結
「粛瑛。私の役目を取らないでくれないか」
室内の凍りついた空気の中で、楠王だけが場違いにも思える朗らかさで笑う。
「皓慧様……」
たじろいた玲彰に構わず、彼は里岑の傍に立つと床に片膝を付いて──本来王がやってはいけない事にも関わらず──目線を合わせた。
「里岑。私はお前に話さなくてはならない事がある」
少年は弟妹達の腕を掴んだまま、身体を扉に向け目線だけで応える。
「お前の姉、里崚は……私のせいで亡くなったのだ。だから世話をするのは当然なのだよ。施しなどではない」
小さな肩がぴくり、と動いた。
「皓慧様、お止めください!」
玲彰は常になく強い声を上げた。
──まだ、言ってはいけない。里岑の為にも。
「……あんたのせいで?」
楠王は妻の制止を聞き入れなかった。
「ああ。彼女は私の命を狙う者達に目を付けられた。家族を殺すと脅され、一味に手を貸したのだ。目的を果たせずに、口封じの為に殺されてしまった」
里岑は両手を離すと、目を見開いたまま楠王に向かって歩み寄った。一歩、二歩と。
正面に立つ。
「ころ……された? 姉ちゃんが?」
楠王は頷いた。
「嘘だ……。あんたの家臣は、不慮の事故だって」
「本当だ。毒を盛られた」
未だ男にしては華奢なばかりの里岑の手。野良仕事に汚れ、どんなに洗っても爪の間には土が残っている。傷も多い。
その両手を、彼は国王の服に掛けた。
「──嘘だ!! 何で姉ちゃんが殺されなければならない! 姉ちゃんは悪い事なんか何もするはずがないのに!!」
上質な布地に職人が技術の粋を集めて仕立てたと思われる服。襟首を躊躇いもなく、指を食い込ませて力任せに引っ張る。
「あんた、姉ちゃんが狙われているって知っていたのか!? じゃあ何で止められなかったんだ」
「済まない……」
ただ謝るばかりの相手に、尚も少年は激情を募らせた。
「姉ちゃんは俺達の為に皐乃街に行ったんだ。いつも手紙には俺達を気遣うばかりで、自分の事なんていつも『大丈夫だから心配するな』って。──その姉ちゃんがたった一度、書いたのがあんたの事だったのに!!」
楠王はされるがままに揺すぶられている。
「どうして黙っているんだ! 何とか言えよっ」
叫ぶ少年の瞳から涙が零れた。
号泣しながらも、無我夢中に腕を震う。
「返せ! 姉ちゃんを返せよ! 姉ちゃんをあんな街で──たった一人で死なせるなんて……!」
泣き叫び、目の前の男を拳で小刻みに殴りつけ、また泣く。それの繰り返し。
彼の悲しみが伝染して、弟達も再び泣き出した。
楠王は子供達を見つめたまま、一言も声を発しない。
──だからまだ早いと、止めたのに。
こんな悲嘆の場にあっても、玲彰は何処か違う場所から、冷静にそれらを観察していた。
歳よりも大人びていようとも、きっと我慢していたのだろう。
姉の代わりに、自分が家族を支えなくてはならないのだから。
「……私が憎いか」
楠王が問う。
ひとしきり暴れて泣き疲れたものか、少年は力なく床に崩れ落ちて更に小さく見えた。
それでもまだ、泣いている。息が喉に詰まって苦しげだった。
こんな場面を何処かで見た事がある、と思った。確か母が亡くなった時、隣で泣く妹の姿がやけに小さく見えたのに、自分は全く何も思わなくて──
「優しさの欠片もない」と罵られた記憶。
「恨んでいい。お前の悲しみを肩代わりする資格は私にはない。……だから、憎しみならば甘んじて受けよう」
ああ成程、と玲彰は気づいた。
憎しみが鮮やかに浮かび上がれば、悲しみは変換される。
例え悲しみを他に渡す事が出来なくとも、憎しみならば誰かにぶつけられるのだ。
だから皓慧様は傷付ける事をお選びになるのかもしれない。
「自分を責めるのは私だけで良い……」
あるかなきかの呟き。やはりと納得すると同時に、言い様のない息苦しさを感じた。
──本当に、それでいいのだろうか? 突き放されたままで?
