第三話 いまのままがいい?
嫌なことを綺麗さっぱり忘れ去ってしまえば、人生はよりよいものになるだろうか?
鶴屋恩義に、この哲学を解き明かすだけの頭脳はない。
精々が気落ちしないで済むかも知れないと、浅薄な考え方をする程度だ。
だが、身近な人の記憶が失われているとなれば、話は違ってくる。
これは気楽な思考実験ではない。
雑談のついでに出てくる与太話とも違う。
美叶木夜目は、確実に、日に日に、これまでを忘れてしまっているのだから。
……あるいは、彼女は幸福なのだろうか。
この数ヶ月間で起きたこと、ぼくがかかわったことで起きた変化を全て忘却し、吸血鬼だったことさえ忘れれば。
美叶木さんは、家に帰れるだろうか?
壊れきった、あの家に。
それが悲劇であることは、考えずとも解る。
いや……どうだろうか。
案外幸せなんじゃないか?
家入さんの持つ〝おまじない〟は、嫌な記憶を消してしまう。
消しゴムをかけるように、消しゴムをかけることで、まっさらなノートのように漂白してしまう。
だとすれば、両親とのわだかまりも解けて、美叶木さんの家庭は復元するんじゃないだろうか。
そうでなくとも、一人暮らしをするより、ずっといい生活が待っているのでは?
そうだ、死者になるわけでもなければ、万人に忘れ去られるわけでもない。
ただ、過去に戻るだけ。
「いまのままがいい……」
あのとき、美叶木夜目はそう叫んだ。
けれど本当は、心の底では、家族が元通りになることこそを願っていたのかも知れない。
もし、ぼくが恩義を返すなら、いまこそ彼女の意向を尊重すべきではないか?
「……ふざけるな」
ここまで考え続けて、ようやく理解が及ぶ。
論理を重んじたフリをして、わかったような顔で自分の感情に蓋をするな。
ぼくはいま、きっと寂しいのだ。
このままでは、終わりたくないのだ。
たとえ何もかもが消えてしまうのだとしても。
押しつけがましい行動が、美叶木さんにとって敵対的に映るのだとしても。
もう一度、ぼくは彼女と向き合いたい。
だけど、ぼくは知らない。
彼女の過去も。
そしていま、なにを考えているかだって、解っちゃいないんだ。
鶴屋恩義にとって、恩を返すことは重要だ。
同じぐらい美叶木さんの意志だって大切だ。
けれど……ぼくはこんなにも身勝手に。
美叶木夜目を、大事に思っている。
大事だから、傷ついて欲しくない。
大事だから、傷つくのだとしても、彼女の願いを叶えたい。
両極端の思想が並列していて。
矛盾、パラドックス、混乱、錯誤。
……だから、話をしよう。
これまで積み上げてきた彼女との思い出に胡座をかくのではなく。
誠実に〝いま〟の美叶木夜目と向き合おう。
全ては、それからだ。
「よしっ」
萎えていた足に力を入れる。
ぼくは教室から歩み出す。
美叶木さんを、探しだし、話をするために。
§§
案の定というか、意図されたとおりというか。
美叶木さんは実家へ帰ろうとしていた。
悲劇の種と、確執が山ほど詰まったあの家にだ。
ぼくは反射的に、彼女の前に立ちはだかる。
「……鶴屋恩義……くんでしたね。なんのつもりですか?」
よそ行きの声。
あるいは深窓の令嬢としての口調で、彼女が語りかけてくる。
……苦しい。
吸血鬼としての彼女を知る前は、こんな対応でしかなかったはずなのに。
ちょっと戻っただけなはずなのに。
「……なんで、泣きそうな顔を?」
泣いてなんかいない。
いまは、感情よりも理性を優先すべきだ。
「美叶木さん。美叶木夜目さん。君は……吸血鬼だね?」
「――なるほどね、敵って訳?」
彼女の手が、スポーツバッグへと突き入れられ、すっかり見慣れた凶器を取り出す。
大ぶりな裁ちばさみが。
ジャキンと、鳴った。
ああ、懐かしさすら感じる。
既視感が、むしろ心地よい。
「どこで聞いてきたの、そんな世迷い言」
「推理したのはぼくだ。けれど、打ち明けてくれたのは君だ」
「はぁ?」
「君は、いろいろなことを教えてくれた」
吸血衝動のこと。
栄養ではなくエナジーを摂取すべきこと。
朝日に強い、古いタイプの吸血鬼であること。
「最近はこんな話も聞いた。ぼくらの再生能力は、変化したものが元に戻るタイプだ。けれど、その塩梅はかなり適当で、大きな破壊がないと再生がはじまらないパターンもある。たとえば爪がもげても」
ぼくは、自らの小指の爪、思いっきり引きちぎる。
「おまえっ」
「……こんな風に、すぐには再生が行われなかったりする」
ポタポタと滴る赤い血液。
美叶木さんの喉が、ゴクリと鳴った。
慌てたように、彼女は口を押さえ、一歩後じさる。
ありえないと、頭を振って。
「私に、吸血衝動なんて」
「ずっと我慢してきたと、君は言っていた」
「話した覚えもないことをべらべらと……おまえ、私の何を知って……」
こちらに突きつけられる裁ちばさみ。
けれど、少しも怖くはない。
刃先は震え、今にも地に落ちそうだ。
彼女はどこまでも揺れ動いており、不安定で。
「っ!」
言葉にならない声を吐き出し、彼女がきびすを返した。
猛然とした勢いで、吸血鬼の脚力で、美叶木さんは逃げ去ってしまう。
……追いかけることは出来た。
けれど、ぼくはその場にへたり込んでしまう。
「……なにをやってるんだぼくは……」
落ち込む。
打ちひしがれる。
どうにもならない。
何も解決できない。
状況は悪化している。
ぼくはまるで、いや、まるっきり不審者だ。
話をしたいと思ったにもかかわらず、相手を怖がらせてどうする?
「……違う。まだだ」
まだ諦めるな、鶴屋恩義。
自分に言い聞かせ、心を奮い立たせ。
出来ることはあるはずだからと、ぼくは立ち上がる。
彼女の記憶を取り戻せなくてもいい。
ただ、もう一度、今度こそ、ちゃんと向き合いたい。
いまさら再生をはじめた小指を握りしめながら、帰途につく。
なんの成果も得られないまま。
また今日の夜も、美叶木夜目の記憶は消えていくのだと、悔しさに奥歯を噛みしめながら。
§§
「ちょっと、顔を貸して」
翌朝。
登校したぼくを待っていたのは、美叶木さんのそんな言葉だった。
当惑するぼくへ、彼女はポケットからあるものを取りだし、こう訊ねた。
「ひょっとしておまえ、これと同じもの、持ってる?」
それは、紛うことなき約束の証。
彼女がぼくへくれた、あのビー玉だった。




