第5話:bloom
──あれは夢だったのかもしれない。
北の大地に、まだ桜は咲かない。
4月。新生活への不安と期待が日常に変わりつつある今日も、寒々しい枝には蕾ひとつない。
「このシュメールってのは地域名だけじゃなく、言語から文明からひっくるめた言葉だから覚えとけよ」
2年生になりクラス替えがあり、新しいクラスメイトの顔と名前を覚えて。
ネムリケとの戦いで"凍狐"をやっつけた烟山先生は、気怠そうに世界史の教科書を開いている。
「1年で楔形文字って習ったべ、それを作ったのもシュメール人だ。じゃあ古代エジプトで作られた文字は……はい風見」
「象形文字」
「正解。象形文字ってのはどんな文字だ? えーと……はい次、近藤」
クラスは変わっても先生は変わらない。
いつも通り、シャツの胸ポケットを煙草で膨らませながら、教科書をなぞるように授業を進めていく。
だからあのバトルは、夢だったのかもしれない……
なんて。
放課後、人気のない校庭の隅。
ヘビを踏みつけたまま仁王立ちしている烟山先生と目が合ったとき、あれは現実離れした現実だったんだと思い出させた。
「……なにを、」
「何してんだ風見」
しっしっ、と手で追い払うような素振りを見せる先生は、険しい顔だ。
その足元にいるのは、時間を止めて生徒を襲う、悪い存在──
「ネムリケ、ですか?」
「ただのヘビだよ」
「でも」
そのヘビには。
「……羽根、生えてますけど」
「羽根の生えた新種のヘビだようるせェな」
「いやいやいや」
「なんでお前がこんなところにいるんだよ、授業終わったなら帰れさっさと」
「合唱部の練習です。このあとみんな来ますけど」
「えぇ〜はぁ〜面倒臭ぇ〜」
先生は頭をボリボリかきながら、煙草に火をつけた。
もともと癖っ毛であちこち跳ねている髪が、余計にぐしゃぐしゃになる。
「ここも禁煙です先生。ていうか、また時間を……」
「こいつは止めねえ、"凍狐"には時間を凍らせる能力があっただけだ。"蜒蛇"にそんな力はない」
「エンダ……そいつがエンダですか?」
静かに問うと、先生はまた嫌そうな顔をした……けど先生が口を滑らせたので私はあんまり悪くない。
聞き返したのは、よくなかったかもしれないけど。
「…………お前はなにも見てない、聞いてもいない。俺はコッソリ煙草吸ってたところ、新種のヘビが出たんでビビって踏み殺した、以上。解散。歌でもなんでも好きにやれ」
先生は煙を吸い込むと、煙草の火をヘビに……"蜒蛇"に押し当てた。
口を大きく開けてもがく"蜒蛇"に、濃い煙を吹き込んでいく。
「うっるせェな、とっとと死ね」
羽根をばたつかせる"蜒蛇"に向かって、先生は吐き捨てた。
「……ネムリケって、鳴いたり喋ったりしないんですか?」
「知りませーん」
「っていうか、先生は何者なんですか?」
「わかりませーん」
"蜒蛇"はいつの間にか、霧のように消えていて。
先生ははぐらかしながら背中を向けて歩き去っていく。
「心、やっぱり音楽準備室使っていいらしいよ!」
同じ合唱部のクラスメイトが走ってきた。
振り返ろうとした時には、もう先生はいなくなっていた。
この子、よく声が通る……けど、周りにぼんやりと広がっていく感じ、なんだよなあ。
「あれ、吹奏楽部は使わないの?」
「新入生向けの演奏会やるらしくて」
「えーいいなぁ」
私たちも新入生にもっとアピールしたいよね、と言いかけてやめる。
この子はそこまで合唱に本気じゃない。
歌うときの風量と、身に纏う風でわかるから。
「てか煙草臭くない、烟山先生でもいたの?」
「あぁ、うん……もうどこか行っちゃった」
「えー、会いたかったぁ」
残念そうな顔であたりを見回すクラスメイトを眺めながら。
秘密を共有しているような感覚に、ちょっとだけ胸が躍った。
「……ねぇ心あそこ見て、ヘビいるヘビ!」
「……えっ?!」
皆様もうお分かりですね。
舞台は北海道です。