思ったと同時に身体が動いていた。
近づいた妻の気配に楠王が振り返る。
「──粛瑛?」
彼女は里岑を抱き締めていた。
泣くのを忘れて、赤く潤んだ瞳が見開かれる。
一拍の呼吸を置いて、また泣き出した。今度は静かな嗚咽を以て。
「ねえ……ちゃん……っ……」
彼は手を伸ばす。先ほどとは違い、腕ごと彼女の項にしがみついた。
──自分が何も感じられなくても、必要な事だってあるかもしれない。
いつの間にか寄り添い共に泣いている兄弟を抱えながら、玲彰はただ静かにその背を撫で続けていた。
子供達の身体は暖かく、ほんの少し土の匂いがした。
穏やかな気持ちとはこういうものを指して言うのだろうか。
そう思って見上げると──かつてない程に──唖然とした夫の表情にかちあった。
※※※※
里岑は椅子に腰掛けて、小さな蝋燭の明かりをよすがに姉からの最後の手紙を読み直していた。
明日は国王が頼んだという貴族の邸に行く日だ。生活の面倒を見てくれると言うが、世話というからには働き口が見つかるかもしれない。郊外の野良仕事ばかりやってきた自分が王都で働けるか不安だったが、食料もこないだもらったものだけになった。行くしかないだろう。
それにしても、と幾度も読み返して皺が増えた紙を見つめて訝しく思う。
一体姉は何故、自分にこれほど謝っているのだろう。
迷惑を掛けているのは里岑達の方だ。そういい働きも出来ない上に、幼い弟妹達は空腹を訴えてばかりいる。本来嫁に行くべき年齢を姉は遊郭で過ごし、自由を奪われ娘らしい幸せを何一つ手にする事が出来ない。一度だけこっそり覗きに行った極彩色の景色は、少年の目に毒々しく空恐ろしいとしか映らなかった。
あんな世界にいるというのに、姉は決して手紙に弱音を吐かない。
元々強く優しい姉ではあったが、自分の環境を全く知らせて来ないのが常々心配だった。
それがこの手紙はどうだ。
思い人、つまり国王の事が半分を占めている。
手の届かない人を好きになってしまった。身請けをしてもらえる事になったけれども、里岑達とはまだしばらく一緒には暮らせないのが哀しい、と言う様な内容が綴られている。
彼は遊郭の仕組みは良くわからなかったが、知識を植えつけて来る近所の少年達の嫌がらせのせいで、身請けについては聞き知っていた。請け出された遊女は大抵その人の妾になるという。一緒に暮らせるのならば、手が届かないという文は訝しくはないか。
特に気になるのが、いつもと同じ身体を気遣う結びの言葉の直前に書かれたこの内容だ。
──多くの花に埋もれてやがて飽きられてしまうぐらいなら、今のままの自分を決して忘れられない様に焼き付けてしまいたい。
そんな考えすら浮かんでしまう私は、きっと狡いのでしょう。そして手を伸ばしさえすれば、この願いは叶ってしまうかもしれない。他の大切なものと引き換えに。
もしそうなってしまったら──
その時は自分勝手な姉だったと、どうか許して。
里岑。万に一つ私と会えなくなっても、どんなに辛い事があっても。
心を強く持って生きてください。
きっと貴方なら、私の代わりに弟達を立派に育ててくれると信じています。
文章はそこで区切られていた。
「私と会えなくなっても」──最初に文を受け取った時はわからなかったが、今ならこれが恐らく遺書のつもりで書いたのではないかと想像がついた。
姉は自分の身に何かが起こると予感していたのかもしれない。
その『何か』の原因を里岑は知りたかった。
──国王は事情を知っているみたいだった。聞けば教えてくれるだろうか。
自分を見る時の哀しげな眼差しの意味を、明日にでも聞いてみよう。
