第四章 船堀街道の空白
あの夜、何度かけても出なかった電話は、翌朝、逆に三好の下宿にかかってきた。
「三好さん? どうしたんですか、こんな朝早くに何度も」
翠の声を聞いた瞬間、三好は詰めていた息を、ようやく吐き出した。
「……無事だったのか」
「無事も何も。昨日は資料館に行った帰りに、友達の家に寄ってたんです。電話に気づかなくて」
「そうか」
三好は目を閉じた。安堵と同時に、自分がどれほど過敏になっていたかを思い知らされた。工作員としての勘は、翠に対しては、常に最悪の想像を呼び起こしてしまう。
「なんだか、声が変ですよ。何かあったんですか」
「……いや。ちょっと、仕事で嫌なことがあってな」
「そうですか。それより聞いてください、また新しい手がかりが見つかったかもしれないんです」
「手がかり?」
「船堀の方に、祖父が運んでいたっていう場所の候補地が、もう一箇所あったみたいで。今度の休み、一緒に見に行きませんか」
三好は少し迷ってから、答えた。
「……分かった。付き合うよ」
だが心の中では、昨夜の担当官の言葉が、重く尾を引いていた。
(奴らは、もう翠に気づいている。それでも、俺は彼女を止められない)
翌週、翠に導かれて三好は江戸川区、船堀街道沿いのある場所を訪れた。
「ここに、何かがあったはずなんです」
翠はそう言ったが、目の前には区画整理された広い道路と、真新しい下水施設があるだけだった。
「……何もないな」
「そんな。祖父の手帳では、確かにこの座標のはずなんです」
三好は雨に濡れたアスファルトを見つめた。
「都市開発ってのは、そういうものだ。証拠ごと、全部塗り固めちまう」
「詳しいんですね、そういうこと」
翠が何気なく言った一言に、三好はどきりとした。
「……仕事柄、少しな」
「経理の仕事で、そんなことまで分かるんですか」
「まあ、色々とな」
三好は目を逸らした。翠はそれ以上追及しなかったが、その何気ない疑問が、三好の胸に小さな棘のように残った。
「諦めるんですか」
「諦めるしかないのかもな」
翠は首を横に振った。
「まだです。区の公文書館に、当時の払い下げの記録が残ってるかもしれません」
「翠、いい加減に」
「三好さんは待っててください。私が調べます」
数日後、彼女は興奮した様子で喫茶店に駆け込んできた。
「見つけました、三好さん!」
差し出された書類を見て、三好の顔が固まった。
「これは……」
「土地の払い下げの記録です。名義人のところ、見てください」
書類にあったのは、三好桐子という名前だった。
「嘘だ……」
「三好さん?」
「これは……母の名だ」
——二十数年間、信じてきた「守られていた息子」という物語が、この一枚の紙切れで、音を立てて崩れ始めていた。




