悪霊の形
「お、女……?」
美月先輩が掠れた声を漏らし、引き戸の陰で身を縮こまらせた。
無理もない。救いを求めて連れてこられた先が、外の喧騒が嘘のように静まり返った薄暗い純喫茶で、出迎えたのが割烹着めいたエプロン姿の麗人と、絵画から抜け出たような大正風の幼い少女なのだから。
「どうぞ、お入りください。表は冷え込みますから」
朔さんが物腰柔らかく声をかけ、二人分の席を引いて促す。給仕としての完璧な案内だ。
私が「先輩、入って」と背中を押すと、美月先輩はおずおずと店内へ足を踏み入れ、カウンターへ進み出た。
けれど、先輩の縋るような視線は、丸椅子にちょこんと腰掛けている幼い詠ちゃんを完全に素通りし、落ち着いた大人の色香を漂わせる朔さんへと一直線に向かっていった。
「あの……陽菜ちゃんから、こちらなら助けてくださる方がいると聞いて……。あなたが、その……噂の解呪屋の、先生でしょうか……?」
朔さんは困ったように細い眉をハの字に下げ、苦笑しながら柔らかく首を横に振った。
「いえ。私はただの給仕でございます。……この店の主は、そちらのあの方ですよ」
朔さんの白い指先が、カウンターの端をすっと指し示す。
美月先輩は目を瞬かせ、おそるおそる視線を落とした。そこにいるのは、どう見ても小学生くらいにしか見えない金髪の女の子だ。
「えっ……? あ……えっと、お店のお留守番のお子さん、じゃなくて……?」
――ピキリ。
静まり返った店内に、何かがひび割れるような気配が走った。
詠ちゃんのこめかみにピクピクと青筋が浮かび、金色の眉がみるみる吊り上がっていく。
「だ、誰が子どもでお留守番じゃ!! この無礼者め! その眼窩は節穴か! 我がどこからどう見ても、この店の主にして高名なる術師であろうが!」
「ひっ……!?」
「詠ちゃん、落ち着いて! 先輩は本当に何も知らないだけだから!」
私が慌てて割って入ると、詠ちゃんはぷくーっと絵に描いたように両頬を限界まで膨らませ、胸の前でぎゅっと腕を組んでそっぽを向いた。
仕立て直されたばかりの市松模様の着物の袖を擦り合わせ、ハイウエストのリボンを怒りに任せてふるふると揺らしている。
「知るか! 見る目のない不届き者の頼みなど、断固として聞かん! 朔、塩を撒け塩を! この礼儀知らずを門前払いじゃ!」
「主様。もうすでに門の中でございます」
朔さんはクスリと喉を鳴らし、湯気を立てる小さな磁器のカップを詠ちゃんの前に置いた。
ふわりと、珈琲の焙煎香に混ざって甘いミルクの香りが広がる。
「熱めの珈琲に、角砂糖を三つ、ミルクをたっぷり入れてございます」
「……ん」
詠ちゃんはまだ不満そうに眉を寄せていたが、両手で大事そうにカップを包み込むと、猫舌を警戒するようにふうふうと息を吹きかけ、恐る恐る口をつけた。
甘く仕立てられた珈琲をちびちびと飲むうちに、トゲトゲしていた気配が目に見えてぽわんと弛んでいく。
「……ふん。珈琲の味に免じて、少しだけ話を聞いてやらんでもないぞ」
カップをことりと置き、詠ちゃんはまだ少し赤らんだ顔のまま、美月先輩をちらりと盗み見た。
先輩はカウンターに手を置き、すがるように身を乗り出す。
「あ、あの……本当にごめんなさい。……陽菜ちゃんに話したんです。部屋のあちこちの『隙間』から、ずっと見つめられてる気がして……耳元で、子どもの声で囁かれて……」
「……ガムテープで部屋中の隙間を塞ぎまくった、と言うておったな」
詠ちゃんはブリキ缶からハッカドロップを一粒つまみ、口へ放り込んだ。
その眼差しから子どもっぽさがすっと引き、底知れぬ静謐さが宿る。
「……恐怖に駆られて必死だったのは解るがの。それは最も悪手じゃったな」
「え……悪手、ですか?」
「隙間女、などと世間は他愛もない都市伝説として語り草にしておるがの。……元を正せば、誰にも看取られず死んだ誰かや、行き場をなくした小さな子どもの、哀れな未練の残り香に過ぎんかったはずじゃ」
詠ちゃんは奥歯でドロップを小さくカリリと鳴らした。
「死者の未練など、最初はただ悲しくそこに留まるだけの淡い影よ。じゃが、年月が経つにつれ、人の心に巣食う恐れや噂の形に合わせて、己の輪郭を歪めていく。……人間が怖がり、怪談として面白おかしく語り継ぐ『都市伝説』という型に、自らの魂を流し込んでしまうのじゃ」
