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017

 施設からの帰り道、診療所に足を向けていた。

「来ないでおこうって思ってたのに……」

 泣き腫らしたわたしを見て、峻作さんが慌てている。

「まずは中に入って」

 わたしは頷き、診察室の大きなソファに蹲った。

「ちょっと待ってて」

 峻作さんはなぜか診療所を飛び出していき、すぐ戻ると、パンを渡してくれた。

「食べて、元気出せ」

 首を振る。食べられるような気持ちではなかった。

「かして」

 わたしが俯いたまま食べようとしないので、彼がパンの袋を開けてから、もう一度差し出してくれる。

「これ食べたら、秘密の話を聞かせるから」

 わたしは顔をあげ、峻作さんの方を見た。

「秘密の話……?」

「気になるでしょ?」

 小さく頷く。

「だったら、食べて」

 わたしはパンに視線を落とした。峻作さんがくれたのは、シュガートーストだった。

「これ、すごく懐かしい。まだあるんだ……」

 峻作さんは、隣で既に食べ終えたようで、私を見ていた。

「ん? 何?」

 わたしは、なんでもない、と首を振る。

 一口齧ると、甘さの中に僅かなしょっぱさがあり、砂糖のザラザラとした触感が楽しかった。いらないと思っても、食べ始めるとお腹が空いて来た。わたしもペロリと一枚食べ切ってしまった。

 峻作さんは、わたしが食べ終わったことを確認すると、ポツリと呟く。

「じゃあ、約束だから」

「うん」

「きみは、俺のことを覚えていないよね」

 いつもの峻作さんは感情を表に見せないけれど、今の彼からは切なさが漂っていた。

「えっ? 覚えていないってどういうこと?」

「ごめん。なんでもない。ただちょっとね」そう言って彼は自嘲気味に笑った。

 そんな彼を見てなぜか切なくなってきた。少し考えてから訊ねる。

「初めて会った時のこと?」

「うーん」

 彼は小さく首を捻りながら言う。

 あまり反応は良くなかったけれど、わたしはあの時のことを少し思い返してみた。

 彼はわたしに驚いており、わたしは彼を懐かしいと感じた気がする。

「そう言えば、診療室で初めて峻作さんを見たとき、なんだか懐かしい気分になったのを覚えてる」

 隣にいる彼が、少しだけ笑ったような気がする。

「あのときは、先生に似ているからだって思っただけだったんだけど、もしかして、わたし達は前にどこかで出会っていた。そういうことなの?」

 間違いなく、彼の顔が先ほどより明るくなっていた。

「そうなの?」

 返事を急かすように、ちょっと顔を覗き込んでみると、かなり近くで目があった。

 峻作さんはゆっくりと目を逸らしながら話し始めた。

「きみはね、覚えていないかもしれないけど、俺たちはあれ以前に出会っていたんだ」

「ほんとに?」

「うん。俺があるアパートに住んでいた時のことだよ」

「アパート……」

 少しだけ暗い気持ちが蘇る。

 今のアパートはとても古い作りの部屋で、上下に二部屋しかなく、わたしの隣には引っ越した当時から人が住んでいなかったし、下の部屋には学生さんが入っていたはずなので、きっとその前のアパートだということが直感的にわかった。

 前のアパートも角部屋に住んでいたけれど、あのアパートは上下に四部屋ほどある古いけれど、大きめな建物だった。

 あからさまに嫌悪の表情をしてしまったのだと思う。

「ごめん。きみがきっとあの頃のことを思い出したくないっていうのは知ってる」

 峻作がすまなさそうにこちらを向いたのがわかった。

 小さく頷く。

「でもね、俺は話しておきたいんだ。あの時、きみの隣の部屋に住んでいたのは、俺だったんだって」

 俯いていた顔を、咄嗟にあげた。

「嘘でしょう?」

 彼は瞳を逸らさずに、首を振った。

「ほんとなの?」

 今度は小さく頷く。

 わたしはあの頃のことを思い返した。

「じゃあ、あの人たちが部屋に押し掛けたのも知ってるの?」

「うん」彼は頷いた。

「知ってる。何度か、追い払ったこともあるよ」

「……」

 そう言う日があったことは覚えている。

「本当に峻作さんだったの?」

 彼は、もう一度頷いた。

「すれ違ったことだってある」

 わたしは首を振る。それは、彼を否定したわけではなかった。まったく知らないわけではない。峻作さんを見た時に懐かしい気がしたのは、きっとどこかで会っていたからなんだと思う。

