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忌み喰らいノ詠 ~都市伝説を喰らうたび、少女へとつくりかえられていく呪術師の怪異譚~  作者: あかぱん
隙間女って知ってる...?

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9/11

ガムテープの檻

夜十時を回り、住宅街の明かりはまばらになっていた。

街灯が頼りなく落とすオレンジ色の円を縫いながら、美月先輩のアパートへと続く緩やかな坂道を登っていく。


歩く先輩の右腕は、私の左腕に骨が軋むほどの力で絡みついていた。

ポケットの中に入れた黒い組み紐の鈴が、歩調に合わせて小さくチリ、チリと鳴る。

その乾いた冷たさだけが、私の背筋に張り付く嫌な汗を辛うじて繋ぎ止めていた。


「……あそこ」


先輩が足を止め、震える指先で前方を指した。


築三十年は下らないであろう、二階建てのモルタルアパート。

外階段の鉄骨は赤茶色に錆び付き、二階の廊下に灯る蛍光灯が一本、ジジ、ジジと不吉な羽音のような音を立てて明滅している。

建物全体が、まるで周囲の闇を吸い込んで吐き出す呼吸をしているかのように、重苦しく淀んでいた。


「……二階の、一番奥の部屋」


先輩の声は、吐く息の白さよりも薄く消え入りそうだった。

階段を一段登るたびに、鉄板がギィ、ギィと甲高い軋み音を立てる。

外廊下の壁には、ひび割れたモルタルに無数の黒ずんだ雨染みが走っていた。その染みのひとつひとつが、横目で見るたびに人の顔の輪郭に見えて、私は意識して足元だけを見つめて歩いた。


二〇四号室。

ドアノブの前に立った先輩の手が、激しく震えて鍵穴を捉えられない。


「先輩、貸してください」


鍵を受け取り、シリンダーに差し込んで回す。

カチリ、と硬い金属音が夜気に響いた。

ドアノブを押し下げ、ゆっくりと扉を開ける。


――その瞬間、鼻腔を突いたのは、異様な臭気だった。


古い糊の饐(す)えた匂いと、雨上がりの土壁のような湿った埃のにおい。

そして、その奥から微かに立ち上る、腐敗した生肉を水に浸したような、あの「悪意」の臭気。


靴を脱ぎ、玄関の明かりを点ける。

パチ、と白いLEDが灯った瞬間、私は思わず息を呑んだ。


「……っ」


異様、という言葉すら生ぬるい光景だった。

フローリングの床と壁の継ぎ目という継ぎ目、ドア枠とクロスのわずかな段差、下駄箱の扉の合わせ目――ありとあらゆる「隙間」に、何重にも茶色い布ガムテープがびっしりと貼り巡らされていた。


壁の巾木(はばき)に沿って走る、幾筋もの茶色い帯。

テープの端は雑に引きちぎられ、糊がはみ出して黒い埃を吸着している。

まるで、部屋全体に巨大な蜘蛛が茶色い糸を吐き散らし、自らを閉じ込める繭を作ったかのようだった。


「……ここも、あそこも……全部、塞いだの」


先輩が靴を脱ぎ散らかし、狂気じみた手つきで壁のテープを指先で押さえて回る。


「でもね、陽菜……塞げば塞ぐほど、テープの端がめくれてくるの。接着面が浮いて、できた新しい隙間から……また、覗いてくるの……」


私は奥の六畳間へ足を踏み入れた。

部屋の中央にはローテーブル。その奥にシングルベッドと、背の高いスチールラック、そして造り付けのクローゼットがある。

ラックの棚板と支柱の継ぎ目、ベッドのヘッドボードとマットレスのわずかな隙間、コンセントプレートの縁にまで、幾重にもテープが貼り付けられていた。


静まり返った部屋。

冷蔵庫の低いモーター音すらなく、ただ私たちの荒い呼吸音だけが反響している。


(……寒い)


暖房もつけていない初冬の夜とはいえ、部屋の空気は尋常ではなかった。

窓を閉め切っているはずなのに、首筋をツツッと冷たい風が撫でていく。

どこから風が入ってきているのか。隙間はすべて、ガムテープで塞がれているはずなのに。


『その部屋には、奴が最初に溜まり始め、巣の起点となった「始まりの隙間」が必ずある』


詠ちゃんの言葉が、頭の奥で反響した。

『もっとも冷気が淀み、嫌な気配が濃い場所を見つけ出し、その紙縒りで隙間を縛り上げるのじゃ』


私は息を殺し、意識を尖らせて部屋を見回した。

どこだ。どこから、この悪意が湧き出している?


本棚の裏。

クローゼットの引き戸の隙間。

ベッドの下。


足を踏み出すたびに、足裏の靴下越しに、氷を踏んでいるかのような冷気が床板から伝わってくる。

部屋の温度が、一歩ごとに不自然に下がっていく場所があった。


――ベッドの奥。

窓と、壁の角に挟まれた、幅十センチにも満たないデッドスペース。

そこには、先輩が教科書や雑誌を詰め込んだ、三段のカラーボックスが置かれていた。


そのカラーボックスと、白い壁クロスの間。

そこにも念入りにガムテープが何枚も重ね貼りされていた。

けれど――。


(……浮いてる)


何重にも貼られたテープの中央、ちょうど大人の目線の高さあたりの一枚が、内側から押し出されたように、ふわりと弓なりに膨らんでいた。

剥がれかけた粘着面と壁の間に生じた、わずか数ミリの暗い隙間。


そこから、ツウ、と糸を引くような冷気が噴き出していた。

部屋中の冷気と、あの饐えた悪臭のすべてが、その細い裂け目から漏れ出ている。


「先輩……ここ、です」


私の声に、部屋の隅で縮こまっていた美月先輩がびくりと肩を震わせた。


「そこ……? でも、そこは最初にテープを貼った場所で……」

「ここに、紙縒りを通します。……先輩、紙縒りを」


先輩が震える手でポケットから、詠ちゃんに渡された紅い紙縒りを取り出した。

その時だった。


――ピキ。


静まり返った六畳間に、乾いた粘着テープの剥がれる音が響いた。


私の目の前。

カラーボックスと壁の間で膨らんでいたガムテープが、まるで内側から鋭利な爪で引き裂かれたかのように、縦にツ、と裂けた。


――ペタ、ペタ。


濡れた皮が、壁の裏を這い上がる生々しい音。

裂け目の奥、光の届かない漆黒の深淵から――何かが、ゆっくりとせり上がってきた。


白く濁った、血走った二つの眼球。

まぶたのないその目が、数ミリの暗がりの中から、ぎちぎちと不気味な軋みを立てて私を見据えていた。


「ひ……っ!」


先輩が悲鳴を呑み込み、尻もちをつく。

逃げ場のない数ミリの死角の奥で、その眼球がぐにゃりと歪み、裂けたテープの縁から、青白い指先が、ずるりと這い出してきた。


――ま ぁ ま


耳の鼓膜に直接、氷水を流し込まれるような掠れた嬌声が響き渡った。

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