ガムテープの檻
夜十時を回り、住宅街の明かりはまばらになっていた。
街灯が頼りなく落とすオレンジ色の円を縫いながら、美月先輩のアパートへと続く緩やかな坂道を登っていく。
歩く先輩の右腕は、私の左腕に骨が軋むほどの力で絡みついていた。
ポケットの中に入れた黒い組み紐の鈴が、歩調に合わせて小さくチリ、チリと鳴る。
その乾いた冷たさだけが、私の背筋に張り付く嫌な汗を辛うじて繋ぎ止めていた。
「……あそこ」
先輩が足を止め、震える指先で前方を指した。
築三十年は下らないであろう、二階建てのモルタルアパート。
外階段の鉄骨は赤茶色に錆び付き、二階の廊下に灯る蛍光灯が一本、ジジ、ジジと不吉な羽音のような音を立てて明滅している。
建物全体が、まるで周囲の闇を吸い込んで吐き出す呼吸をしているかのように、重苦しく淀んでいた。
「……二階の、一番奥の部屋」
先輩の声は、吐く息の白さよりも薄く消え入りそうだった。
階段を一段登るたびに、鉄板がギィ、ギィと甲高い軋み音を立てる。
外廊下の壁には、ひび割れたモルタルに無数の黒ずんだ雨染みが走っていた。その染みのひとつひとつが、横目で見るたびに人の顔の輪郭に見えて、私は意識して足元だけを見つめて歩いた。
二〇四号室。
ドアノブの前に立った先輩の手が、激しく震えて鍵穴を捉えられない。
「先輩、貸してください」
鍵を受け取り、シリンダーに差し込んで回す。
カチリ、と硬い金属音が夜気に響いた。
ドアノブを押し下げ、ゆっくりと扉を開ける。
――その瞬間、鼻腔を突いたのは、異様な臭気だった。
古い糊の饐えた匂いと、雨上がりの土壁のような湿った埃のにおい。
そして、その奥から微かに立ち上る、腐敗した生肉を水に浸したような、あの「悪意」の臭気。
靴を脱ぎ、玄関の明かりを点ける。
パチ、と白いLEDが灯った瞬間、私は思わず息を呑んだ。
「……っ」
異様、という言葉すら生ぬるい光景だった。
フローリングの床と壁の継ぎ目という継ぎ目、ドア枠とクロスのわずかな段差、下駄箱の扉の合わせ目――ありとあらゆる「隙間」に、何重にも茶色い布ガムテープがびっしりと貼り巡らされていた。
壁の巾木に沿って走る、幾筋もの茶色い帯。
テープの端は雑に引きちぎられ、糊がはみ出して黒い埃を吸着している。
まるで、部屋全体に巨大な蜘蛛が茶色い糸を吐き散らし、自らを閉じ込める繭を作ったかのようだった。
「……ここも、あそこも……全部、塞いだの」
先輩が靴を脱ぎ散らかし、狂気じみた手つきで壁のテープを指先で押さえて回る。
「でもね、陽菜……塞げば塞ぐほど、テープの端がめくれてくるの。接着面が浮いて、できた新しい隙間から……また、覗いてくるの……」
私は奥の六畳間へ足を踏み入れた。
部屋の中央にはローテーブル。その奥にシングルベッドと、背の高いスチールラック、そして造り付けのクローゼットがある。
ラックの棚板と支柱の継ぎ目、ベッドのヘッドボードとマットレスのわずかな隙間、コンセントプレートの縁にまで、幾重にもテープが貼り付けられていた。
静まり返った部屋。
冷蔵庫の低いモーター音すらなく、ただ私たちの荒い呼吸音だけが反響している。
(……寒い)
暖房もつけていない初冬の夜とはいえ、部屋の空気は尋常ではなかった。
窓を閉め切っているはずなのに、首筋をツツッと冷たい風が撫でていく。
どこから風が入ってきているのか。隙間はすべて、ガムテープで塞がれているはずなのに。
『その部屋には、奴が最初に溜まり始め、巣の起点となった「始まりの隙間」が必ずある』
詠ちゃんの言葉が、頭の奥で反響した。
『もっとも冷気が淀み、嫌な気配が濃い場所を見つけ出し、その紙縒りで隙間を縛り上げるのじゃ』
私は息を殺し、意識を尖らせて部屋を見回した。
どこだ。どこから、この悪意が湧き出している?
本棚の裏。
クローゼットの引き戸の隙間。
ベッドの下。
足を踏み出すたびに、足裏の靴下越しに、氷を踏んでいるかのような冷気が床板から伝わってくる。
部屋の温度が、一歩ごとに不自然に下がっていく場所があった。
――ベッドの奥。
窓と、壁の角に挟まれた、幅十センチにも満たないデッドスペース。
そこには、先輩が教科書や雑誌を詰め込んだ、三段のカラーボックスが置かれていた。
そのカラーボックスと、白い壁クロスの間。
そこにも念入りにガムテープが何枚も重ね貼りされていた。
けれど――。
(……浮いてる)
何重にも貼られたテープの中央、ちょうど大人の目線の高さあたりの一枚が、内側から押し出されたように、ふわりと弓なりに膨らんでいた。
剥がれかけた粘着面と壁の間に生じた、わずか数ミリの暗い隙間。
そこから、ツウ、と糸を引くような冷気が噴き出していた。
部屋中の冷気と、あの饐えた悪臭のすべてが、その細い裂け目から漏れ出ている。
「先輩……ここ、です」
私の声に、部屋の隅で縮こまっていた美月先輩がびくりと肩を震わせた。
「そこ……? でも、そこは最初にテープを貼った場所で……」
「ここに、紙縒りを通します。……先輩、紙縒りを」
先輩が震える手でポケットから、詠ちゃんに渡された紅い紙縒りを取り出した。
その時だった。
――ピキ。
静まり返った六畳間に、乾いた粘着テープの剥がれる音が響いた。
私の目の前。
カラーボックスと壁の間で膨らんでいたガムテープが、まるで内側から鋭利な爪で引き裂かれたかのように、縦にツ、と裂けた。
――ペタ、ペタ。
濡れた皮が、壁の裏を這い上がる生々しい音。
裂け目の奥、光の届かない漆黒の深淵から――何かが、ゆっくりとせり上がってきた。
白く濁った、血走った二つの眼球。
まぶたのないその目が、数ミリの暗がりの中から、ぎちぎちと不気味な軋みを立てて私を見据えていた。
「ひ……っ!」
先輩が悲鳴を呑み込み、尻もちをつく。
逃げ場のない数ミリの死角の奥で、その眼球がぐにゃりと歪み、裂けたテープの縁から、青白い指先が、ずるりと這い出してきた。
――ま ぁ ま
耳の鼓膜に直接、氷水を流し込まれるような掠れた嬌声が響き渡った。




