るのは久しぶりのことだった。

「母はショートカットだったんだけど、それがうまくいかなくて……おかっぱみたいになってて変でしょ?」

 先生は首を振った。

「ううん。そんなことないよ。この絵には、きみがお母さんを思って描いた気持ちが溢れているよ」

「そう? それなら、すごく嬉しい……」

 そう言って、もう一度カードに視線を向けると、自分の名前の横に年齢が書かれていた。『前宮あかり 八さい』

 この絵から二年後の母の日には、母はもういなかったはずだ……。

 急に黙ったわたしを心配したのか、先生が声をかけてくれる。

「どうした?」

「ううん。ごめんね。ちょっと思ったことがあって」

「どんな?」

「ここなんだけど……」

 そう言って私は、年齢のところを指さした。

「母が亡くなる二年程前のことじゃないかなって」

 わたしは少し黙ってから話し出す。

「多分、この頃にはもう母は体調が悪かったはずで。病院通いも、入退院の繰り返しも、あの頃は一生分の長さに思えてたはずなのに」

「うん」

「だけど、こうやって目にすると、母は、もしかすると発病してからすぐに言ってしまったんじゃないかと思って……」

 俯くわたしの手を先生が取った。

「……?」

「行こう!」

 エントランスから出た先にも、桜の花が咲き乱れていた。

 薄桃色の雪の中で手を繋いで歩いた。触れあった肘も、触れあった肩も、繋がれた手にも本当の意味の愛なんかなくて、希望さえもない。そんなことは分かり切っていた。でも、わたしはもう自分の気持ちに嘘は付けない気がした。

 先生が、好きだ……。


 自分の気持ちに気づいた後もわたしは、今まで通りに振舞って来たと思う。先生の傍にいたかったから。

 前は開け広げることが出来なかったカーテンを開けてみると、アパートの庭のツツジが咲き出していて、少しだけ夏の気配を感じる。

 森へ行ってみようと外へ出ると、少し胸がざわめき立つ気がした。

 森の中では、鳥たちが怖いくらいに騒いでいた。枝がしなり、あちらこちらで飛び立つ音が聞こえる。その時、辺りがゆっくりと暗くなっていく。

 わたしは立ち止まって空を見上げる。木々の間から洩れる光に目が眩んだ。

 そして、そっと地面に目を落とすと、映し出された葉っぱの影が三日月形になっていて、キラキラと輝いていた。揺れるその影をずっと見つめていると、足音が聞こえた。その音の正体をわたしは知っている。ゆっくり振り返ると先生がいた。

「独り占めする気だったの?」

「そうだよ。残念」

 いたずらっぽく笑って見せると、そっと頭を撫でられた。

 さっきよりも辺りが暗くなっている。

「今日だね」

 その言葉に、わたしは静かに頷く。

 映し出される陰も、段々とリング状になっていく。とても神秘的な出来事だった。さっきまで騒いでいた鳥たちの声も聞こえなくなり、静寂に満ちている。ただ、胸騒ぎに似た何かはずっと感じていた。

