埋まらない隙間
駅前のファミレスは、夕飯時の家族連れや学生たちで賑わっていた。
食器の触れ合う乾いた音、ドリンクバーの注ぐ音、あちこちから聞こえる他愛のない笑い声。
私はできるだけ周囲に背の高い仕切りや衝立がない、フロアの中央に近いテーブル席を選んで先輩を座らせた。
運ばれてきた湯気を立てるホットココアのマグカップを、先輩は両手で包み込むようにして握りしめた。手袋を外したその指先は、まるで氷嚢に触れているかのように冷え切っていた。
「……ごめんね、陽菜。急に変なこと言って、怖がらせちゃって」
一口ココアを口に含み、ようやく人心地がついたのか、先輩は力なく眉を下げて笑った。
けれど、テーブルの真下――自分の足元の暗がりへ、時折びくびくと視線を落とす仕草だけはどうしても止まらない。
「ううん、謝らないでください。……でも先輩、本当にどうしちゃったんですか? グラウンドで『隙間』がどうとか、見られるとか……」
私の問いかけに、先輩はぴくりと肩を震わせ、マグカップの縁を見つめたまま俯いた。
温かいはずの店内で、先輩の周りだけぽっかりと冷気が淀んでいるように思える。
「……信じて、もらえないかもしれないけど」
「聞きます。先輩がそんなに怯えてるんだから、冗談なんかじゃないことくらい分かります」
私が真剣な目を向けると、先輩は震える唇をゆっくりと、絞り出すように開いた。
「……部屋に、誰かがいるの」
「え……? 空き巣、とかですか?」
「違うの。人間じゃない……と思う。春から借りてるアパートの部屋なんだけどね、一週間くらい前から、ずっと……視線を感じるようになったの」
先輩の指が、マグカップの陶器の肌をきゅうと擦る。
「最初はね、カーテンの閉め忘れかなとか、一人暮らしの寂しさのせいだって、自分に言い聞かせてた。……でもある日の夜、気がついちゃったの。視線の、出どころに」
先輩は唾を飲み込んだ。その喉が、ひどく引きつるように動く。
「本棚と、壁の隙間。……ほんの数センチ、指が二本入るくらいの暗がりの奥から……ずっと、見つめられてたの」
「……え」
「気のせいじゃないの。本を取り出そうと手を伸ばしたとき、暗闇の奥にね、白っぽい何かが……じっと動かずに嵌まり込んでるのが見えたの。よく見たら、それ……人間の、目だった。血走った、充血した目玉が……本棚の隙間の、縦の細い暗がりから、瞬きもせずに私を睨んでたの」
鳥肌が、腕から首筋へと一気に駆け上がった。
ファミレスの明るい照明の下にいるはずなのに、テーブルの下の影が急に深くなったような錯覚に襲われる。
「怖くなって、悲鳴を上げて部屋を飛び出したわ。でも、警察を呼んでも、誰もいないって言われるだけ。隙間は数センチしかないんだから、人間が入れるわけがないって……。大家さんにも、幻覚じゃないかって呆れられて……」
先輩の声が、次第に湿り気を帯びて震え始める。
「それから……どんどん酷くなっていったの。本棚だけじゃない。冷蔵庫とキッチンの隙間、洗濯機の裏、クローゼットの扉のわずかな合わせ目……部屋中のあらゆる『隙間』という隙間に、あの目が移動するようになったの」
先輩は首元のスヌードを、息が詰まるほどきつく手繰り寄せた。
「昨日の夜なんてね……寝てるとき、耳元で聞こえたの。ペタ、ペタ、って……濡れた皮が擦れるような音が、ベッドのフレームの隙間から這い上がってきて……」
先輩の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「耳のすぐそばで……掠れた、小さな子どもの声で囁かれたの。『まぁま』って……。冷たい、氷みたいな息を、耳に吹き込まれて……! 私、怖くて、怖くて……朝になってすぐ、部屋中の隙間をガムテープで塞ぎまくったの。タンスの隙間も、壁の継ぎ目も、全部……!」
「ガムテープで……」
「でも、塞いでも塞いでも、部屋には『隙間』があるの! ドアの下の隙間も、換気口のスリットも、爪の生え際だって……! もう、どこに逃げればいいのか分からないよ、陽菜……っ!」
先輩はテーブルに突っ伏し、声を押し殺して泣きじゃくった。
ただの精神的な疲れなんかじゃない。
先輩の話を聞きながら、私は確信していた。
数ヶ月前、夜の遊歩道で私の足首を掴んだあの泥のような怪異と同じ――人間の悪意や情念が、理不尽に形を成して人を蝕む「都市伝説」の気配だ。
家具の隙間から住人を覗き見続ける怪異。
ネットや噂話で私も耳にしたことのある名前――『隙間女』。
「先輩」
私は立ち上がり、先輩の細い肩に手を置いた。
「……行きたい場所があります」
先輩がおずおずと涙に濡れた顔を上げる。
「そこに行けば、先輩の部屋で何が起きてるのか、わかるかもしれません。……信じられないかもしれないけど、私、前に同じような気味の悪いものに襲われて、助けてもらったんです」
先輩は呆然とした顔で私を見つめ、それから縋るように小さく頷いた。
ファミレスを出た頃には、街はすっかり夜の闇に沈んでいた。
私は先輩の手をしっかりと握りしめ、繁華街のネオンを避けるようにして、あの古い路地裏へと足を踏み入れた。
湿った空気が漂う、薄暗い袋小路。
突き当たりにある、看板のない木製の引き戸。
ポケットの中のスマートフォンが、圏外へと沈んだことを告げるように微かに振動した気がした。
カララ、と引き戸を開ける。
真鍮の鈴が、ちりんと涼やかな音を立てた。
白檀の香りと、深く香ばしい珈琲の焙煎香が、凍えきった私たちの鼻腔を包み込む。
止まったままの振り子時計、窓辺には黄色い菊のつぼみ。
「いらっしゃいませ、陽菜様」
カウンターの奥から、夜会巻きの黒髪に純白のエプロンを掛けた朔さんが、静かに顔を上げた。
そして、カウンターの端の丸椅子には――。
紫と紅の市松模様の着物に、純白のレース襟。
硝子細工のビスクドールのように整った金髪の少女、詠ちゃんが、ちょこんと腰掛けてドロップ缶を手のひらで弄んでいた。
その着物は、少女の小さな体にぴったりと沿うように綺麗に仕立て直されている。
前回の怪異を喰らい、その代償として変容してしまった肉体に合わせ、朔さんが針を入れて誂え直した特製のものだ。
ハイウエストでキュッと結ばれた大きなリボンも、小ぶりな黒革の編み上げブーツも、今の詠ちゃんの華奢な輪郭に過不足なく収まっている。
ただ、その中に宿る老練な気配だけが、外見の幼さとは裏腹に冷たく張り詰めていた。
詠ちゃんは缶ドロップをカラリと鳴らし、金色の瞳を、私たちの足元へと向けてきた。
「……おい、陽菜。また妙な『女』を連れてきおったな」




