*番外編*朧月夜 6
下唇を少し噛めば、口の中が酷く乾いていることに気付いた。それでも、この部屋では目の前のカップに手を伸ばすことすら躊躇われ出来ずにいた。
艶やかな敷布に包まれた一室。
幾度となく王城を訪れているシエナであるが、ここへ通されたことは数えるほどしかない。
王城の中でも一際豪奢なつくりでありながら、また調度品の数々は部屋の主の好みに合わせ可憐いて絢爛。それらは自ずと部屋の主を想起させる。
この部屋へ通されるたび、甘やかな乙女のような雰囲気に包まれているにもかかわらず、鋭い緊張に包まれてしまうのはそのせいかもしれない。
不意に隣に控える侍女が、視線を扉へと向けた。その動きに合わせ、シエナも腰を上げる。
静かに開いた扉から現れたのは数人の侍女を引き連れた可憐な天使――
「お久しぶりね、シエナ」
体の前で重ねた手に無意識のうちに力がこもる。
「はい、王妃陛下」
現れた天使は見えぬ羽で舞うようにふわりと席に着く。そして、あなたもと視線で促され、シエナも腰を下ろした。
「せっかくの休暇なのに呼び立ててしまってごめんなさい」
そう言いながらも、王妃はくすりと悪戯っぽく微笑んだ。
礼節を重んじるならば、ここは主に合わせて笑みを浮かべるべきところだった。
けれど、シエナには王妃に言わなければならない言葉があった。
「……申し訳ありませんでした、陛下……」
シエナがまず口にしたのは、謝罪の言葉だった。
フェリオを街へ置き去りにしてしまったことを詫びる機会をシエナは得ていなかった。あの時は、ゲイルにまるで叩き出されるようにして城から去るしかなかった。
「申し訳ございませんでした……」
かわいらしく首を傾げる王妃に向かい、一層深く頭を下げた。
そこへ小さな溜息が聞こえた。
「もう……今日はあなたとおしゃべりしたくって呼んだのよ。幼すぎる王子のことなんて――」
にっこりと浮かべる笑みは、純真無垢な天使そのもの
「無視」
続く言葉は微笑みには相応しからぬ辛辣さを含んでいた。
そうだった、この方はその天使の笑みのまま刺を突き刺すのだ。
シエナは返すべき言葉が見つからず、ただ目を丸くして王妃を見ていた。
鋭さを見せてもなお少女のような瞳のままの王妃。
目の当たりにして当惑を見せるシエナを気にする風もなく、静かに置かれたカップに手を伸ばす。
カップが下ろされ、王妃の瞳がシエナを捕えたとき、その瞳に映る色が変わっていた。
「……そうね、確かに彼から目を離したことはいただけないわ。でも、あの子にとっては貴重な経験になりました。そして、あなたにとっても……違うかしら?」
頬笑みは変わらず春の日差しのよう。けれど瞳の色はシエナに何かを問いかけていた。
「ところで……」
唐突に話が変わる。
「カロン家のご子息はお元気?ちらりとお姿を拝見したけれど、とても素敵な方ね。それにとても優秀な方だわ」
びくり、と体が勝手に反応していた。
当然王妃も気付いたはずなのに、それに触れることなく、平然とまたカップを口へと運ぶ。
「きっかけとしては最適だと思うわ」
何の、とは決して口にはしない。
しかし、それがシエナの進退に関わることだと瞳の色が示していた。
既に取ってしまった彼の大きな手の温もりが思い出された。
体を包む幸福感。
どうしても、欲しかったのだ。
だから、手を伸ばしてしまった――
それでいいと、この方は言ってくれるのか……
「陛下……」
迷いと懇願が複雑に入り混じった感情。
ただ、誰かの許しが欲しかった。
「シエナ。私あなたが大好きよ」
意外な言葉に、瞬間頭が真っ白になる。
真っ直ぐに向けられる眩しい笑顔に気が付いたとき、心が苦しいほど締め付けられた。
