第3話:sting
瞬の吐き出した煙草の煙が、体育館倉庫を満たす。
肺に入った量とは思えない爆煙に、心は目を丸くした。
煙は体育館にまで流れ出し、瞬く間にその大空間を覆い尽くした。
「先生、学校は禁煙……ってか、それどころじゃ……」
心の絞り出すように言った言葉が詰まる。
体育館の天井に、真っ青な狐が張り付いていた。
ぎょろりと大きな目玉。
全身の毛を逆立てて、瞬を見下ろす鋭い眼光。
濃紺の無数に枝分かれした尻尾。
九尾の狐、という単語を、心は思い出していた。
「やっぱ"凍狐"じゃん」
「トーコ……?」
「時間を止める、てか凍らせるネムリケ。あいつ、尻尾が八本なんだよ。九尾の出来損ない」
文字通り煙で燻り出された"凍狐"を見つめながら、瞬は気怠そうに言った。
その口調は、授業中のそれと同じテンション。
「あれ……どうするんですか?」
「殺す」
その、短い言葉を言い切る前に。
"凍狐"が牙を剥いて跳躍。
「──ッ!!」
心は思わず目を固くつぶった。
殺意の塊が、煙を纏ってまっすぐ向かってくるのが見えたから。
悲鳴すら上げられない心とは対照的に、瞬は僅かに目を細めると、もう一度肺まで深く煙草の煙を吸い込んだ。
"凍狐"の牙が到達する、その一秒前──
瞬の吐き出した濃煙が、"凍狐"を包む。
ぶわりと漂う煙に向かってジッポライターを掲げ、着火。
ボン、と小さな音と共に、煙が爆発。
真っ白な光が、心の閉ざした瞼に突き刺さった。
「うぅわ……!!」
喉から声が漏れたのは心だった。
爆発の熱が頬を撫で、前髪を激しく揺らす。
「下がってろって言ったろ、風見」
「下がってろとは言われてないです!」
「うるせェ口答えすんな」
一瞬炎に包まれた"凍狐"の顔面を蹴り飛ばし、瞬はもう一本煙草を取り出した。
「は、早くやっつけて……」
「うるせェ」
言われなくても、とばかりに、瞬は拳を握りしめる。
「俺は煙しか制御できねえの、さっき燃やしたのはただの応用。ひたすらブン殴るしか、ねぇッ」
体育館のフローリングで体勢を整えた"凍狐"が再度向かってくるのを、瞬はその拳で叩き落とす。
「黙ってちっちゃくなってれ、邪魔だから」
「はいぃっ」
軽い足音と共に、瞬が飛び出す。
広い体育館に充満していた靄が、意思を持つかのように瞬のもとへ集まってきた。
煙を全身に纏いながら、瞬は逃げる"凍狐"に迫っていく。
しかし、"凍狐"は動かなくなった生徒たちの隙間を縫いながら、猛スピードで体育館の端まで駆けていく。
「逃げんなよクソ……ッ!」
瞬が煙草を吸い込み、細く煙を吐いた。
槍のように尖った煙の先端が、一瞬振り返った"凍狐"の顔面に命中。牙を剥き出しにして威嚇していた"凍狐"は、はじめて顔をしかめた。
「おりゃっ!」
瞬は、動きを止めた"凍狐"に膝蹴りを見舞おうとしたが、"凍狐"は尻尾を振りながらするりと身をくねらせて避ける。
その様子を呆然と見つめながら、心は"凍狐"が纏う冷たい空気を、同時に目で追っていた。
凍りついた空気、風のない体育館。
"凍狐"の進もうとする先にだけ、微かな風の流れが視える。
"凍狐"の鼻息か、吐く息かはわからないけど。
風で道を作って、その中を進んでる……?
それに気づいた瞬間、心は勢いよく立ち上がった。
「せっ、先生!!」
大声を出しても、"凍狐"との戦いに熱中しているらしい瞬は振り向きもしない。
"凍狐"が噛みつこうとする。瞬がかわして殴り返そうとする。その拳が、宙を切った。
そっちじゃない、と心は首を振る。
でも。
ここで大声を出して、"凍狐"に気づかれたら?
自分なんかがしゃしゃり出て、先生の邪魔にならないか?
心はセーラー服の裾を握りしめた。
"凍狐"が瞬に突進していく。正面から受け止めた瞬のポケットから、煙草が数本弾け飛んだ。
蹴り飛ばそうとした瞬の長い脚は、またも虚空を裂く。
次に"凍狐"が動く先は──
心は、自身のまわりの空気に目配せをすると、思いっきり息を吸い込んだ。
体育館倉庫に、風が生まれる。
汗でぺたりと張り付いた心の前髪が揺れる。
心の小さな口に向かう風の流れの中、微かな煙草の匂いを感じた。
風見 心ちゃんのイメージは、「君に捧げる男前」の藍先輩と=LOVEの野口衣織を足して割った感じです。
伝われ。




