悪意の固まり
喫茶店を出たときには、すでに夜の冷気が街をすっぽりと覆い尽くしていた。
ポケットの中の小銭入れには、残りの小銭が寂しく転がっている。
口の中に残る珈琲の苦味と、ハッカの微かな清涼感。
『怪異の輪郭など、所詮は噂が塗りたくった薄っぺらい張り子。恐れを捨て、その眼で芯を見据えよ』――詠ちゃんの言葉が、何度も頭の中でこだましていた。
(怖がっちゃダメだ。怯えて立ち止まるから、相手に形を与えちゃうんだ)
私は何度も自分に言い聞かせ、住宅街の近道である公園脇の遊歩道へと足を踏み入れた。
街灯の光がまばらに落ちる、薄暗い並木道。両脇の冬木立が、風もないのに黒い指先のような枝先を微かに震わせている。
いつもなら、陸上部の癖で無意識にタイムを測りながら軽く流す道だ。
けれど今夜は違った。
並木道の中央、青白い街灯の光が途切れる闇の溜まりに――それはいた。
人間の上半身ほどの高さしかない。
腰から下がごっそりと失われた、歪な黒い塊。
両腕を地面につき、折れ曲がった関節を突き出して、微動だにせず蹲っている。
心臓が跳ね上がり、喉の奥がきゅっと締まった。
詠ちゃんの教え通り、私は足を止めずに歩き続けようとした。相手にせず、己の歩調を崩さず、ただ通り過ぎればいい。
けれど、近づくにつれて漂ってくる匂いが、私の理性を容赦なく削り取っていく。
生ゴミを何日も炎天下で放置したような悪臭と、どす黒く凝固した血の錆びたにおい。
それだけじゃない。
声にならない怨嗟、無数の死の苦悶が、冷たい風の底から羽虫の羽音のような不快な低周波となって、直接脳髄を掻き乱してくる。
言葉などない。ただ純粋な悪意の圧迫感。
本能が、身体の芯から悲鳴を上げていた。
(無理だ。こんなの……見据えるなんて、できない……!)
私は足を止めてしまった。
恐怖で膝ががくがくと震え、スニーカーの爪先が後方へとわずかに下がった。
一歩、後ずさる。
その瞬間――
――ぐちゃり。
泥肉を踏み潰したような、不快な音が夜気に響いた。
蹲っていた影の首が、ぎちぎちと軋みながら真上へと跳ね上がった。
乱れ散った濡れ髪の隙間から露わになったのは、人の顔などではなかった。
目鼻のあるべき場所に、引き裂かれた皮膚と、白目を剥いて痙攣する無数の眼球が、泥土のようにツギハギに縫い合わされていた。
知性も感情も感じられない。光に狂った昆虫のように、ただ無秩序にギョロギョロと蠢く眼球の群れ。
ヒュッ、……ギ、ギチッ……
潰れた管が擦れ合うような機械的な呼吸音。
次の瞬間、その影は狂ったように両腕を振り上げ、地べたを激しい速度で叩きつけながら、こちらへ向かってきた。
「いやあああああっ!!」
悲鳴を上げ、私は踵を返して全力で疾走した。
走る。肺が破れるほどの勢いでアスファルトを蹴る。
詠ちゃんの言った通りにできなかった。恐怖に負けて、足を止めて、相手の間合いに入ってしまった。
大通りへ逃げ込まなければ。人通りのある場所へ行かなければ、確実に足を奪われる。
路地の角を右へ曲がる。
だが、視界に飛び込んできたのは、見慣れた大通りのネオンではなかった。
両脇を高く黒ずんだコンクリート壁に塞がれた、果ての見えない暗い隘路。
曲がっても、曲がっても、光のある場所へ出られない。逃げ道を塞ぐように黒ずんでいく。
背後から迫る、破壊的な接地音。
硬いアスファルトを肘の骨で叩き割るような音が、耳を劈く。
カチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャ。
