ツギハギ
月光に照らされた路地裏で、詠ちゃんの足元から伸びた影が、黒々とした巨大な大顎となって持ち上がっていた。
「ギ……ガ、ァッ……!」
私の足首から手を離した化け物は、逃れようと肘の骨を激しく打ち鳴らした。
無秩序に蠢く眼球の群れを剥き出しにし、狂ったように地べたを這いずり、詠ちゃんへ向けて飛びかかろうとする。
だが、詠ちゃんがまっすぐに突きつけた指先は、微動だにしなかった。
「喰らえ、朔」
詠ちゃんの冷徹な一言が下る。
その瞬間、持ち上がっていた影の大顎が、路面を食い破るような勢いで一気に噛み合わさった。
バキッ、ぐしゃり!
硬い骨が粉々に砕け散る鈍い破壊音。
影の怪異――影鰐そのものである巨大な顎は、跳びかかってきた怪異の両腕を左右から容赦なく噛み潰した。
ツギハギの腕が根元からへし折られ、どす黒い汚泥のような飛沫がアスファルトに飛び散る。
化け物は言葉にならない絶叫を上げ、千切れた傷口から泥を噴き出しながら路面に身悶えした。
逃げ場を失い、影の牙に縫い留められた怪異の前に、詠ちゃんが編み上げブーツの踵をからりと鳴らして一歩前へ進み出る。
突き出されたままの小さな人差し指が、苦悶する怪異の胸元――悪意が最も濃く渦巻く中心を正確に捉えた。
「己を事故の哀れな犠牲者と錯覚しておるか? 滑稽な。『テケテケ』などという薄っぺらい噂を鎧にし、人間の恐怖を啜って肥え太っただけの烏合の衆が」
鈴を転がすような愛らしい声。
けれど、そこに宿る圧力は夜の空気を根こそぎ冷やし尽くすほどに重い。
「恐怖という型に流れ込み、人の形を騙った悪霊の寄せ集め。……貴様のまことの因果、ここで暴いてやろう」
金色の瞳が、夜の闇を鋭く射抜く。
「汝の真名は――『恐怖に群がる、形無き亡者のツギハギ』」
言霊に貫かれた怪異の体が激しく痙攣し、纏っていた「女の幽霊」という外装の嘘が、ひび割れた陶器のように剥がれ落ちていく。
肘も、髪も、無数の眼球すらも形を失い、ただの蠢く汚泥の塊へと崩壊していく。
その泥の底から、親指大の、黒く濁った心臓のように脈動する『核』が露出した。
「朔、跳ね上げよ」
「御意に」
影の顎が小さく蠢き、鋭い牙の先で核を掬い上げると、ふわりと宙へ放り投げた。
放物線を描いて落ちてくるその黒い核を、詠ちゃんは小さな手のひらで軽々と受け止める。
「詠、ちゃん……? それ、どうするの……?」
へたり込んだまま見上げる私の前で、詠ちゃんは紅い唇を三日月のように歪めた。
そして――躊躇うことなく、その穢らわしい悪意の塊を、自らの口の中へと放り込んだ。
「っ……!? 詠ちゃん!?」
ごくり、と喉が鳴る。
あんな、ドブ川のヘドロよりも醜悪な呪いの核を、本当に呑み込んでしまったのだ。
直後、詠ちゃんの身体が不自然に硬直した。
白磁の肌が、熱病に侵されたようにじわりと艶やかな赤みを帯びていく。
「……くっ、あ……ぐ、ぅ……!」
――メキ、メキッ……!
静まり返った路地に、生々しい骨の軋む音が響いた。
詠ちゃんは両手で太ももを強く押さえ、アスファルトの上に崩れ落ちる。苦痛に耐えるようにぎゅっと目を閉じ、金色の長いまつ毛を震わせた。
変化が起きていたのは、下半身だった。
着物の裾の隙間、黒革の編み上げブーツの上。
かつて男であった頃の硬く平坦な名残を残していた骨盤が、軋みを上げながら内側から組み替えられていく。
下半身を奪おうとした怪異の毒を、体内で包み込み、受胎し、溶かして中和するために――肉体が、命を宿すのに最も適した「少女の器」へと、勝手に形を変えていくのだ。
「詠ちゃん……!?」
立ち上がり駆け寄ろうとしたその時、街灯の光が差し込む舗装路の境目から、すっと影が立ち上がった。
影鰐の姿から、純白のエプロンを纏った人間の姿へと滑らかに輪郭を結んだ朔さんが、静かに私の前に手を差し伸べる。
「お控えください、陽菜様。……今のお体に触れれば、貴女の生気ごと喰われてしまいます」
「で、でも、詠ちゃんが苦しそうに……!」
「これは主様の業。呑み込んだ怪異を胎内で巡らせ、無害化するための仕立て直しにございます」
朔さんの声は静かで、どこまでも底知れぬ哀愁を湛えていた。
「怪異という濃密な毒を宿し、消化し尽くすには、生殖を持たぬ男の肉体では耐えられませぬ。……怪異を喰らうたび、主様の器は、もっとも毒を孕むに適した年頃の娘の体へと造り替えられていくのです」
詠ちゃんの陶器のように白かった足首が、熱病のような汗を浮かべてしっとりと湿り気を帯びていく。
冷え切っていたはずの路地に、甘い白檀と熟れた蜜のような匂いが立ち込めた。
腰骨が滑らかな曲線を描いて張り出し、太ももには柔らかな肉がつき、少女特有のしなやかな丸みが形作られていく。
足の甲の骨格すらも繊細に削ぎ落とされ、履いていた編み上げブーツの隙間が緩んで、詠ちゃんが痛みに爪先を丸めた瞬間、すぽりと踵が脱げて路面に転がった。
白い足袋に包まれた、華奢で、あまりにも艶めかしい少女の足先。
「……はぁっ、……ふ、ぅ……」
やがて骨の軋みが止まり、詠ちゃんが肩で息をしながら、濡れた瞳を恨めしそうに持ち上げた。
乱れた金髪が、桜色に火照った頬に張り付いている。
「……見せ物ではないぞ、陽菜。……阿呆めが」
尊大な物言いは変わらない。
けれど、脱げてしまったブーツと、着崩れて素肌の覗く細い足首を手で必死に隠そうとするその仕草は、大人の呪術師の威厳など見る影もなく、ただの恥じらう年頃の少女そのものだった。
「……朔。手を貸せ」
「はい、主様」
朔さんが優しく抱き起こし、脱げたブーツを丁寧に履かせ直して紐をきつく締め直す。
詠ちゃんは唇をへの字に曲げ、ふんと鼻を鳴らした。
「不味い塵芥じゃ。胃の腑がただれるわ。……ほれ陽菜、いつまで呆けておる。店へ戻るぞ。喉が渇いてかなわん。角砂糖を山ほど入れた珈琲を所望する」
「あ……うんっ!」
痛む足を庇いながら、私はその背中を追いかけた。
不可逆の変容を繰り返し、少しずつ人ならざる「完成された娘」へと近づいていく呪術師。
その小さくて頼もしい背中を見つめながら、私は二度とこの手を離してはいけないと、強く胸に誓っていた。




