第8話:sing on
赤井紅は、目の前に立つクラスメイトをじっと見つめていた。
風なんて吹いていないのに、不自然に揺れるその髪を。
ぱっつんに切り揃えられた黒髪はひらひらと、誘うように踊っていた。
「あちゃー聞かれちゃったか。本当はね、」
合唱部顧問の紫が手にしていた紙を見せてきた。
紅は黒髪から視線を外して、紙に目を落とす。
「紅ちゃんもだよ。今年のアンサンブル選抜、紅ちゃんはソプラノで心ちゃんはアルト……っていうのを、今日か明日みんなに言おうと思って」
その言葉通り。
たった8人、規定の最低人数の名簿がそこには記されていた。
ソプラノ──アンサンブルの顔。
「おぉ、やっとっすか」
高鳴る胸を押さえ、努めて冷静に紅は言って、小さく笑った。
「ま、あたしが歌えば地区選抜くらい楽勝っす」
「さすが紅ちゃん自信たっぷり」
「当然っす。先生を全国大会まで連れてくんで、今のうちにホテルと飛行機取っといた方がいいっすよ。ね、心」
「そうだね」
心が前髪を揺らして笑った。
今回アルトに選ばれた彼女は、普段何を考えているかわからない。
ただ空気を読んだ行動をしているだけ、害はないけど自我もない。
歌は……まぁ、普通。
「曲は何にするっすか?」
「徹夜祷だね、ラフマニノフの」
「へぇぇ、いいっすね!」
知ってる。
特に中盤からの盛り上がりは、ソプラノの独壇場。
あたしの。
「じゃあ練習行こっか」
「「はい」」
紫に促されて歩き出す。
地区選抜どころか全国大会だって、当然出る気だ。トーキョーの広いホール、最高の音響と柔らかな照明に囲まれた自分を、ありありと想像できている。
「……紅、そのボゴラツィ……? って、どんな歌だっけ」
その空気が、隣に並び立つ心からは感じられない。
アルトという"与えられた役割"を、ただ受け入れているだけのようで。
「ボゴロディツェ・デヴォね。帝露で作られた讃美歌ってか、宗教曲。1年の時やんなかった?」
「やっ……たか……たぶん聞いたら思い出せる……」
ふん、と鼻を鳴らして、紅は息を吸い込んだ。
喉を軽く締めて、気道をまっすぐに立て直して。
「Богородице──Дево,──Радуйся……」
荘厳な讃美歌、その一節。
生神女を讃える歓びの歌を、紅は小声で歌い上げた。
喉から吹き抜ける自らの歌声が鼓膜を揺らし、脳内で甘美なハーモニーを奏でる。
すっと短く息を吸う。
隣の心も完璧なタイミングで息を吸った。
呼吸が、合わさる。
「Благодатная──」
「うんうんわかった、思い出したよ」
しかし心は、ハーモニーには加わらなかった。
おっけおっけ、と頷きながら歩みを進める心を見て、紅は静かに口を閉じた。
……合唱部なら、一緒に歌い出そうとして当然なのに。
完全に歌うための呼吸だった。
それとも、今は独唱だと。
あたしの独唱だからと、身を引いた……?
ざああ、と風が吹いた。
歌い切った一節が、風に溶けて消えていく。
「……歌えばよかったのに」
「えっ?」
「心だってアルトの選抜でしょ」
「あぁ、うん……ちょっと考え事してて」
選抜メンバーに選ばれたこと以外に、考え事が……?
紅は軽く頭を振って心を追い抜くと、前をゆく紫と歩調を合わせた。
紫先生の瞳の色は紫です。
紅ちゃんの瞳の色は赤です。わかりやすいですね。
描写はしないけどね。
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