「わたし、あの頃ずっと俯いていたから」

「うん。あの時俺が、ちゃんときみを助けてあげられていれば、きみはあんな思いをすることもなかったんじゃないかと思って、後悔してた」

 わたしはまた首を振る。

「だって、あの頃は出会っていなかったんだから、峻作さんがそれで苦しむことはないよ」

「だけど、ずっと謝りたかった。ごめん」

 わたしは強くかぶりを振る。

「そんなことないよ。峻作さんは助けてくれたじゃない。追い払ってくれたんだもん」

 少し彼の顔を伺い見た。

「ありがとう」そう峻作さんは呟いたけれど、まだ後悔しているように、俯いたままだった。

「わたしの方がお礼言わなきゃいけないのに。ありがとう」

 わたしが微笑むと、俯いた顔が少しだけ明るんだ気がした。

「それが、さっきの秘密の話?」

 彼は、違う、と言って顔をあげた。

「違う。あの話もあるけど、俺は、きみにある場所で出会った」

「ある場所?」

「あの、廃遊園地だよ」

「えっ? 廃遊園地?」

「きみを迎えに行ったのは兄貴だったよね?」

「うん」

「だけど、本当は最初に俺がきみをあの場所で見かけていたんだ」

 冗談だと思うだろ? そんな風に彼が笑って見せた。

「俺は、警備員の仕事をしてる。おじの病院がメインだけど、時々、遊園地の警備にも行っていたんだ」

「……知らなかった」

 あの場所はもうすっかり誰からも見放されてしまったものだと思っていた。

「だから去年の春、女の子が回転木馬にいるのを見つけた時、俺は最初夢でも見ているんじゃないかと思ったんだ」

 わたしは峻作さんの話を聞き洩らさないようにずっと黙って聞いていた。

「兄貴に話したら、夢でも見たんだろうって。だから俺は仕事以外にもあの場所へ何度も足を運んだ。そしてまた別の日、きみを見つけた。眠っているようだった」

 わたしはなぜか頷いていた。自分の罪を認めるように。

「そして、何度かそんな日を繰り返して、その少女が何か抱えているんじゃないかと思って、兄貴に迎えに行ってもらったんだ」

「どうして? どうして、先生にしたの? 峻作さんだって良かったはずじゃない?」

 彼は、ははっと、溜息のような笑い声を洩らした。

「まあね。でも、兄貴の方が人当たりが良いし、あの少女が何か抱えているんだとしたら、気持ちを分かってあげられるのは向こうだと思ったからだよ」

 わたしは、何か大きな力でわたし達が結び付けられていたんじゃないかと思えてきた。

「俺は、あの場所にいた女の子が、きみだって気付いていなかった。まさか、あの時の彼女と違う街で出会うなんて、思いもしなかったから」

「わたしも……」

「だから、きみがここで話をしているのを見た時、心底驚いたんだ」

「うん。そうだったね」

 峻作さんは、少し黙ると、わたしの目を見つめた。

「だからってわけじゃないけど」

「ん?」

「もしきみがまだ何か辛いことがあれば、俺に背負わせてほしい」

「えっ?」

「兄貴の代わりにならせて欲しい」

 わたしは彼の真剣な目を逸らす事が出来なかった。

「さっきも言ったけど、やっぱりあの時のことを、どうしても後悔してるんだ」

 わたしも、後悔していることならたくさんあった。相手が気にしていなかったとしても、自分の中ではずっと残り続けるってことは、身を持って分かっていた。

「うん」

 だから頷いた。これで、峻作さんの心が少しでも軽くなるのなら……。

「ありがとう」と、彼はホッとした顔を見せ、嬉しそうに笑った。


 雪が解け、桜が咲くまでの間に、遊園地の撤去が決まった。峻作さんがそう教えてくれた。

 わたしは、あの場所がなくなってしまうまでの間に、スペンサーに会いに行っておこうと決めていた。

 冬晴れのある日、わたしは森への道を登っていた。

 今年は雪が少ないのか、森の中にもあまり積もっておらず、歩きやすい。

 フェンスへの穴まで向かう途中で一瞬足を滑らせそうになり、ヒヤっとしたけれど、転ばずにすんだ。

「危なかった」

 わたしは気を取り直し、遊園地の中へと足を進める。なんだかここへ来るのは久しぶりで、少し緊張する。深呼吸をして吐き出すと、白い息が揺らめいて消えた。

「スペンサー。久しぶりだね」

 たてがみの部分を撫でてあげる。彼はひんやりと冷え切ってしまっていた。なぜかその冷たさがお父さんの手の温度を思い出させ、スペンサーの死を予感させた。

 わたしは涙が止められなくなった。

「スペンサー。ありがとう。あなたのおかげで、わたしは立てたんだよ。そして、ふたりに出会うことが出来たんだよ」

 首に抱きついた。その時、胸元に気づく。

「ここ、どうしたの?」

 スペンサーの胸元に、くぼみが出来ていた。他の馬の胸元を確認する。そして、わたしはあることに気付いた。

 あの施設に行った時、先生の手に握られていた宝石のようなもの。あれだったのではないかと。

「ここに、先生来たんだね? それで、あなたの代わりを持って行ったんでしょ?」

 彼が返事する時間を待つ。すると、こくりと頷いてくれたように見えた。

