第八話 奇跡には及ばず、ただ必然の祈り
美叶木家の入り口が開く。
そこから顔を出したのは、疲れはてた様子の女性。
その手には携帯端末が握られており。
ボサボサの髪に、ヨレヨレの服、ずっと寝ていない様子で目の下にはクマがあって、顔はむくみ、肌は荒れきって。
けれど、確かに美叶木さんの面影が、そこにはあり。
「夜目、なの?」
そのひとは、家の外で繰り広げられる地獄絵図のような戦いを見て怯えていた。
だが、殴り合っているのが、死闘を演じているのが、ずっと叫び続けているのが、美叶木さんだと知って。
一歩を、踏み出す。
娘と同じように。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
『ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!』
美叶木さんの声は、届いていた。
一拍遅れて、美叶木母が持つ携帯端末へと。
ぼくが、携帯の設定をハンズフリーのスピーカーモードに変更したことで!
だから、起こるべくして、その瞬間はやってくる。
「夜目!」
駆けだした、美叶木母が。
家の外へと。
その瞬間だった。
影が、静止した。
ドッペルゲンガーの動きが、ピタリと止まったのだ。
「……そういうこと。マジで度し難いわ」
何かを理解したかのように、口元を苦々しく歪め。
美叶木さんが、ボロボロの身体を起こす。
口元からこぼれる血を拭うと、少女は、あっと言う間に元の姿へと回復する。
驚くべき吸血鬼の力だ。
美叶木さんは、自分へと向かって走ってくる女性を見遣ると、ゆっくりと手を翳して。
制止する。
「お母さん」
「あなた、生きて、生き返って」
「……悪いけど、私は死んだわ」
少なくとも、前のいい子ちゃんだった自分はもういないのだと、彼女は語る。
「ホントは、解っているでしょ?」
解っているから、メールを打つ手を止めたのだろうと。
いま、ドッペルゲンガーは動きを止めているのだと、彼女は言外に語って。
「お家に戻るつもりはないし、前みたいにお母さんと話をするのも無理だと思うし、お父さんはあんなだし……だから、お母さん」
彼女は。
美叶木夜目は。
まっすぐに、告げたのだ。
「私、自立する。一人暮らし、させてください」
その瞬間だった。
ずっと制止していたドッペルゲンガーが。
影法師が、ほどけた。
美叶木夜目の代わりに呼び寄せられていたものが。
過去の残滓が。
〝おまじない〟の効力が。
霧散していく。
それは、吸い込まれるようにして美叶木さんへとくっ付いて。
大きな変化が一つ、生じた。
彼女に、影が出来たのだ。
落ちる。
ドッペルゲンガーの頭に刺さっていた裁ちばさみが。
それは、美叶木夜目の影をしっかりと貫き、固定して。
「死んだままでも、生きてみろってことか」
美叶木さんが呟いたとき。
ぼくの視界が、急速に暗くなった。
そのまま、意識が消失する。
これから美叶木家がどうなるかなんてわからない。
ただひとつ。
どうしても気がかりなのは。
ぼくは、恩義を返せたのだろうかという一点で――
§§
夢を見ている。
あるいは、これが走馬灯というやつだろうか?
