隙間の淀み
「ひっ、あ……ぁ……っ!」
美月先輩が喉の奥で引きつった悲鳴を上げ、床にへたり込んだまま後ろへと這いずった。
けれど、逃げ場など最初からなかった。
――ピキ、ピキピキ、ピキッ……!
カラーボックスの隙間だけではない。
部屋中の壁、巾木、クローゼットの扉、ベッドの隙間に貼り巡らされていた無数の茶色いガムテープが、まるで内側から皮膚を食い破る無数の蛆虫のように、一斉に乾いた音を立てて裂け始めた。
――まぁま
掠れた、水を含んだような子どもの声が、部屋中のあらゆる暗がりから重なり合って湧き出してくる。
ステレオのように、四方八方から耳の奥へ直接針を刺されるような耳鳴り。
裂けたテープのわずか数ミリの隙間から、青白い指先が、何十本、何百本と蠢き出してきた。
爪は黒ずみ、泥のようにふやけた肉がずるずると擦れ合う音が響く。
「ひっ、いや……っ!」
心臓が早鐘を打ち、全身の毛穴という毛穴が凍りつく。
足がすくんで、立っていられない。
二本の足で地面を蹴る感覚すら失い、膝がガクガクと震えて、私はその場にへたり込みそうになった。
怖い。あまりにも、異常すぎる。
前回の怪異とは違う、じっとりと肌にまとわりつくような、生理的な悪寒と逃げ場のない圧迫感。
その時――。
壁中の亀裂から這い出た無数の血走った眼球が、ぎちりと軋む音を立てて、一斉に向きを変えた。
美月先輩から、私へ。
私の胸の奥で渦巻く、異常なまでに強烈な「生の因果」。
死者も生者も無差別に惹きつけてしまうその熱情の匂いを嗅ぎつけた瞬間、怪異の執念が濁流となって私へと雪崩れ込んできた。
――まぁま まぁま まぁま まぁま まぁま まぁま まぁま まぁま まぁま まぁま まぁま まぁま まぁま まぁま まぁま まぁま まぁま まぁま まぁま まぁま まぁま まぁま まぁま まぁま
言葉にならない。
ただひたすらに、同じ音節を、壊れたレコードのように反復する狂気。
カラーボックスの奥から、頭蓋骨を極限まで平たく押し潰したような女の顔面が、ヌルリと這り出してきた。
目は焦点が合わず、白濁した瞳孔が小刻みに痙攣している。
裂けた口から、黒く濁った体液をダラダラと垂らしながら、ゴムのように引き伸ばされた首が私の顔のすぐ前まで迫る。
冷たい。痛いほどに冷たい指先が、私の足首に、手首に、首筋に巻きついた。
皮膚の毛穴という毛穴から、ドロリとした悪霊の泥が滑り込もうと侵食してくる。
「い、嫌っ……! あ、離して……っ!」
声が震えて、まともに出ない。
涙がぼろぼろと溢れ、視界が恐怖で白く霞む。
陸上部で鍛えた足なんて、何の役にも立たない。骨の髄まで冷気に侵され、指一本すら動かせなくなりそうだった。
(死ぬ……乗っ取られる……っ)
その時、ポケットの中で硬いものが擦れ合った。
詠ちゃんから渡された、紅い紙縒り。
『もっとも冷気が淀み、嫌な気配が濃い場所を見つけ出し、その紙縒りで隙間を縛り上げるのじゃ』
詠ちゃんの声が、凍りつきかけた頭の奥でわずかに響いた。
ここで諦めたら、私も先輩も、内側から食い破られて終わる。
私は震える指先にありったけの力を込め、麻痺しかけた右手を無理やり前へと突き出した。
「ここから……出ていってよッ!」
カラーボックスと壁の境目――怪異が這い出し、最も濃密な腐敗臭が吹き出す「始まりの裂け目」へ、紅い紙縒りを力任せに押し込み、二つの境界を固結びに引き絞った。
ギュウッ、と紙縒りが壁と木枠を締め上げる。
その瞬間、部屋を満たしていた何百もの嬌声が、耳をつんざくような絶叫へと変わった。
「――ギャアアアアアアッ!!」
部屋中の隙間から這い出しかけていた無数の腕や目玉が、激しい勢いでカラーボックスの隙間へと吸い戻されていく。
散らばっていた死角の糸が手繰り寄せられ、怪異の輪郭がひとつに縫い留められていくのだ。
隙間に押し戻され、暴れ狂う女の頭部が、私を道連れにしようと顎をガチガチと鳴らす。
私は震える手でポケットを探り、黒い組み紐の鈴を掴み出した。
――チリン。
狭い六畳間に、澄んだ金属音が鳴り響いた。
その音に応じるように、部屋の明かりが一斉に消え去る。
完全な静寂。
けれど、それは救いではなく、より深い怪異の訪れだった。
――ズブ、ズブブブ……。
床板の木目、畳の目、家具の影という影から、墨汁のような漆黒の闇が盛り上がってくる。
影が立ち上がり、無数の鋭利な牙を持った巨大な顎を形作っていく。
暗闇の奥から、カラン、コロンと、小気味のいい下駄の音が響いた。
市松模様の着物の裾を翻し、月明かりを浴びて現れたのは、烏丸詠ちゃんだった。
詠ちゃんは私と怪異を一瞥し、冷徹な声で告げた。
「朔、噛み砕け」
「御意」
影の中から響いた冷たい声とともに、漆黒の牙が一気に噛み合わさった。
バキッ、ぐしゃり!