「スペンサー、本当にありがとう。あなたのこと、絶対に忘れないからね」

 もう一度きつく抱きつき、わたしはスペンサーの頬にキスをした。

「さようなら」

「さようなら、ぼくのお姫様」彼の声が聞こえた気がした。

 帰り際、少しだけ遊園地の中を歩いて回った。母との思い出を、少しでも拾い集めるために。

 でもそれは、先生との思い出を集める為だったのかもしれない。さよならを覚悟するための一歩。


 わたしは約束通り先生の眠る病院を訪れていた。

「先生。また来たよ」

 キャビネットの上には、以前私が置いて行ったままの緑色の宝石が置かれていた。

 イスに腰掛け、先生に語りかける。

「ねぇ先生。あの遊園地、ついに解体が始まったんだ。スペンサーもね、もう、いないと思う……」

 宝石に手を伸ばしかけ、引っ込める。

「先生。これはスペンサーの形見だったんだね」

 そう語りかけたところで、背後で声がした。

「多分、きみの為に持って来たんだと思うよ」

「えっ?」

 彼は首を縦に振り、その宝石をわたしの手に握らせてくれた。

 わたしはその代わりに、冬桜の絵を入れた額縁を飾った。

「交換、しようね」

 先生の手を握る。変わらぬ温もりがそこにあった。


 帰り道、突然降り出した土砂降りの雨の中を峻作さんと走る。

 偶然見つけた公園の小さな東屋に身を隠した。

「雨、すごいね」

 去年もこんな風に雨に降られたことがあったのを思い出していた。あの、花火大会の日だった。

「タオル、あるよ」わたしは黄色のふかふかとしたタオルを彼に渡した。

「ありがとう」

 そう言ったはずなのに、自分よりも先に、わたしの髪を拭ってくれた。

「風邪ひいちゃうよ?」

「それは、きみもでしょ?」そして彼は自分の髪を拭き始めた。

 わたしは東屋の外を眺めた。雨の勢いは増し、風が吹くと東屋の中へも雨粒が吹き込んで来る。

「拭いても意味なかったかな」彼はそう言って笑った。

 わたし達は雨が止むまで肩を寄せ合い、温もりを分け合っていた。

 雨が少し弱まり、雲間から薄っすらあかりが射している。

 そうだ、と言ってわたしはカバンから封筒を取り出した。

「先生からの手紙」

「うん」

 以前は開けることの出来なかった封筒。

「いま、開けてもいいよね?」

 峻作さんが頷く。

 わたし達は、先生からの手紙を読んだ。


                     *


あかりへ


 ぼくのことを思って泣いたりしていないかい?

 あの時、ぼくを忘れてほしいと言った時、ぼくは、それが一番怖かったんだ。

 ぼくの助けてやれない場所できみが泣くのだけは耐えられなかった。

 後悔していないと言えば嘘になる。

 ずっとずっと引きずっている。

 だけど、今きみが笑ってこれを読んでくれているとすれば思い残すことは無いよ。

 本の中に、ぼくの気持ちはすでに置いて来たから。


 忘れてくれ、とはもう言えない。

 でも、悲しまないで。ぼくらはきっと夢の世界で出会える

 あの森に繋がる扉の夢。そこでまた会おう。


 そうだ。遊園地が閉鎖されると知ってから、きみが気に入っていたあの馬をどうにか動かせないかと考えたけれど、どうしても無理そうだった。

 だから、首の飾りものだけ拝借してしまった。きみに渡せないままになってしまうかもしれないけれど、どこかで見つけたら持って行って欲しい。

 あの馬と、ぼくの思い出として。最後のおくりものだよ。


それから峻作へ


 あかりを、守ってやって欲しい。

 お前の気持ちを知っていたのに、すまなかった。

 我儘に付き合ってくれて、本当にありがとう。お前も、幸せになってくれ。


                                      柊一


                     *


 簡素だけれど、先生の優しさに溢れた手紙だった。

 わたし達は顔を見合わせ、手を取った。

 わたしは、この手紙を読むとき、絶対に泣かないと決めていた。でも、やっぱり目が潤んで来る。

 それを堪えるように、立ち上がった。

 そして、ポケットの中から取り出した緑色の宝石(ガラス玉だけど)をギュッと握りしめた。

「いける?」

 峻作さんの言葉に頷く。

 外へ出ると、山際の方に大きな虹がかかっているのが見えた。

「あそこまで行ってみる?」

 わたしは頷く。峻作さんとなら、虹を越えることも出来そうだったから。

 きつく手を握り直し、わたしたちは虹を追った。

 忘れない。いつか消えてしまっても、そこに綺麗に輝いていたことは変わらないから。


 ねぇ……先生?


 わたし、先生を好きになって、不幸になんてならなかったよ?

 また会おうね。そうしたら、優しく頭を撫でてもらうから。

 峻作さんは少し拗ねたりするかもしれないけど、いいでしょ?


 もりのおくに眠る彼からのおくりものを落とさないよう胸に抱き、わたしたちは足を速めた。


<了>


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