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忌み喰らいノ詠 ~都市伝説を喰らうたび、少女へとつくりかえられていく呪術師の怪異譚~  作者: あかぱん
テケテケって知ってる...?

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足のない女

湿った夕暮れのにおいが、更衣室の引き戸の隙間から滑り込んできていた。

運動部の部室特有の、埃と制汗スプレーが混ざり合った生ぬるい空気。


パイプ椅子に腰掛け、スパイクの裏に詰まった赤土を千枚通しで掻き落としていると、隣でジャージを畳んでいた陸上部の友人が、ふと手を止めて顔を上げた。


「ねえ、陽菜(ひな)。……西口の踏切の話、聞いた?」


千枚通しの先が、靴底のゴムに浅く擦れて鈍い音を立てた。


「西口の? 開かずの踏切のやつ?」

「そう。あそこの線路、昔から人身事故が多いって有名だけどさ……最近、出るんだって」


友人は声を一段落とし、誰もいない更衣室のロッカーの列へ視線を泳がせた。

薄暗いスチールロッカーの隙間には、黒々とした影が落ちている。


「夕方、遮断機が下りて警報機が鳴りっぱなしになるとね、線路の向こうから這いずり回って近づいてくるらしいの。腰から下が……ごっそり千切れてなくなってる女の人が」

「……やめてよ。そういうの苦手だって知ってるでしょ」

「本当だって。肘と手のひらだけで、アスファルトを叩きながら走るんだって。爪を立てて、骨を擦りつけて……カチャカチャ、テケテケって、信じられないような音を立てて追いかけてくるんだってさ」


カチャ、カチャ。


友人の声が重なった瞬間、まるでその音を真似るかのように、部室の窓ガラスがガタりと震えた。


その刹那、うなじの産毛という産毛が逆立ち、背筋の芯に鋭い氷柱を突き立てられたような悪寒が走った。胃の腑がきゅっと縮み上がる。

気のせいだ。冬の隙間風がサッシを揺らしただけに決まっている。


けれど、一度冷え切った皮膚の粟立ちは、どれだけ手のひらで擦っても元には戻らなかった。


「……陽菜? どうしたの、顔が真っ青だよ」

「あ、ううん! ちょっと鳥肌立っちゃっただけ。もう、脅かさないでよ。私、走るのだけは誰にも負けないんだから、幽霊にだって追いつかれないもんね」


自慢の脚をポンと叩いて笑ってみせた。

中学から短距離一筋で鍛え上げた私の足は、いつだって地面を強く蹴り飛ばすためにある。幽霊なんかに追いつかれるわけがない。


けれど、更衣室の蛍光灯を消して外に出たとき、夕闇に沈む校庭の端、用具倉庫の陰が、ほんの一瞬だけ――人の上半身のような形に歪んで見えた気がして、私は逃げるように校門を飛び出した。