肉と骨が砕け散る鈍い破壊音。
暴れ狂っていた怪異の首が根元から断ち切られ、影鰐の大顎によって容赦なく咀嚼されていく。
千切れた傷口からドス黒い汚泥が飛び散り、床を満たしていく。
「……ヒッ、あ……」
影の牙が怪異をすり潰すその凄惨な光景に、私は呼吸すら忘れ、ただ息を呑んで震えることしかできなかった。
詠ちゃんは、散らばる汚泥を編み上げブーツで平然と踏み越え、もがき苦しむ核の前へと進み出る。
「哀れなことじゃ。……愛を求め、母の温もりを求めて死んだ魂が、人の噂という浅ましい型に流し込まれ、ただの悪霊に成り果てるとはな」
金色の瞳が、冷たく細められる。
小さな白磁の指先が、核の芯へと突きつけられた。
「――汝の真名は『仮初の愛を隙間から啜る、飢餓のよりまし』。己の形を失い、他人の隙間に寄生するだけの泥人形よ。……ここにお前の母はおらぬ。疾く、失せよ」
ドンッ、と言霊が叩きつけられた瞬間、怪異の輪郭が弾け飛んだ。
怨念も、都市伝説の外装も剥ぎ取られ、残されたのは、掌に収まるほどの黒く淀んだ球体――怪異の核だけだった。
朔さんが影の中からその核をすくい上げ、詠ちゃんへと差し出す。
詠ちゃんは躊躇うことなく、その穢らわしい悪意の塊を口元へ運び、小さな喉で一気に呑み下した。
「……っ、ぐ……ぅ」
直後、詠ちゃんの身体が激しく硬直した。
陶器めいた白い肌が、内側から燃え上がるように熱を帯び、朱を差していく。
――ぎち、ぎちぎちっ……!
服の奥から、骨と肉が生々しく組み変わる音が響いた。
詠ちゃんは着物の胸元を両手で強く押さえ込み、耐え難い苦痛と熱気に身悶えるように床へ膝をつく。
怪異を体内で巡らせ、毒を無害な肉へと消化・再編する【胎内巡り】の儀式。
「う、あ……っ」
幼い唇から零れ落ちる吐息は、熱病に浮かされたように甘く湿っていた。
その変化を、私は息を呑んで見つめることしかできない。
平坦だった幼子の胸元が、着物の布地を押し上げるようにして、わずかに――だが確実に柔らかな膨らみを持ってせり上がっていく。
寸胴だった腰まわりがきゅっとくびれを帯び、締めていた帯のリボンがわずかに窮屈そうに軋んだ。
ただ幼いだけだったビスクドールの輪郭に、女性としての肉感と艶やかさが、不可逆の呪いとして刷り込まれていく。
「詠ちゃん……!?」
「陽菜さん」
思わず手を伸ばしかけた私を、影の中から現れた朔さんが静かに制した。
やがて、荒い呼吸が少しずつ落ち着きを取り戻していった。
額にびっしりと汗を浮かべ、乱れた金髪の隙間から、詠ちゃんが息を整えながらゆっくりと顔を上げる。
首筋の線は以前よりも艶めき、着物の合わせ目から覗く白い肌の起伏は、幼女から少女へと確実に一歩、境界を踏み越えていた。
元は男性であったはずの呪術師が、怪異を喰らうたびに女性の肉体へとつくりかえられていく代償。
詠ちゃんは胸元の圧迫感に違和感を覚えたのか、小さく眉をひそめ、着物の襟を苛立たしげに引っ張った。
「……っ、帯が……少し、窮屈じゃな。……忌々しい、胃の腑だけでなく、また余計な肉までつきおったわ」
吐き捨てる声は以前と変わらず尊大だったが、その響きにはかすかに大人の女性めいた湿り気が混ざっているように聞こえた。
詠ちゃんはポケットから取り出したブリキ缶を乱暴に振り、ハッカドロップを一粒口へ放り込むと、がりりと奥歯で噛み砕いた。
そして、へたり込んだままの私と先輩を、据わった金色の瞳で睨みつける。
「……いつまで地べたで情けない顔をしておる。……立ち上がれぬなら、そこに置いていくぞ」
ふらつく足を必死に隠して背筋を伸ばすその姿に、私は張り詰めていた涙を拭い、痛む足に力を込めて立ち上がった。




