付きまとう気配
耳のすぐ後ろで、夜風が渦を巻いていた。
早歩きにする私の足音の隙間を縫うようにして、一定の間隔で背後からついてくる硬質な音。
――カチャ、カチャ、カチャ。
詠ちゃんの言葉を頭の中で必死に繰り返しながら、私は両手をブレザーのポケットに突っ込み、拳を強く握りしめた。
『目を合わせず、相手にせず、己の歩調を崩さずスタスタと通り過ぎてしまえば、奴らは輪郭すら保てずにただの塵に戻る』。
あの子はそう教えてくれた。これはただの悪意の滓が、私の恐怖を餌にして形を作ろうとしているだけ。私が恐れて足を止め、振り返って「そこに何かいる」と認めてしまわなければ、私を害する力なんてないはずなのだ。
けれど、頭で理解しようとすればするほど、背後の音は鼓膜に直接こびりついてくる。
アスファルトを踏み鳴らす私のスニーカーの音。
その合間に、硬い骨の塊が地面を直接打ち据える打撃音。
そして、濡れた重たい布をずるずると引き摺る生々しい擦過音が、ぴったりと影のように張り付いて離れない。
カチャ、……ずるり。カチャ、……ずるり。
(なんで……? 無視してるのに、消えてくれないの……?)
早足のまま、住宅街の坂道を登っていく。
あと曲がり角を二つ抜ければ、明かりの灯る我が家が見える。
けれど、背後の音は消えるどころか、むしろ私の背中に向かってぐんぐんと距離を詰めてきていた。
ヒュッ、……ヒュッ。
生ぬるい呼気が、ふくらはぎを撫でた。
地面すれすれ、私の足首よりも低い位置から吹きつけられる、ひどく掠れた呼吸の音。
雨ざらしにされた生ゴミと、凝固した古い血のにおいが混ざり合った強烈な異臭が、冬の冷たい空気をじっとりと塗りつぶしていく。
無視しようとしても、体が、神経が、肌がその異常な存在感を拒絶しきれない。
胃の腑が雑巾のように絞り上げられ、恐怖で鳥肌が全身を駆け巡る。
(だめ、怖い……! 耐えられない……!)
私は足を速めた。
歩調を保つことすらできなくなり、最後の直線を全速力で駆け出した。
門扉を乱暴に押し開け、震える手で鍵を鍵穴に突き立てる。金属が擦れ合う嫌な音が夜の住宅街に響いた。
その瞬間、背後の闇の底から、信じられないほど激しい骨の打撃音が跳ね上がった。
カチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャ。
「開いて、お願い、早く……!」
鍵が回り、身体ごとドアを押し開けて玄関の土間へ転がり込む。
勢いのまま振り返り、ドアを力任せに引き戻した。
バタンッ!
鍵をかけ、ドアチェーンを溝に滑り込ませる。
冷たいスチール製の扉に背中を預けたまま、私はその場にへたり込んだ。
「はぁッ、……は、……っ、あ……」
荒い息が、狭い玄関に反響する。
心臓が肋骨の内側を激しく打ち鳴らし、肺がひりひりと痛んだ。
外の音は……聞こえない。街灯の明かりも届かない暗い玄関ホールには、古びた下駄箱の匂いだけが漂っていた。
「……ま、いた……? 逃げ切れた……?」
膝の震えを手で押さえ、立ち上がろうとした、その時だった。
――ト、ン。
静まり返った玄関に、乾いた小さな音が落ちた。
目線の高さからではない。
私が背中を預けているスチールドアの、一番下の隙間からだ。
郵便受けでも、ドアノブでもない。
地面からわずか数ミリ、外気が吹き込んでくるゴムパッキンの隙間。
そこに、何かが触れた音がした。
――ギギ、……ギチ、ギチ……。
爪を立てて、鉄板をゆっくりと引っ掻くような、耳障りな軋み音。
喉がひきつり、悲鳴すら出ない。
目線だけを落とすと、ドアと三和土の境目の暗がりに、白く濁った指先のようなものが、外側から無理やり隙間にねじ込まれようと蠢いているのが見えた気がした。
「ひっ……!」
腰を抜かしたまま、這うようにして後ずさり、廊下を転がるようにして自室へ逃げ込んだ。
ドアを閉めて鍵をかけ、毛布を頭からすっぽりと被る。
床下から、壁の向こうから、いつあの音が聞こえてくるかという恐怖に苛まれ、私は一睡もできないまま朝を迎えた。
翌日、土曜日の放課後。
部活の練習中も、グラウンドの隅の木立に黒い塊が蹲っているような気がして、私は一本のダッシュすらまともに走れなかった。
恐怖で頭が焼き切れそうになりながら、私はネットで都市伝説の情報を狂ったように読み漁った。
『テケテケに出会ったら、「地獄へ行け」と唱えれば消える』
『「カシマレイコ」という名前を呼んで、呪文を答えれば助かる』
