閉じた隙間
「……何をぐずぐずしておる。置いていくぞ」
詠ちゃんは短く言い捨てると、ぷいっと背を向け、そのまま部屋を出て帰ろうと踵を返した。
壁際で腰が抜けて座り込んでいた美月先輩は、その小さな後ろ姿へ向かって、震える声を振り絞るように投げかけた。
「あ、あの……! 助けてくださって……本当に、ありがとうございました……っ!」
涙で声を詰まらせながら深々と頭を下げる先輩に、詠ちゃんは立ち止まり、肩越しにそっぽを向いた。
金髪の隙間から覗く耳の先をほんのりと赤く染めながら、照れ隠しのように小さく鼻を鳴らす。
「……ふん。礼などよいわ。我がそれを喰ろうて腹を満たすのが、ここでの仕事じゃからの」
ぶっきらぼうにそれだけ告げると、詠ちゃんは今度こそカランと下駄の音を鳴らして歩き出した。
その足取りは、身体の重心が変わったせいか普段よりもわずかにぎこちない。
朔さんの影がすっと伸びて先輩の足元を柔らかく支え、私たちは夜の闇を滑り落ちるようにして、路地裏のあの純喫茶へと向かった。
チリン、と鈴を鳴らして引き戸をくぐる。
店内に満ちる珈琲の苦い薫香と、静謐な白檀の香り。
ボックス席のソファーに美月先輩を腰掛けさせると、カウンターの丸椅子にちょこんと座った詠ちゃんが、着物の袖を整えながら先輩を見やった。
「……安心するがよい。あのアパートの部屋には、もう何の気配も残っておらん。ただの薄汚い六畳間に戻っただけじゃ」
「……はい。本当に……ありがとうございます」
心底安堵したように息をついた先輩は、少しだけ生気を取り戻したのか、カウンターの中の朔さんと、椅子の上で尊大にふんぞり返る詠ちゃんを交互に見比べ、ふふっと小さく笑みをこぼした。
「本当に、貴方がここのマスターだったんですね。……最初は朔さんが噂の解呪屋さんなんだって、すっかり思い込んでました」
からかうような冗談交じりの言葉に、詠ちゃんはギクッとしたように眉を跳ね上げ、ムキになって身を乗り出した。
「な、なんじゃと! 朔はただの給仕長じゃ! 我がこの店の主であると、最初から言うておろうが!」
頬を膨らませて抗議するものの、その瞳には先輩に冗談を言えるほどの心の余裕が戻ったことを見届け、どこか満足げな色が滲んでいる。
「ふふ、詠ちゃん、私からも本当にありがとう。先輩を助けてくれて」
「……ふん。貴様も調子の良いことばかり言うでない。我は報酬のことを忘れてはおらんからの。次は必ず、あのパチパチ弾ける美味い南蛮菓子を持ってくるのじゃぞ」
ぎゅうと念を押すように指を突きつけてくる詠ちゃん。相変わらずの憎めなさに、私と先輩は顔を見合わせて笑ってしまった。
「お待たせいたしました」
やわらかな声とともに、朔さんが湯気を立てる純白のカップを三人それぞれの前へ静かに配った。
香ばしい湯気が立ち上る中、詠ちゃんはトングを手に取ると、角砂糖の壺から角砂糖を三個、迷わずカップの中にぽとん、ぽとんと落とし込んだ。
スプーンでカチャカチャと音を立ててかき混ぜると、両手で大事そうにカップを持ち上げ、ふー、ふー、と小さな息を吹きかけてから、ちびちびと甘い珈琲を喉に流し込む。
その小動物のような愛らしい仕草を眺めながら、美月先輩がカップを両手で包み、穏やかに微笑んだ。
「……なんだか、すごく落ち着くお店ですね。こんな素敵な喫茶店なら、私、これから通い詰めたくなっちゃうかも」
すると、角砂糖で甘くなった珈琲を飲み干した詠ちゃんが、カップをソーサーにことんと置き、冗談交じりに小さく鼻を鳴らした。
「よせよせ。ここは路地裏の意識の死角、陰気臭い場所じゃ。……人間、こんな場所に通い詰めるような縁はないに越したことはないわ」
その言葉に、私たちは思わず吹き出し、店内の張り詰めていた空気は完全に和やかなものへと溶けていった。
「さて、陽菜様。お連れ様をお送りするタクシーが、表の大通りに到着したようでございます」
朔さんの静かな案内で、私たちは席を立った。
トレイに硬貨を六枚並べ、美月先輩と一緒に引き戸へ向かう。
戸口で振り返り、「それじゃあ、またね」と手を振ると、カウンターの丸椅子から、詠ちゃんが金色の瞳をまっすぐに美月先輩へと向けた。
そして、まるで古い祝詞を紡ぐかのような、厳かで古風な響きを帯びた声で、おまじないのように言葉を落とした。
「……禍津日の澱みはすでに祓い落とされた。路傍の塵芥に怯えることなく、汝の歩む道に、清らかなる日射しの満ち行かんことを」
難しくて少し古めかしいその言葉の意味を、先輩はすべて理解できたわけではなかったかもしれない。
けれど、詠ちゃんのその小さな手から手渡された確かな祈りを受け取るように、先輩は「……はい!」と、今夜一番の晴れやかな笑顔で深く頭を下げた。
チリン、と涼やかな鈴の音を残して、私たちは夜の街へと踏み出した。
引き戸が閉まった瞬間、背後の気配はふつりと途切れ、振り返った路地裏には、ただ古びたコンクリートの壁が静かに佇んでいるだけだった。