「すごく綺麗」

 誰にともなく呟いた言葉を、先生が受け止めてくれる。

「きみと、この景色を見ることが出来て良かったよ」

 わたしたちが見つめ合っている隙に、世紀の天体ショーは幕を閉じかけていた。

 その時、チクリと胸が痛む。

 本当に一瞬のことだった。喪失感に似た何かを、わたしは胸の奥に仕舞い込んで、先生と森を後にした。


 ずっと先延ばしにして来た、父の捜索を始めることにした。

 先生は、まず自分の通っている病院で話を訊いてくれて、全国に三十ヶ所ほどある専用の施設の場所を聞いて来てくれた。

 思っていたよりも、施設の数が少なかったので、何とかなるような気がしたけれど、そううまくは行かなかった。

 まず電話で話を聞き、近場にあれば伺うこともあった。

 けれど、残念ながら父の名前を知る人はいなかった。

 よくよく話を聞いてみると、思っていたよりも、高齢になるまで眠り続ける人と言うのは少ないらしく、一縷の希望も暗闇に消えた気になる。

「ごめんね」

 先生は施設からの帰り道に、寂しそうに言った。

「先生のせいじゃないよ。もう、諦めていたことだもん」

「うん。だけど、そこに期待を持たせてしまったのはぼくだからね」

 わたしは強く首を振る。

「先生がいなかったら、ここまで来ることは出来なかったもん」

 もう、迷惑はかけられないと思った。

「先生……」

 そこまで言ったとき、先生に言葉を制された。

「ぼくは、諦めないよ」

「えっ?」

「きっと、あかりはもう諦めようって思ったかもしれないけどね、ぼくは、諦めない」

 でも、とか、だけど、とかそんな言葉は意味がないような気がした。

「いいね?」

 先生の強い気持ちに後押しされ、わたしは頷いた。

「ありがとう、先生」

 優しく前髪を撫でられた。


 今年は去年と同じく空梅雨で、雨の音に身を隠すことを期待していたわたしは少し気分が滅入っていた。けれど、昨年よりは気持ちに余裕が出来ていて、先生の知り合いから頼まれた絵本の挿絵をする仕事も軌道に乗り始めていた。

(あの遊園地で見せたテレホンカードを見て、先生がイラストの仕事を紹介してくれたのだった)

 無性にスペンサーに会いたくなって森へ足を運ぶ。

「久しぶり」

 そう言ってたてがみを撫でると、スペンサーは少し不機嫌な顔をしたような気がした。

「ごめんね。最近、あまり来ていなかったもんね」

 わたしが来なかったせいか、スペンサーの朽ち具合が進んでいる気がして、たまらなくなる。

「ごめん。ごめんね」

 絡まったスイカズラの蔦や、割れた土台の隙間から伸びたアレチノギクを片っ端から取り除いて行く。

 熱くなってきたので、着ていたカーディガンをスペンサーの背中にかける。その後も、自分が素手で作業していることにも気付かず、黙々と片付けて行った。

 少し休もうと、背伸びをしたその時、遠くで微かに鳴った雷の音に気付き、メリーゴーランドの外へ出る。でも、木々の隙間から見える空は青く、澄んだ色をしていた。

「夕立、来るのかな」

 まだ部屋には戻りたくなかった。焦りと似た感情が沸き上がり、胸をざわつかせる。

 落ち着こうと、いつもの場所に座り、耳をすませてみる。風が強くなったのだろうか? 肌をなぜる風がひんやりとしてきた気がした。

 脱いでいたカーディガンを着てから、もう一度耳をすませる。しばらくそうしていたけれど、雷の音は聞こえてこなかった。

「気のせいだったかな」

 スペンサーに声をかける。

「もう少しいさせてね」

 馬車に身をまかせながら言うと、不機嫌だったスペンサーも、少し綺麗になったからか、頷いてくれたような気がした。

 そんなつかの間、森の木々がパタパタと音を奏で始めた。

「やっぱり雨だ」

 なんとなく、激しい夕立になる予感がした。

 その時声がする。

「ここにいた」

 なぜ先生には分かってしまうのだろうか?

「どうして、ぼくのところに来ないの?」

 わたしは馬車を降り、首を振る。

「たまには、この子にも会いに来なくちゃと思って」

「そうだね」

「それに、ときどきは綺麗にしてあげた方がいいでしょ?」

 スペンサーを撫でた。

 先生も、安心したように頷く。

「帰ろう。きっともっと強く降って来るよ。ぼくも傘を持たずに来ちゃったから」

 わたしはもう一度スペンサーを撫で、先生の背中を追った。

 思いのほか、夕立は強くならずに診療所に戻ることが出来た。

「少し、休んでいく?」

 先生に訊ねられ、わたしは頷いた。

 結局わたしは、先生やスペンサーに甘えてしまう。この性格は、ずっと変わらないのかもしれない。いけないと分かっていても、どうすることも出来なかった。


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