「賢く美しく……少し風変りなところも、大好きだわ……だから、あなたがあなた自身の幸福を求めるのなら……止めはしないわ。あなたの進むべき道を行きなさい。あなたはそれができる人よ」
瞳にこめられた光を受け取る強さが今のシエナにはなかった。
温もりを失った紅茶に不安げに揺れる自らの姿が映った気がした。
王妃が評価してくれていたことは純粋に嬉しいが、道行を選択する自信を持てずにいた。
「……とは言え、私も愛息は愛おしいのねーー」
ふっと、侍女たちの動きが目に入ったのか、王妃が零しかけた言葉をとめた。
中でも年かさの侍女が王妃に耳打ちをする。
まぁ
小さく零してこちらへ幼子が見せるような拗ねた顔を向けた。その表情は暫く目にしていない小さな少年の面影を確かに宿していた。
「ごめんなさいシエナ。少し用立てができたらしいわ。共は出来ないけれどもゆっくりしていらしてね」
恐らく、急な諸侯の謁見請求でも入ったのだろう。
王城ではよくあることだった。シエナなどとの会話よりも遥かに重要なものがここでは溢れているのだ。
急かされるように部屋を去る王妃を見送るために、扉の前へと付き従う。
扉を抜ける瞬間、思い出したように、振り返った。
「……そうだわ、西の庭園の花々が今見頃なのよ。是非」
ぱたん、と扉の向こうに天使の頬笑みは消えた。
ふう、と詰めていた息を小さく吐く。
恐らく、この招待でシエナの謹慎は解かれたことになるのだろう。
元々、表立って言い渡されたものではないし、どちらかといえば自主的な面の方が大きかった。
あのまま父のもとへ行こうと言うベルナールをシエナはなんとかとどめた。
せめて自分の謹慎が解けるまで待って欲しい、と。
ベルナールはすぐに頷いてくれた。
そして、つらいことがあるのなら、何時でも駆けつける――と一言を残して
筋道を通したい、というのはもちろんあった。
しかし、それよりも真実シエナの心を占めていたのは、躊躇いだった。
今少し……猶予が欲しかったのだ。
けれど、謹慎が解かれてしまった今、その猶予ももう残されていない。
シエナは王妃の言葉の意味を図りかねていた――
王妃の言葉通り、庭園の花々は今が盛りのようだ。
吹き抜ける風に乗り香りが鼻腔をくすぐる。
そういえば、フェリオと初めて会った時も、この辺りだった。
懐かしさに、瞳を細めて木々の梢を眺めていた、その耳に控えていた侍女の声が密やかに届いた。
――シエナ様
振り返った侍女の背に幼い皇子の姿が見えた。
「フェリオ……」
ひさしぶりね
元気だった?
あの日は、ごめんなさい
色々な言葉が浮かんだけれど、どれから選べばよいのかも分からない。
その間にフェリオは御付きの者たちを視線で辞すように促していた。
そして、言葉を失くし明らかな戸惑いを浮かべるシエナへ、にこっと満面の笑みを浮べてみせる。
「シエナ!街はすごかったよ!!旅芸人がいてね、口から火を吐いたり、剣を出したり!!人々もね、僕が皇子だなんて誰も気付いてなかったよ!それでね……」
小さな体に興奮をいっぱいにして、自分の思いを伝えようとする。
ふっとそんなフェリオの面に影がよぎる。
静かに二人の間の距離を詰め、不安げな色を浮かべた瞳で下から見上げる。
微笑みを浮かべていたつもりでいたシエナは、その瞳に自分の本当の表情を悟らされた。
シエナ
小さく零して、言葉を選ぶように一度間を置く。
「……シエナ、養子を迎えるとゲイルから聞いた」
フェリオへ話が伝わっていることは、予想をしていた。
「ええ……ベルナール・カロン様……彼をイベルス家に養子としてお迎えするの」
言葉を紡いでから、これがあの時以来初めてシエナからフェリオにかけた言葉であることに気付く。
「……いいなぁ」
フェリオの答えに小さく首をかしげる。
「だって、兄上ができるんだろう?」
その答えに瞳を大きくする。
「ええ……」
兄上。
彼が?