幼い日の記憶だ。
ずっと子どもの頃、親戚がひとり亡くなった。
そのひとに、よく面倒を見てもらっていたぼくは、通夜に連れて行かれてお参りをした。
不思議なことに、その人の遺体には、鎌が載せられていて。
どうしてそんなことをするのかと大人たちに訊ねれば、
「起き上がってこないようにするための〝おまじない〟だよ」
と、教えられて。
起き上がってこないようにする。
生き返らないようにする。
このひとは、死を願われているのだと感じて怖くなった。
大人たちは、みな楽しげに喋っている。
亡くなった人のことなんて、もう忘れてしまったように、日常の話をしている。
おそろしかった。
人は死ぬと、忘れ去られてしまうのだと思った。
誰かからの記憶からすら、消えてなくなるのだと。
だからぼくは、通夜から逃げて。
……どこまで逃げ続けたのか覚えていない。
気が付いたら、川沿いにいて、ぼくは泣きべそを掻いていた。
生きるのが怖かった。
死ぬのが怖かった。
忘れられるのが、怖かった。
そんなときだ。
「度し難いわね。おまえ、景気の悪い顔してるわ!」
不機嫌そうな、怒っているような、けれど快活な、相反するような声を、投げかけられた。
見遣るとそこには、ひとりの幼女がいて。
ぼくよりも背の高いそのひとは、つかつかと歩み寄ってきながら、意地の悪そうな笑顔で、こう言ってきた。
「なにがあったのよ。おねーさんが、聞いてあげる」
洗いざらい、話したと思う。
人が死んだこと。
生き返られないことを望まれていたこと。
皆忘れてしまっていたこと。
だから、生きることも死ぬことも、忘れられることも怖くなってしまったこと。
全てを聞き終えて、彼女は。
「くっだらない」
ケラケラと、笑った。
深刻な悩みを、一笑に付してしまう。
そうして。
「だったらおまえのことはおねーさんが覚えていてあげる。忘れられても、探してあげる。これは……その目印!」
自分の人差し指を乱暴に噛みきると、彼女はぼくの額に、べちゃりと押しつける。
赤い、赤い拇印が刻まれて。
「安心して生きなさい」
涙が溢れた。
嬉しかった。
自分が生きていていいのだと、言ってもらえたように思えて。
でも、もし、彼女が死んでしまったら、どうすればいいのだろう?
彼女が忘れられてしまったら、どうしたら?
そんなぼくの問い掛けに、彼女はニカッと笑う。
「そのときは、おまえが私を見つけるのよ」
交わしたのは約束。
受けたのは、生きることの許しと恩義。
ぼくはこの日から、彼女へ恩を返すために生きてきた。
あの時の彼女と――美叶木さんとの約束は、もう――
「――ぅ」
衝撃を受けて、意識がかすかに揺り戻される。
目を開けると、抱きかかえられていた。
他ならない、美叶木さんにだ。
お腹がめちゃくちゃ痛い。
痛いというかもう感覚がない。
たぶん死ぬ寸前の光景なのだろうと思う。
彼女はぼくが目覚めたことに気が付くと、不機嫌そうに口元を歪めた。
「あーあ、恩返しを踏み倒し損ねた。そのまま死ねばよかったのよ、おまえ」
なんてことをいうのだろうこの少女は。
いや、それもいいか。
きっとぼくのことは、彼女が覚えていてくれるだろうし。
「ガチでありえない。自己犠牲やってひとりで満足して逝くのはさぞや気持ちのいい自慰行為でしょうね?」
ちょっと感動するぐらいの罵声を浴びせられてるな、ぼく。
いやまあ、やったことを鑑みると、なんら反論できないのだけど。
「でも、そう、おまえはまだ、生きてるのね。ひとの人生をしっちゃかめっちゃかにしておいて、生きてる。だったら、責任の一つぐらい、取って貰わなきゃ。勝ち逃げなんて、許さないんだから」
なんだって?
何か嫌な予感がしたところで、彼女が視線を逸らした。
じつに後ろめたそうに。
「言っとくけど、やるのは初めてだから。出来るのはわかってたけど、ずっと我慢してたんだから」
言いながら、彼女の綺麗な顔が迫ってくる。
本当に待って欲しい。
一体何をするつもりで?
「その……痛いのは最初だけだと思う……たぶん」
マジで何を!?
「精々感謝するのよ、おまえ」
やめて欲しいとなんとか突っぱねようとしたところで。
彼女の唇が。
ぼくに、触れた。
ぼくの、首筋に。
そして。
かぷつん、と。
肌が、食い破られる。
犬歯が、動脈にめりこんで。
「吸血なんて、初めてやるんだから……!」
……吸血鬼の逸話の中でも、最も有名な逸話。
血を吸われたものは、吸血鬼の眷属になる。
メリメリと音を立てて、腹の傷が塞がっていく。
萎えきっていた全身に、熱いほどに冷たい体液が循環する。
或いはそれはぼくの人生にとって、大きなターニングポイントだったに違いない。
だって、ぼくはこの日、改めて大きな恩義を受けた。
死ぬはずだった鶴屋恩義は。
美叶木夜目の、眷属として生まれ変わったのだから。




