010
先生とのセラピーというよりも、小説を作るための打合せのようなものが始まった。
「きみのお父さんの話を聞いてもいいかな?」
あまり話したくはない内容だったけれど、頷く。
「雪が舞うような、寒い日だったと思う。わたしは、母が編んでくれたカーディガンを着て、父の帰りを待っていた。いくつだったのかわからない。わたしは、ずっとずっと待っていたのに、父は何も言わずに出て行って、そのまま戻って来なかった。それだけがわたしの記憶で、後は母が教えてくれたことなの」
先生はわたしの方を見て小さく頷いた。
「建築の仕事をしていた人みたいで……」
母から聞かせてもらった父の姿を想像した。
母と父は、お見合いで知り合ったのだという話だった。
「高校卒業後にサラリーマンをしていた父は、友人の紹介で建築の仕事に興味を持ち、働きながら勉強して、資格をとったみたい。軌道に乗るまでは厳しいこともあったようだけど、それなりに生活できるようになってきた。その時、父はもう三十代後半に差し掛かってた」
久々に聞いた、先生のキーボードをタイプする音が心地よい。
「一方で母はその時二十代後半で、デパートの販売員をしていて、その頃はまだ体も丈夫だった。恋愛に興味がなかったわけではないけど、母子家庭で育った母は祖母を助けなきゃって思ったらしくて、少しボーイッシュな面があった。だからなのか男の人をどこか遠ざけてしまっていたみたいで、それを心配した知り合いが世話を焼いて、お見合いの話を持ってきたって教えて貰った」
「なんとなくだけど、きみと、きみのお母さんは似ているんじゃないかって思うよ」
「そう?」
「うん」
先生はニコニコと笑い、話を楽しそうに聞いてくれていた。だからわたしも嬉しくなって、話し続けた。
「そして、そこには面白い話があるの」
「うん。聞かせて」
「あのね。母達のお見合いの日に大雪が降ってしまって、父は約束の時間よりも遅れてやって来たの。その上に、朝雪で転んだらしく眼鏡を壊していて、それで度数の合わない昔のものをかけてきたせいで、写真でしか見たことのなかった母の顔がよく分からなくて、母達もまだ来ていないって思いこんだ父は、違う席で待っていたんだって」
顔はもう覚えていないけど、薄っすらと、慌てている父の姿が想像できた。
「母は、そんな父を一目見て気に入ったって言ってた。でも父は、母が自分よりも若かったから最初は断ろうと思ったらしくて」
先生は、もうタイプ音を発せず、いつもの机に手をついて、頷いて聞いていた。
「だから、どちらかと言えば、母が押し切るような形で、二人は結婚して、わたしが産まれた」
ちょっとだけ、父のことを思い出すのが苦しくなくなってきていた。
母は、父のことを話してくれる時、いつも笑顔だったから。
「でも、ある時から父が定期的に高熱を出すようになって寝込んでしまって、それが原因不明で、病院の先生からも見放されてしまったんだって。仕事も出来なくなって、だけど、母は諦めなかった。遠くの病院まで父の病気を治してくれる先生を探しに行ったりして、やっと父の症状が少し緩和される病院を見つけた」
さっきまで笑っていた先生は、真剣な顔つきをしていた。
「母はね、とても頑固な人だったの。自分だって、体調を崩していたかもしれないのにおかまいなしで、わたしや父のことばかり考えてた……」
その時急に「ごめん」と先生が言った。
「ん?」
「あっ。ごめん。話を切ってしまって」
「ううん。どうかした?」
「いや……今話を聞いていて、まさかって思ったんだけど」
「うん」
頷いてから、わたしは暫く、先生が話し出してくれるのを待っていた。その先にある、急展開のことなんて、まるで想像していないまま。
そして先生がジッとわたしの顔を見つめた。
「もしかして、きみのお父さん……ぼくと同じ病気だったんじゃないかなって思って」
先生と同じ病気。頭の中を、その言葉が行ったり来たりする。
「えっ……? まさか……」
「いや。違うかもしれない。だけど、きみの言葉が気になって……」
わたしは黙ったまま先生を伺い見る。
「お父さんがいなくなったのが冬だったって言ったよね?」
「うん」
「それからお父さん、高熱が続いて、寝込むことが多かったって」
「……うん」
「そして、どの医者からもさじを投げられた……」
先生と目が合う。
「ぼくもそうだ」
そう言って先生は俯く。
「きみに言っていないことがある」
「……言ってないこと?」
「ぼくたちの最後のこと」
「最後?」
なんだかその言葉の意味が怖くて、体が震えた気がした。
「ぼくたちはね、最終的に、眠ったまま一生を終えることになる」
その言葉は、とても切なく胸に響いた。
「……そうなの?」
「うん。眠った翌日に逝く人もいるし、眠ったまま数十年生きる人もいる」
「数十年? それじゃあ、お父さんも……?」
「まだ、眠っていてもおかしくない」
「お母さんはそのこと、知ってたのかな……」
「知っていた可能性は高いと思う。見てもらえる病院があったと言ったよね? それを見つけたというのなら、病気を知っていてもおかしくはない。あかりは、その病院を知っているの?」
わたしは首を振る。
「わたしは……何も聞いてない」
「それじゃあ、今度ぼくの通っている病院に行ってみようか。あそこで、他の病院の話を聞けば、教えてくれると思う。病院自体は、そんなに多くないはずだから。ぼくらは、特殊なんだ……」そこまで言うと、先生の寂しげな声が止んだ。
わたしはそっと、荒れた自分の手を見つめた。
父が……眠っているかもしれない?
その事実に、わたしは少なからず動揺していた。ずっと父を恨んできたから。先生に連れて行ってもらえると分かっても、すぐに頷くことは出来なかった。
それに、先生の最後と言うのがとても怖かった……。
「先生……」
わたしは目に涙をいっぱいためて、先生の顔を見た。
「どうした? 明日にでも行こうか?」
わたしはブルブルと首を振る。
「違う! 違う! 先生は……先生はどうなるの?」
ボロボロと大粒の涙が零れて行く。
先生は近づき、わたしの頬を伝う涙を親指で拭ってくれた。
「ぼくは、きっと、ぼくの仲間と同じように眠って、死んでいくと思う」
「やだ。やだよ」
大切な人がいなくなってしまうと言う恐怖にわたしはずっと悩まされてきた。今、その頂点にいる先生がいなくなってしまうことなんて、考えたくなかった。
「大丈夫。まだ僕はその段階まで行っていないから」
「分かるの?」
「うん。分かるよ」
そう言って、大きな手でわたしの頭を撫でる。
「その時は、きみには、ちゃんと言って行くから」
全身が震える。寒くはないのに肌が粟立っていた。怖くて、怖くて仕方がなかった。
その日、先生はわたしをずっと抱きしめてくれていた。