「人の……噂の型に……?」
美月先輩が息を呑む。
「そうさ。人間が『隙間から女が覗く』と怯えれば、その怯えを喰って隙間に張り付く化物に成り果てる。今やそ奴は、己がかつて誰で、何を悲しんでそこに蹲っておったのかという最初の無念すら忘れ果てておるわ。他人の恐怖を借り物にして肥え太った、ただの醜悪な悪霊よ」
冷徹に語られる怪異の成り立ちに、先輩の顔から血の気が引いていく。
「塞ごうとすればするほど、貴様は己の意識をその『隙間』に強く縛り付けることになる。ガムテープを貼るたびに、『ここに私が怖がる隙間がある』と怪異に目印をつけ、呼び寄せておったのと同じよ。……恐怖で肥え太った奴が求めておるのは、温もりのある『生きた人間の輪郭』じゃ。耳元で『まま』と囁いたのも、とうに忘れ去ったはずの母胎の記憶を、悪意の形骸として真似ておるにすぎん」
美月先輩の身体が、目に見えてがたがたと震え出した。
「このまま放っておけば、貴様は精神から擦り減らされ、身体の穴という穴から奴の泥を流し込まれて、内側から乗っ取られておったぞ。……まあ、知らぬ素人なら無理もないがの」
詠ちゃんは少し声音を和らげ、ため息交じりに呟いた。
先輩の肩が小さく跳ね、涙がぽろぽろと零れ落ちる。
「お、お願いです……! 私、どうしたらいいんですか……? もう、あの部屋に帰るのも怖くて……っ!」
「……まったく、これだから情念の吹き溜まりは面倒なのじゃ」
詠ちゃんは口ではうんざりしたように吐き捨てながらも、着物の袂へ小さな手を滑り込ませた。
取り出されたのは、赤く染められた細い和紙を幾重にも縒り合わせた、一本の『紙縒り』だった。
「ほれ、受け取れ」
机越しにぽんと手渡されたそれを、美月先輩が震える両手で受け止める。
「その部屋には、奴が最初に溜まり始め、巣の起点となった『始まりの隙間』が必ずある。……本棚か、タンスの裏か、あるいは壁の亀裂か。もっとも冷気が淀み、嫌な気配が濃い場所を見つけ出し、その紙縒りで隙間を縛り上げるのじゃ」
「し、縛る……?」
「そうじゃ。端と端を繋ぎ止め、境界を明確に閉じるのよ。そうすれば、部屋中に散らばった死角の糸が手繰り寄せられ、奴の本体がそこに縫い留められる。逃げも隠れもできんようにな」
的確な指示を出し終えると、詠ちゃんは丸椅子の上で小さく胸を張った。
「……ふん。我がここまで手取り足取り教えてやったのじゃ。感謝するがよいぞ」
さっきまでの尊大な態度とは裏腹に、「どうじゃ、すごかろう」と言わんばかりに得意げな視線を向けてくる姿がなんとも微笑ましい。
先輩は涙を拭い、紙縒りを胸に抱きしめて深く頭を下げた。
「ありがとうございます……! あの、お礼のお金は……」
「金などいらん。俗世の紙切れなど、我が腹の足しにもならんわ。……その代わり」
詠ちゃんは人差し指をぴっと立て、美月先輩の鼻先に突きつけた。
「今度来るときは、美味い菓子を持ってこい。あの、口の中でぱちぱち弾ける南蛮の飴か、練乳の詰まった甘いやつじゃ!」
「ふふっ……はい! 絶対、美味しいの買ってきます!」
先輩の顔に、今日初めて本物の笑顔が戻った。
けれど、詠ちゃんはすっと視線を私の方へとスライドさせると、その金色の瞳をわずかに険しく細めた。
「陽菜。……貴様もついていく気じゃな」
「え? うん、先輩を一人で行かせるわけにはいかないし」
「阿呆め。前にも言うたが、貴様の異常な生気は死を引き寄せる磁石じゃぞ。……貴様がその部屋に入れば、隙間に潜む奴は狂喜乱舞して、貴様を喰らおうと全霊で這い出してくるわ」
私の胸元を、小さな指先がトンと突く。
「それでも行くと言うのなら……これを持っていけ」
詠ちゃんが自分の首元から外したのは、古い鈴が一つ通された、黒い組み紐だった。
「奴の本体が縫い留められたら、その鈴を鳴らせ。……喰い頃になった塵芥は、我が余さず平らげてやるからの」
ぶっきらぼうに手渡された鈴は、ひんやりと冷たく、けれど確かな重みがあった。
「ありがとう、詠ちゃん」とお礼を言うと、詠ちゃんは「早く行け!」とばかりに手をシッシッと振って、そっぽを向いてしまった。耳の先が、また少し赤くなっている。
店を出て、夜の街へ駆け出す。
先輩のアパートへ向かう私のポケットの中で、小さな鈴がチリ、と静かに鳴った。




