珈琲と約束
からころ、と冷え切った路地に下駄の音が静かに響いていた。
街灯の光が届かない袋小路を抜けると、スマートフォンのアンテナピクトが再び圏外へと沈む。
看板のない古びた木製の引き戸の前に立ち、朔さんが静かに戸を引いた。
チリン、と澄んだ真鍮の鈴の音が鳴る。
店内に足を踏み入れた瞬間、肌にまとわりついていた冬の夜気と、あの異形の生ゴミじみた悪臭が綺麗さっぱり掻き消えた。
漂うのは、深く香ばしい珈琲の焙煎香。
そして、その底に沈むようにして淡く広がる、冷たく乾いた白檀の残り香。
壁に掛けられた古風な振り子時計は、何事もなかったかのように夕暮れの五時半を指したまま秒針を止めている。
「陽菜様、こちらへどうぞ」
朔さんに促され、私はカウンターの中央の席に腰を下ろした。
膝の擦り傷や掌の痛みは、不思議ともう引いている。
けれど、すぐ隣の席に目をやると、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
丸椅子に座った詠ちゃんが、カウンターに突っ伏すようにして小さく息を吐いていたからだ。
市松模様の着物の裾から覗く足元。
きつく紐を結び直してもらったはずの編み上げブーツの履き口には、まだわずかに不自然な隙間が残っている。
少年から、怪異を宿すのに適した少女へとつくりかえられたばかりの華奢な足首。
白磁の肌はまだ微かに上気し、額の生え際がしっとりと汗ばんでいた。
「……詠ちゃん、まだしんどい?」
思わず覗き込むように声をかけると、詠ちゃんはびくっと肩を揺らし、慌てて背筋を伸ばした。
そして、キッと釣り上がった金色の瞳で私を睨みつけてくる。
「だ、誰がしんどいなどと言うたか! 無礼者め! この程度の下等な悪霊の滓、我が腹にかかれば茶請けにもならんわ!」
「で、でも、顔が赤いよ……?」
「これは……その、ただの消化熱じゃ! 貴様のように愚鈍な胃袋とは造りが違うのじゃ!」
頬をぷくっと膨らませてそっぽを向くものの、その声はいつもの尊大な張りを取り戻しきれておらず、どこか掠れて幼い。
強がっているのが見え見えで、さっきまでの超常的な恐ろしさはどこへやら、思わず口元が緩んでしまう。
「な、なんじゃその薄笑いは! よいか陽菜、貴様が今日、自慢の二本の足を失わずに済んだのは、ひとえに我が気まぐれで外に出ていたからに過ぎんのじゃぞ!」
「うん、分かってるよ。……本当に、ありがとう。詠ちゃん」
茶化さず、まっすぐに目を見てお礼を伝えた。
すると、詠ちゃんは「う……」と言葉を詰まらせ、金色の長いまつ毛をぱちぱちと瞬かせた。
耳の先端までカッと朱に染まり、気まずそうに視線を泳がせる。
「か、勘違いするでないわ、阿呆め……。我は厄を喰らいたかっただけじゃ。貴様のためなどでは、断じてない……!」
もごもごと口ごもりながら、ポケットから丸いブリキ缶を取り出す詠ちゃん。
缶を振ると、カラカラと乾いた音が二粒分だけ鳴った。
フタを開けようとするけれど、解毒の代償で指先までわずかに細く、繊細になったせいか、うまく力が入らないらしい。
爪を立ててフタの縁をぎりぎりと引っ掻き、必死に格闘している。
「開けてあげようか?」
「だ、誰が開けられぬと言うたか! 今、開くところじゃ……っ、ぬ、ぬぅ……っ!」
見栄を張って真っ赤になりながら格闘する姿が愛らしくて、私は吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
見かねた朔さんが、カウンター越しにそっと温かい布巾を差し出す。
「主様。布巾をお使いになれば、滑らずに開きますよ」
「う、うむ……朔がそこまで申すなら、使ってやらんでもない……っ!」
意地を張りつつも布巾を受け取り、パコンッと音を立ててようやくフタを開ける詠ちゃん。
中から転がり出たのは、ハッカ味の白いドロップと、黄色いレモン味のドロップだった。
詠ちゃんは白い粒を自分の口へ放り込むと、残った黄色い一粒を、ぷいと顔を背けたまま私の前へ差し出してきた。
「……ほれ。貴様のような間抜けには、酸っぱいのがお似合いじゃ」
「あはは、いただくね」
口に含むと、爽やかな酸味と甘みが舌の上に広がった。
その横で、朔さんが静かに純白の磁器カップを二つ、カウンターの上に並べた。
立ち上る湯気とともに、深煎りの強い珈琲の香りがふわりと広がる。
カップの隣には、艶やかに煮詰められた黒豆のような小豆の小鉢が添えられていた。
「お待たせいたしました。主様、陽菜様」
「うむ。苦い珈琲で口直しじゃ」
詠ちゃんは両手で大切そうにカップを持ち上げ、大人の真似事のようにふうふうと息を吹きかけてから、ちびりと口をつけた。
その瞬間、整った眉がぎゅっと八の字に曲がる。
「……にがっ」
思わず零れた小さな本音。
私が笑いを堪えていると、詠ちゃんは慌ててキリリとした顔を作ろうとしつつ、朔さんを上目遣いで睨んだ。
「……朔、角砂糖を三つ。……いや、四つ入れよ」
「はい、かしこまりました」
ぽちゃん、ぽちゃん、と四つの白い角砂糖が沈められる。
スプーンでカチャカチャと器用に混ぜ、すっかり甘くなった珈琲を、詠ちゃんは両手で抱えながら満足そうにちびちびと飲み始めた。
私も自分のカップを手に取り、温かい珈琲を喉へと流し込む。
深く香ばしい苦味が、胸の奥に残っていた冷えを完全に溶かしていく。
小豆の優しい甘さが胃に染み渡り、強張りきっていた神経がほどけていくのが分かった。
財布から小銭入れを取り出し、カウンターの真鍮トレイに十円玉を六枚、カランと並べる。
「ごちそうさまでした。……ねえ、詠ちゃん」
「なんじゃ。まだ何か文句でもあるのか」
甘い珈琲を飲み干した詠ちゃんが、カップの向こうから金色の瞳を向けてくる。
「私、また明日もここに来ていい?」
詠ちゃんは一瞬だけ瞳を丸くし、それからフンと小さく鼻を鳴らした。
「勝手にすればよかろう。貴様のように無駄に生命力を撒き散らす磁石のような小娘は、どうせまた妙な厄を引き摺り込んでくるに決まっておる」
カップをことんとソーサーに戻し、詠ちゃんはレースの襟元を指先で整えながら、尊大に笑みを浮かべた。
「貴様がどれほど不味い噂を連れてこようと、我が片っ端から喰らい尽くしてやるまでよ」
その言葉の奥にある、不器用で泥臭い温もり。
大正の時代から時を止め、怪異を喰らい、そのたびに身体を変容させながら人を救い続ける、名もなき呪術師。
「うん。また明日ね、詠ちゃん、朔さん」
席を立ち、店の引き戸を開ける。
チリン、と鈴の音が背中を見送った。
外の路地裏には、相変わらず冷たい冬の夜風が吹き抜けている。
けれど、もう背後から這い寄る足音に怯えることはなかった。
私の止まりかけていた時間は、あの小さくて偉そうな呪術師のおかげで、しっかりと前を向いて動き出していた。