イベルスの名を継ぐ?
ならば――
きっとゆくゆくはその隣に立つ女を迎えるのだろう……
小さな子どもたちに囲まれて――
思い浮かべて、ずきんと胸軋んだ。
いいえ、これで、イベルスは安泰なのだから――
でも――わたしは?
美しい家族に囲まれたベルナール様へ、役目を終えた孤独でみすぼらしいわたしは、どのような顔をお見せできるというのだろう
「嘘……。欲しくない。彼には、兄になんてなって欲しくないの。でも……選べない……」
涙が零れ落ちた。
「ごめんなさい。ごめんなさい、フェリオ」
崩れ落ちるようにその場へうずくまる。
わたしは、いつでも離れられるのだ。
「……許して」
この小さな手を離してしまうことは、なんて容易なことなのだろう
「……シエナ?僕、何か嫌なことを言った?シエナ?シエナ?」
フェリオが名を呼ぶのが分かったが、応える事が出来なかった。
やっぱり
――わたしは、わたしを諦めきれない
唇を小さく開こうとした、その時だった。
「僕、頑張るよ!夜会にもちゃんと出る!諸侯との謁見もちゃんとするよ!!もう、もう逃げたりしないから……」
悲鳴にも似たフェリオの声がそれを止めた。
「シエナ、僕が側にいるよ。泣かないで……」
しゃくりあげながらも、必死で言葉を紡ぐ。
「ほんとは……街は、すごく……すごく怖かった。僕なんてなんにも知らないんだよ。彼らの欲しいものも、何のために生きるのかも……全部、考えても知らないから分からない……」
はらはらと涙を零し、ぎゅうっと小さな拳を握りしめる。
さきほどまで街でのことを明るく興奮気味に話していた姿からは見えなかったフェリオの不安。
やはり、街へ下ろしたことは彼に大きな戸惑いを生んでしまったのか。
労わりを込めて、その小さな拳に手を重ねた。すると、固い拳が緩み、小さな掌がシエナの指先を捕えた。
「シエナ……また、街に行こう、僕にはまだ、知らなければならないことが多すぎるよ……」
フェリオは涙に濡れた瞳に小さいけれど輝きを灯し、前を向く。
彼女の手を離してはならない。
しっかりと握りしめていなければ、この手は容易に離れてしまうのだ。
彼女が隣に立っていること、それが当たり前でないと、初めて知った。
彼女は、僕の、僕だけのもの――
だから、絶対に離さない
こめられるだけ、精一杯の力を指先にこめる。
「共に行こう……」
小さな掌からは想像のつかないほどの力がシエナの指先を捕える。
少年の真っ直ぐな瞳がシエナの心の奥底へと明りを照らした。
濃紺の瞳に宿った微かだけれど熱い灯火が、心を覆っていた霧を晴らしてゆく。
そうなのだ
彼の行く末は、まだ広がりゆくのだ。
わたしには迷う道などありはしない。
あの時、梢の先で心に定めたことは、まだ成し得てなどおらず、フェリオの瞳に宿った明りはこれからようやっと輝き始めたばかり。
「……ええ……」
わたしの役目は、まだ終わりではない
「あなたが、そう望むなら――」
フェリオが望む限り……
この手を離すことは、わたしには、初めからできるわけがないのだ。
重ねた掌のお互いの熱がとけゆくまで、強く力をこめる。
この手を、僕は二度と離さない――
この手を、わたしは二度と離せない――
永らくのお付き合いありがとうございました。