冷たい風に追われるようにして、繁華街へと向かった。

ネオンの看板が灯り始めた駅前の通りを抜け、居酒屋の換気扇から油の匂いが漂う細い横丁に入る。古い雑居ビルとビルの間に挟まれた、昼間でも陽の差さない袋小路。


その突き当たり、まるで街の視界の死角に潜り込むようにして、その店はある。


看板はない。木製の引き戸には何の飾りもなく、通りかかるサラリーマンも、立ち止まることなくこの路地を素通りしていく。

ポケットから取り出したスマートフォンを見ると、引き戸の前に立った瞬間に、電波のアンテナピクトがふっと途切れて圏外に沈んでいた。


カララ、と引き戸を開ける。

頭上の小さな真鍮の鈴が、涼やかな音を鳴らした。


店内に足を踏み入れた途端、街の喧騒――車の排気音や若者の笑い声が、厚い壁の向こうへ遮断されたかのように完全に消え失せる。


静謐な空間を満たしているのは、深く焙煎された珈琲の苦い薫香。

そして、その底に沈むようにして漂う――わずかな、お寺の線香を思わせる白檀(びゃくだん)の匂い。

おばあちゃんの家の仏壇に手を合わせるときのような、冷たくて乾いた匂いが、鼻腔の奥に微かに残った。


「いらっしゃいませ、陽菜様」


静かな声に顔を上げると、カウンターの中から、夜会巻きの黒髪を結い上げた女性――朔(さく)さんが深々と頭を下げていた。

陶器のように白い肌に、鮮やかな紫色の銘仙、その上から掛けられた純白のエプロンが凛として美しい。


「朔さん、こんばんは。……ふう、急に冷え込んできちゃいました」

「息が白くなっておられますね。お体を冷やすのはよくありません。いつものをお淹れしましょう」


朔さんが細口のドリップポットを傾け、湯を落とし始める。

落ちていく雫の音だけが、やけに澄んで店内に響いた。


ふとカウンターの端に目をやると、一人の小さな影が丸椅子に腰掛けていた。


「……遅いぞ、陽菜。早く座らんか、戸の隙間から冷たい風が入るではないか」


鈴を転がすような、幼く愛らしい声。けれどその言葉遣いは酷く尊大で、年寄りじみている。

烏丸(からすま)詠(よみ)ちゃんだ。


小学生くらいにしか見えない小柄な体躯に、白磁の人形めいた肌。ふわりと波打つ髪は、色素の抜け落ちた鮮やかな金色をしている。深紅と紫の市松模様の着物に、レースの白い襟、足元には小さな黒革の編み上げブーツ。

大正時代の令嬢をそのまま硝子ケースに閉じ込めたような可憐なビスクドール――それが、私の知る詠ちゃんだ。


詠ちゃんは丸いブリキのドロップ缶を手のひらでカラカラと鳴らし、フタを開けようとしていた。

けれど、小さな指先の力では固く締まったフタがびくともしないらしく、眉間をぎゅっと寄せて「ぬぅ……」と小さな唸り声を上げている。

フンと鼻息を荒くしながら爪を立てて格闘している姿は、どう見ても駄々をこねる前の幼子そのものだ。


「詠ちゃん、フタ開かないの? 開けてあげようか?」

「だ、誰が開けられぬと言うたか! 無礼者め、今まさに開くところじゃったわ!」


私が手を伸ばしかけると、詠ちゃんは慌ててドロップ缶を両手で隠し、キッと金色の瞳で私を睨みつけた。

ポッと耳の先を赤くしながら、思い切り力を込めて――パコンッ、と間の抜けた音を立ててようやくフタが開く。

詠ちゃんは勝ち誇ったようにふんぞり返り、小さな胸を張った。


「見よ、我が手にかかれば造作もないことよ。……ほれ、貴様にも一つくれてやる。ありがたく押し頂くがよい」


そう言って差し出された小さな手のひらには、緑色のメロン味のドロップが一粒。なんだかんだ言っていつも分けてくれるところが、どうしても憎めなくて可愛らしい。


「あはは、ありがとう。……あ、そうだ。詠ちゃん、聞いてよ。さっき部活で、すっごく嫌な噂話を聞いちゃってさ」


メロン味の甘さを口に広げながら、私はカウンター席に滑り込み、呼吸を整えて話した。

西口の踏切のこと。腰から下が千切れた女が、線路の向こうから腕だけで追いかけてくるという話。


話し終えても、詠ちゃんは自分の口に放り込んだハッカドロップを舌の上で転がしているだけだった。


「下半身がちぎれ飛んだ女が、腕の力だけで地べたを這いずり回る、か。……くだらぬ。ただのたちの悪い戯言じゃな」

「やっぱりそうだよね! 作り話だよね」

「当たり前じゃ。死体に人を追いかける脚力などあろうはずがなかろう」


詠ちゃんは淡々と言い放ち、カチリ、と奥歯でドロップを小さく噛み砕いた。


「よいか陽菜。そ奴らはの、初めから実体を持っておるわけではないのじゃ。『そこに居る』と貴様が信じ、怯えて振り返った瞬間、ただの薄汚い悪意の滓(かす)が貴様の恐怖を型にして形を結んでしまうのじゃよ」

「型……?」

「そうじゃ。恐怖して怪異のルールに自ら乗っかってやるから、そ奴らは力を得る。……己の二本の足で立っておるなら、地べたを這うような下等な影に足を止めてやるな。目を合わせず、相手にせず、己の歩調を崩さずスタスタと通り過ぎてしまえば、奴らは輪郭すら保てずにただの塵に戻るのじゃ」


