第2話:cold menthol
顎の先から汗が垂れて、もう何度目かわからないほど訪れた体育館の床にぽたりと落ちた。
丸一日──体操服姿の生徒たちは微動だにしない。
凍りついたのは時間、だけではない。
「チッ……」
小さく舌打ちしながら、ポケットに手を突っ込む。
ジッポライターと煙草の箱を指先で弄びながら、ふと体育館倉庫にまだ足を踏み入れていないことに気付いた。
スニーカーの音を響かせながら、倉庫の扉に手を掛けて勢いよくこじ開ける。
そこには、ひとりの生徒がいて。
「……烟山先生……?」
その口が、そう、動いた。
「…………え」
思わず声が出て、慌てて口を閉じた。
その拍子に、ポケットから煙草のソフトケースがこぼれ落ちる。
「えっ、えっ、あの、烟山先生」
「どうした風見」
「……校舎内は禁煙ですよ」
指をさされて、烟山瞬は小さく頭をかいた。
「……うるせェ。てかお前、なんで──」
なんで、動ける?
「どうなってるんですか先生、丸一日は時間が止まってるんですけど」
その生徒、風見心は表情を変えずに問うた。
女子にしては低く落ち着いた声が、生徒たちでひしめくだだっ広い体育館にこだまする。
「……えらい冷静だな」
「なんか、変な感じがして、騒いだらよくないかなって」
「賢明じゃん」
適当に返しながら煙草を拾い上げた。
指先が微かに震えているのを隠すために、手にした煙草を強く握りしめる。
「……風見、お前今、どういう状況かわかってんの?」
ソフトケースから、ぐにゃりと折れ曲がった煙草を取り出しながら、瞬は問うた。
ポケットの中で、ジッポの蓋を静かに開く。
いつでも点火できるように。
「なんか……風が凍ってます」
その言葉に、無意識のうちに眉がぴくりと動いた。
「風が?」
訊き返せば、心は"しまった"という顔をした。
今更、しまったも何もない。止まった世界で動けているのだから、常人でないことは誰の目にも明らか。
「……お前も、異能か」
「あっ……あの、わ、私……"風見鶏"の家系なので、風とか空気の流れが読めるし、視えるんです。 ……これ、異能っていうんですかね」
「……へぇ」
ひん曲がった煙草を咥えながら、瞬はこめかみを押さえた。
教え子、異能持ち。
最悪なピースが、脳内で小気味のいい音を立てて嵌っていく。
「先生はなんで動けるんですか?」
「あ? 先生だからだよ」
「そんなわけ」
心が気怠そうに笑う。
無気力に流されていそうで、しかし今の状況を的確に把握しているようだ。
取り乱しもせず、ただ目には見えない風を見つめている。
「……ネムリケの仕業」
瞬は小さくため息を吐いてから、声を出した。
「……ネムリケ?」
「なんつーの、化け物的な? 人間に悪さする存在がこの世界にはいて、俺らはそれをネムリケって呼んでる。で、あのネムリケは時間ごとこの一帯を凍らせて、俺にバレないように誰かを喰おうとしてんの」
どんな政変や市民革命よりも単純明快、社会の授業より簡単な話だ。
「して、俺はネムリケを倒すためにいる。なんで風見が動けてんのかは、まぁこの際どうでもいい。黙ってそこにいなさい、危ねえから」
「はい」
心は頷いて、ぺたんとその場に座った。
特異な事象に巻き込まれても取り乱さないのは、特異な事象に慣れているからか──いや。
今は理由なんてどうでもいい。
「でも、よかったです」
「何が」
「このまま時間が止まったままなのかと思いましたけど、先生がいてくれて。ほかに誰がいるんですか?」
「…………は?」
「え。先生ともうひとり、風が動く気配がしてて──」
心が言い終わる前に、瞬は素早く煙草に火をつけた。
「あっ、先生ここ禁煙ですってば」
「もうひとりって何処だ」
「え?」
「何処だって聞いてんだ!」
「え、その、体育館の……」
瞬のこめかみに汗が伝う。
煙草の煙を深く吸い込んでから、瞬は吐き捨てるように言った。
「この中で動けるっつったら、あとはネムリケしかいねえだろうが……!」
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