掲示板に書かれたその言葉を、藁にもすがる思いで何度も頭の中で復唱した。
無視なんてできない。あんな異常な気配、怖がるなという方が無理だ。何か具体的な武器が、唱えるべき言葉が欲しかった。
顧問に体調不良を告げて早退し、私はすがるような思いで繁華街の路地裏へと向かった。
カララ、と引き戸を開ける。
「いらっしゃいませ、陽菜様」
朔さんの落ち着いた声と、白檀の冷たい残り香が出迎えてくれた瞬間、張り詰めていた涙がボロボロと零れ落ちそうになった。
「朔さん……! 詠ちゃん、いる……!?」
店内を見渡すと、いつものカウンターの端で、詠ちゃんが丸椅子の上にちょこんと正座していた。
着物の袖をまくり、古びた和紙の冊子をめくっている。
私の取り乱した声に、詠ちゃんは顔を上げ、細い眉をぴくりと動かした。
「やかましいぞ、陽菜。……なんじゃその顔は。まるで死相が出ているではないか」
「出たの……! 昨日の夜、家の前まで追ってきたの! ドアの隙間から、何かが入ってこようとして……!」
私はカウンターへ縋り付き、スマホの画面を突き出した。
「無視しようとしたよ! 歩調も崩さないようにした! でも、すぐ後ろまで来て……足音が止まらなくて、耐えられなかったの! ねえ、ネットに撃退法が書いてあったの。『地獄へ行け』って唱えるとか、カシマレイコって名前を呼べば助かるって! これ言えば消えてくれるんでしょ!?」
必死に答えを求める私に対し、詠ちゃんはスマホの画面を一瞥しただけで、心底うんざりしたようにため息をついた。
「……阿呆め。ネットの掃き溜めに転がる文字の羅列に縋りおって」
「だって……!」
「よいか、よく耳の穴をかっぽじって聞け」
詠ちゃんは冊子をパタンと閉じ、小さな人差し指を私の鼻先に突きつけてきた。
「その『テケテケ』とやらが、何故そこに生まれ、何を求めて地べたを這い回っておるのか。その因果の芯も見抜けぬ分際で、誰が言い出したかも知れぬ出鱈目な呪文を唱えてどうする」
「でも、そうでもしなきゃ、私、足を奪われちゃう……!」
「恐怖で目を塞ぎ、噂話の筋書き通りに踊ってやる貴様のような愚か者は、脚をもぎ取られて喰い殺されるのがお似合いじゃな」
冷酷に言い放たれた言葉に、息が止まる。
突き放された。やっぱり、助けてなんてくれないんだ――。
絶望で俯いた私の視界に、ことん、と小さな音が落ちた。
顔を上げると、カウンターの上に、丸いハッカドロップが一粒転がされていた。
「……ほれ」
詠ちゃんはそっぽを向いたまま、ぷいと顔を背けていた。
耳の先をほんのり赤く染め、ブリキ缶のフタを指先でいじいじと擦っている。
「貴様の叫び声が耳障りなだけじゃ。……少しは頭を冷やせ、間抜け。怖がるから寄ってくるのじゃと、昨日も教えたであろうが」
不器用な、あまりにも分かりやすい気遣い。
突き放すような言葉の裏にあるものに気づいて、目頭がじわりと熱くなった。
「……うん。ごめんね、取り乱して」
ドロップを口に含むと、鼻に抜けるハッカの強い刺激が、張り詰めていたパニックを少しだけ解いてくれた。
その様子を横目で窺っていた詠ちゃんは、私が落ち着いたのを見届けると、ふんと小さく鼻を鳴らした。
「……よいか。貴様は走るのが得意なんじゃろう。己の足を信じられぬから、地べたの影に怯えるのじゃ。そ奴らはただの寄せ集めの亡者。貴様の恐怖を型にして形を保っておるに過ぎん。恐怖の言いなりになって『呪文』などと口走れば、それこそ奴らの土俵に上がることになるのじゃぞ」
「奴らの、土俵……」
「そうじゃ。そんな戯言に頼るな。……怪異の輪郭など、所詮は噂が塗りたくった薄っぺらい張り子。恐れを捨て、その眼で芯を見据えよ。そうすれば――」
そこまで言いかけて、詠ちゃんは言葉を切った。
店の奥、止まったままの振り子時計が、コチ、と微かに鳴った気がした。
「……主様。珈琲が入りました」
朔さんが静かにトレイを運んでくる。
湯気を立てる二つのカップ。深煎りの苦い香りが、店内の張り詰めた空気を優しく塗り替えていく。
「飲むがよい、陽菜。……貴様の足がまだ繋がっておるうちにの」
詠ちゃんはそう言って、自分のカップに角砂糖を贅沢に三つ放り込み、スプーンでカチャカチャと音を立ててかき混ぜ始めた。
――けれど。
恐怖を捨てることの難しさを、私はまだ本当の意味で理解していなかった。
このあと、私は決して足を踏み入れてはならない時間と場所に、自ら迷い込んでしまうことになるのだった。




