第七話 これから仲良くなればいい
「どーぞ」
粗末なちゃぶ台の上に、飲み物が置かれた。
以前は水道水がコップに入って出てきたけれど、
「紅茶、好きなんでしょ?」
……今回は、違う。
美叶木さんは気を遣って、紅茶を用意してくれていた。
感謝を伝えて、それからノートや参考書を開く。
勉強会は、恙なく進む。
もともと彼女は優秀だ。
取っかかりさえあれば、ドンドン前へと進んでいける。
ひょっとすれば、ぼくが教えられることなんてないかも知れない。
それでも、一緒に勉強へ打ち込んだ。
ずっと長い時間、集中して。
ふと喉の渇きを覚え、カップに口を付ける。
すっかり冷めてしまった紅茶。
吐き出す息に、言葉が載る。
「覚えて、いないんだよね」
内心に、ずっと降り積もって、澱のようになっていたものが。
いまになって、あふれ出す。
「ええ、何も。度し難いほどに、なにもね」
彼女は普段通りの表情で淡々と告げる。
一握りの勇気が必要だった。
もう一度紅茶に口を付け、内心を吐露する。
素直に、真っ直ぐに。
「ぼくは、覚えている」
「そう」
「君が忘れてしまったことが、実を言えば結構ショックだった」
「……恩のことも?」
「……本当のところを言えば、割とね」
苦々しく笑ってみせる。
ぼくが最初に受けた恩。
存在を救う偉業を、彼女は覚えていない。
いや、本当はもっといっぱい、彼女には覚えていないことがある。
この部屋で、屋根の上で話したこと。
ぼくの人生を少しだけわけて欲しいと言った美叶木夜目。
ビー玉を贈ってくれた彼女。
……けれど、目の前にいるのは、水道水ではなく紅茶を出してくる美叶木さんだ。
コーヒーでからかっても来ない彼女だ。
きっと、以前とは違う。
ふたりぼっちを分け合った、あの時の彼女は、もうどこにもいない。
それでも。
「ぼくは、もう一度はじめたいんだ」
「なんの話?」
「なんだろうね、人生かな……」
苦笑する。
そうしながら、彼女の儚さと強さを再確認する。
美叶木夜目は、自分の人生を己で定めた。
ならぼくだって、ぼくの在り方を自ら決めるべきだ。
恩を返す、返さないとは別のベクトルで。
美叶木夜目のそばにいることを選びたいと望むのなら。
「ぼくは、君の友達になりたいんだ」
改めて告げれば、かすかに美叶木さんが息を呑む。
ここで都合よく、記憶が甦ったりはしない。
感動的な奇跡は、きっと起こらない。
解ってはいても、それは一抹のさみしさを伴い、ぼくに狂おしいほどの、叫び出したくなるほどの寂寥感を与える。
でも。
「美叶木さんへ胸を張れる友達でありたくて、だから、前を向かなきゃとぼくは思って」
「……朝」
「え?」
「もう、朝が近いわね」
そっと、窓の外を見遣りながら、彼女がそんなことを言った。
「マジックアワー」
刺激された記憶が、勝手に言葉を紡がせる。
「それは、なに?」
「……朝焼けの時間。夜と昼のあわい。今でもなくて、過去でもなくて、未来でもない、そんな曖昧な瞬間のことだよ。以前、ぼくはそれを何度も見た」
「…………」
ゆっくりと、咀嚼するように、彼女は目を閉じて。
「なら、今日は一緒に見てみましょう」
目をあけて。
穏やかな表情で。
美叶木夜目は、こう告げた。
とても、とても懐かしい呼び方で。
「構わないかしら――恩義ちゃん?」
美叶木夜目は運命に頼らないと言った。
奇跡ではなく必然だと。
けれど、そのとき彼女が口にした呼称は――
いやはや、それこそどうでもいいだろう。
重要なことは、たったひとつ。
かようにして、鶴屋恩義と美叶木夜目は、もう一度友達になった。
それだけである!
第三章はここまでです。
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