一蹴されたはずなのに、その言葉には、ただの強がりではない確かな理屈と重みがあった。詠ちゃんの金色の瞳が、真剣な光を宿して私をじっと射抜く。


「怪異に襲われる筋合いなど、貴様には爪の先ほどもない。恐れて立ち止まり、奴らの言いなりになってやるなよ」

「……うん、分かった。無視すればいいんだね」


私が頷くと、朔さんが静かに純白のカップを目の前に置いた。

立ち上る湯気とともに、深く香ばしい珈琲の匂いが鼻をくすぐる。

カップの横には、小さな小鉢に盛られた、艶やかに炊かれた小豆が添えられていた。


「お待たせいたしました。冷え切った体には、温かいものが一番でございます」


スプーンで小豆をすくい、口に運ぶ。

上品な甘みが舌の上に広がり、胃の奥に落ちていくと同時に、部室で感じていたあの心臓の嫌なざわめきと、皮膚に張り付いていた冷たい湿り気が、ふうっと引いていくのが分かった。


ふと隣を見ると、朔さんが詠ちゃんの前にも小さなカップを置いていた。

詠ちゃんは「大人の嗜みじゃ」とばかりに得意げに両手でカップを包み込み、熱い珈琲をちびりとすすった。


その瞬間、金色のまつ毛がぎゅっと固く閉じられ、整った小さな顔がくしゃりと歪んだ。


「……にがっ」


小さな呟きとともに、ぺろりとピンク色の舌先が覗く。

思わず私が吹き出しそうになると、詠ちゃんは慌ててキリリと眉を釣り上げ、頬を膨らませて睨んできた。


「な、なんじゃ! 笑うでない! 我が苦味に怯んだとでも思うたか! ……朔、角砂糖を二つ入れよ。いや、三つじゃ!」

「はい、かしこまりました」


朔さんがクスリと微笑みながら角砂糖を落とすと、詠ちゃんは満足そうにスプーンでカチャカチャと音を立てて混ぜ始める。さっきまで威厳たっぷりに説教をしていた人物と同一とはとても思えない。


その背伸びした幼さが可笑しくて、部室で感じた底知れない恐怖が、少しだけ薄らいでいく気がした。


珈琲を飲み干し、息をつく。

お代を払うため、私は財布から小銭入れを取り出し、カウンターの真鍮トレイに十円玉を六枚、並べて置いた。

メニュー表に値段は書かれていないけれど、この店ではどんな注文をしても、硬貨を六枚置けば朔さんは静かにそれを受け取ってくれる。


「ごちそうさまでした。朔さん、詠ちゃん、また明日ね」


席を立ち、引き戸に手をかける。

背後で、甘い珈琲をすすり終えた詠ちゃんが、ふとカップを置く微かな音がした。


「陽菜」


呼び止められ、振り返る。

詠ちゃんはそっぽを向いたまま、編み上げブーツの爪先を所在なげにパタパタと揺らしていた。そして、照れ隠しのようにぷいと顔を背けたまま、低く、けれどどこか真剣な声で呟いた。


「……夜道で、後ろから音がしても、決して振り返るなよ」


その声の硬さに、私は思わず息を呑んだ。

けれど詠ちゃんはすぐに「貴様のような足の遅い間抜けが転んでも、我は助けに行かんからな!」と唇を尖らせてドロップ缶を抱え込んでしまった。


店を出ると、冷え切った冬の夜風が容赦なく頬を叩いた。

路地裏を抜け、街灯の続く帰り道を歩く。住宅街を抜け、自宅へ続くアスファルトの坂道を登っていく。


――カチャ。


不意に、後ろで音がした。

私はぴたりと足を止めた。


風の音ではない。猫がゴミ箱を漁った音でもない。硬い爪先か、あるいは尖った骨の塊を、アスファルトに強く打ち付けたような、短くて硬質な音。


詠ちゃんの言葉が、頭の奥で警鐘のように鳴り響く。


『恐れて立ち止まり、奴らの言いなりになってやるな』

『決して振り返るなよ』


振り返ってはいけない。耳を貸さず、自分のペースで歩き続けるんだ。

私は前だけを見つめ、早足で歩き出した。靴底が地面を擦るペースを速める。


――カチャ、カチャ。


音は、確実に私の後ろをついてきていた。

歩く速度に合わせて、一定のリズムを保ちながら。


けれどそれは、二本の足で歩く人間の足音のリズムではなかった。

もっと低く、地面すれすれの場所から――引き摺るような衣擦れの音とともに、這い寄ってくる音だった。

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