そう思い決めて明かりを消すと、彼は弟妹達が眠る小さな寝台に潜り込んだ。
※※※※
「どうだ、里岑は元気でやっているか」
少年が箕浦邸に来て半月が経った頃、夜に西宮にやって来た楠王は妻に尋ねた。
「暫くは意気消沈しておりましたが、今は気力を取り戻した様です。教師に学びながら、合間に邸の仕事を手伝う事になりました。家令の諫早の話では、中々の働き者だそうですよ」
そうか、と彼はまんざらでもない様子だ。心なしか上機嫌に見える。
お互いに多忙を極めていた為、妻と顔を合わせるのも久方振りだった。
「其方も随分と忙しいと聞くが、里岑の面倒まで見てもらって済まないな」
「いえ。賢い子供です。このまま教育していけば、いずれは必ず次代を担う人物に育てられるでしょう。今から楽しみです」
玲彰の表情はいつもと変わらない。にも関わらず、楠王は何か引っかかったらしく片眉を上げた。
「……珍しいな。其方の口からそんな言葉が出るなんて」
「研医殿は優秀な人材を求めています。王宮とは違い、身分の別がない。原石を手にするのは喜ばしい事ではありませんか」
さっきまでの上機嫌はどこへやら、楠王は不貞腐れた様に「里岑は其方に懐いているらしいしな」とぼやいた。
ああ、と彼女は事もなげに言う。
「何かの折にあの子が申しておりました。私は姉に雰囲気が似ているのだそうです。皓慧様もそう思われますか?」
何気ない様子の切り返しに、どういうわけか楠王は慌て始めた。
「い、いや。外見は全く似ていないし、中身だって私は全く逆だと思うぞ」
女の趣味が偏っているなどとは認めたくなくて、何としても否定する事例を出そうとする。
──何故私が慌てなければならんのだ。
葉山と違い、妻は何処か人として危うい。何を思っているのかほぼ予想が付かないし、付く時は大抵楠王が複雑な思いになる原因の場合が多い。例えば今の様に。
第一あちらはもっと色気があったと──それは賢明にも口に出さずに留めた。
「どうなさったんです? 何か変な質問でしたか」
「……いや。何でもない……」
結局自分は、意のままにならない女が好きなのだろうかと憮然とする。
立ち上がり、向かい合っていた妻の椅子に近寄る。脇に片膝を乗せ、両手を肘掛に付いて顔を覗き込んだ。
「子供に優しくするのも良いが、半月振りに会うのだ。……何か忘れていないか」
甘く囁く声に、玲彰はだがほんの少し考える様子を見せた。
やがて思い至ったとばかりに手を伸ばす。
「粛瑛──」
物憂げに伏せた楠王の眼差しが、一瞬にして見開かれた。
子供をあやす様な、頭を撫でる手。
「……何だそれは」
「優しくしてみました。里岑はこうすると落ち着くそうです──背中の方が良かったですか?」
「ふ! ふざけるなっ」
子供じゃないんだから、そう続けようとして彼は言葉を失った。
妻の顔に、微笑みに似た表情が浮かんでいる。
初めて見る、玲彰の笑顔は非常にぎこちなくて。
恐らく自分でも笑っていると自覚していないのだろう。
それでも彼の心臓を止める程度の威力を充分持っていた。
「……いや、出来ればもう少し違う場所で……」
──度し難いにも程がある。
恐らくこれが、「惚れた弱み」というものだろう。
ほんの少し口角を上げた風にしか見えない、そんな顔を眩しいと感じるなんて。
魂を抜かれながらも、この喜ばしい変化がどうか里岑に拠るものではないようにと──切に願う楠王だった。
─了─
ここまでお読み頂き、ありがとうございます。
器用に見えて案外振り回されてしまう楠王と、複雑に見えて単純な玲彰の物語。いかがでしたでしょうか。
主人公以外の登場人物にも悲喜こもごも、が伝われば幸いです。