フェンス越しの先輩
秋風がグラウンドの乾いた砂を巻き上げ、夕暮れの空を朱から濃い紫へと塗り替えていく。
居残りの流しを終え、息を整えながらスパイクの靴紐を解いていると、背後の金網フェンス越しに、不意に声を掛けられた。
「お疲れさま、陽菜。相変わらずいい脚してるね」
懐かしく、よく通る澄んだ声。
顔を上げると、フェンスの外側に、見慣れた笑顔を浮かべた女性が立っていた。
「……えっ、美月先輩!?」
思わず立ち上がり、サンダルを引っかけたまま駆け寄った。
美月先輩。昨年の夏まで陸上部の主将を務め、短距離ブロックで私を一番可愛がってくれた憧れの先輩だ。春から都内の大学へ進学し、一人暮らしを始めたと聞いていた。
「どうしたんですか先輩! 連絡もなしに、急に!」
「ふふ、ちょっとこっちに用事があってね。陽菜がまだ走ってる時間かなって思って、グラウンド覗いちゃった」
先輩はふんわりと笑い、フェンスの網目に指を絡めた。
少し痩せたような気もしたが、明るい茶髪に綺麗めなブラウスを合わせた姿は、すっかり洗練された女子大生の装いで、眩しく見えた。
「もう、言ってくれれば練習早く切り上げたのに! 大学の陸上はどうですか? 楽しいですか?」
「うん、高校とはまた雰囲気が違って面白いよ。あ、そうそう、陽菜のインターハイ予選のタイム、後輩から聞いたよ。自己ベスト更新したんでしょ? さすが私の自慢の後輩!」
「へへ、先輩が残してくれた練習メニュー、今でもちゃんと続けてますから!」
金網越しに、くだらない思い出話に花が咲く。
去年の合宿で夜中にアイスを買いに行って顧問に見つかりそうになったことや、大会前日に二人で食べたカツ丼のこと。
先輩は楽しそうに笑い、私も久しぶりの再会が嬉しくて、夢中でおしゃべりを続けた。
――けれど。
二つ、三つと話題を重ねるうちに、私は胸の奥に、言葉にできない小さな違和感を覚え始めていた。
先輩は、笑っている。
口角を上げ、声もいつもの先輩のトーンを保っている。
なのに――先輩の視線が、私の顔に一度も定まっていなかった。
私の額のあたりを見ているかと思えば、急に視線を逸らし、部室棟の壁と用具倉庫のわずか三十センチほどの隙間をじっと見つめる。
グラウンドを横切る風が吹き抜け、フェンスが小さく軋むたび、先輩の肩がぴくりと強張る。
「……先輩?」
「ん? なに?」
笑顔のまま返事をする先輩の横顔。
夕日が落ち、薄暗くなってきた光の中で、私はようやく気がついた。
先輩の肌が、土気色に濁っている。ファンデーションで隠しきれないほど濃い隈が、目の下に滲んでいた。
そして、何よりも不自然だったのは――。
先輩の首筋。ブラウスの襟元を隠すように、秋口にしては分厚すぎるスヌードが幾重にもきつく巻かれ、両手は手袋で完全に覆われていた。
「先輩、寒くないですか? 風も出てきたし、部室に入りましょ。中でお茶でも――」
私がそう言って、部室棟の方を指差した、その瞬間だった。
「だめっ!」
乾いた、鋭い叫び声が響いた。
いつもの優しい先輩の声とはまるで違う、喉の奥を引き裂いたような金切り声。
グラウンドに残っていた数人の後輩たちが、驚いてこちらを振り返る。
「え……?」
「あ……ご、ごめん。大きな声出して……」
先輩は咄嗟に自分の口を手で押さえ、恐怖に怯えたように視線を泳がせた。
手袋越しにフェンスを握りしめる指先が、白くなるほど強く力を込めている。
「部室は……だめ。あそこ、ロッカーとか棚とか……いっぱい、あるでしょ……? 隙間があるところは……入れないの……」
「隙間……?」
「陽菜……お願い」
先輩の笑顔は完全に剥がれ落ちていた。
震える両手でフェンスの金網を掴み、すがるように私を見つめてくる。その瞳には、狂気すれすれの怯えが宿っていた。
「どこか、明るいところに行こ……? 広くて、隙間がなくて、人がいっぱいいるところ……。じゃないと、また……見られちゃうから……」
先輩の震える息から、かすかに漂う異臭。
古い埃と、湿った土が腐りかけたような、覚えのある嫌な冷気が私の背筋を撫でた。
「……わかりました。荷物取ってくるので、ここで待っててください」
私は急いで荷物をまとめ、先輩の手を引いて校門を出た。
駅前の明るいファミレスへ向かう道中、先輩は私の腕に必死にしがみついていた。
けれど、電柱とブロック塀の隙間、自動販売機の裏の暗がりを通るたび、先輩は喉を「ヒュッ」と鳴らし、まるでそこに誰かが潜んでいるかのように、怯えた目を凝らし続けていた。