その音は、私の全力疾走を嘲笑うかのように、一歩ごとに距離を詰めてきていた。
速すぎる。二本の足で走る私よりも、腕だけで這いずる異形の方が圧倒的に速い。
「はッ、……ぁ、……っ、助け……て……!」
喉の奥に鉄の味が広がり、酸素が足りずに視界が明滅する。
その時、右の耳元、すぐ数センチの至近距離に、湿り気を帯びた激しい吸気音が直接吹きつけられた。
言葉ではない。獲物を前にした蟲が、大顎を擦り合わせるような乾いた破裂音。
意思の疎通など毛頭不可能な、ただ足を刈り取るためだけの純粋な捕食行動。
「ひっ……!」
湿りきった泥のような爪先が、私の右足首を容赦なく鷲掴みにした。
骨まで凍りつくような冷気が靴下を突き抜け、激しい力で身体ごと後ろへ引き倒される。
「きゃあっ!」
宙を舞った身体が、アスファルトの上に背中から無様に叩きつけられた。
肺の空気が強制的に吐き出され、膝と掌が擦り切れて生温かい血が滲み出す。
起き上がろうともがく私の体の上に、ずるりと重たい影が這い上がってきた。
「あ、ぐ……っ、離せ、離してっ……!」
必死に足をバタつかせるが、冷え切った腕はびくともしない。
間近に迫る、その醜悪な実体。
千切れた下腹部からは黒ずんだ泥のような汚泥がずるずると路面に広がり、何本もの歪な腕が無数に伸びて、私の両足を関節ごとに解体しようと爪を立てる。
無数の眼球は私を見てすらいない。ただ私の脚という『部位』だけを凝視し、飢えたように痙攣している。
氷の爪が、私の太ももの肉に食い込む。
言葉も通じない怪異に、自慢の足が、根こそぎ引きちぎられる――。
激痛に目を閉じ、奥歯を噛み締めた、その時だった。
――コツン、コツン。
凍てつく夜の空気に、乾いた硬質なブーツの音が響いた。
「……まことに、世話の焼ける間抜けじゃな」
暗闇を切り裂いて届いたのは、鈴を転がすような、あまりにも場違いに甘く、尊大な幼い声だった。
怪異の動きが、ピタリと止まる。
無数の眼球が一斉に明後日の方向を向き、首がぎちぎちと不気味に震え出した。
恐る恐る目を開けた私の視界の先、夜の闇がゆらりと揺らぎ、そこから小さな人影が歩み出ていた。
深紅と紫の市松模様の着物に、純白のレース襟。
月光を浴びて妖しく揺れる、色素の抜け落ちた鮮やかな金髪。
詠ちゃんだった。
手にはいつもの丸いドロップ缶。けれどその小さな頬は少しだけ紅潮し、肩で息をしている。
……走って、ここまで追いかけてきてくれたんだ。
「詠、ちゃん……? なんで……」
「勘違いするな、阿呆め! たまには運動でもせんとと、そこらを走り回ってただけじゃ!」
あからさまな嘘をついてぷいと横を向きながら、詠ちゃんは編み上げブーツの爪先でツンと地面を蹴った。
そして、私の上にのしかかる化け物を冷ややかに見下ろし、心底不快そうに唇を歪める。
「……それにしても、酷い悪臭じゃな。事故で死んだ哀れな女の幽霊とでも思うたか、陽菜」
「え……?」
「そ奴は人の霊などではないわ。凄惨な事故の記憶や、噂話の恐怖に群がったただの汚泥よ。人間の噂を真似て人の形を繕い、足を奪おうと蠢く……ただの悪霊と情念の寄せ集めじゃ」
詠ちゃんは一歩を踏み出し、怪異を哀れむように一瞥した。
「噂話のガワを被らねば存在も保てぬ蟲けらが、我が客の足に触れるでない。……その汚らわしい手を退けよ」
詠ちゃんの影が、背後でぐちりと音を立てて持ち上がり、黒い怪物の顎の形へと姿を変えた。
白磁のような小さな人差し指が、怪異の中心へとまっすぐに突きつけられる。
「――名を暴くぞ」




