第二章 甘美な罠と、祖父の遺品
数日後、三好の下宿に電話が入った。受話器の向こうで、翠の声は珍しく興奮していた。
「三好さん、聞いてください」
「どうした」
「うちの祖父の遺品、覚えてますか。前に話した、古い手帳」
「ああ、土木工事だとかいう、あれか」
「そうです。あの手帳に、三好さんが前に言ってた地名と同じところが載ってたんです」
三好は受話器を握る手に、思わず力を込めた。
「……本当か」
「はい。しかも、こう書いてあるんです。『あそこには、二度と戻るな』って」
「戻るな……」
「怖い書き方ですよね。でも、これ、絶対に何か関係あると思うんです」
「翠、それ以上は」
「大丈夫です、私、うまくやりますから。三好さんの力になりたいんです」
三好はしばらく黙っていた。
「……なぜ、そこまでする」
「なぜって」
翠は電話の向こうで、少し困ったように笑ったようだった。
「三好さんが、ずっと苦しそうな顔をしてるからです。それだけです」
その言葉に、三好は何も返せなかった。
翌日、翠は喫茶店に手帳を持ってきた。三好はそれを震える手でめくった。
「これは……」
「祖父の字、汚くてすみません。でも、この座標、三好さんが伯父さんから聞いてた場所と、だいたい同じですよね」
「ああ。信じられないくらい、近い」
翠はふと、三好の顔を覗き込んだ。
「そういえば、三好さんの背中の入れ墨って、結局どういう意味なんですか。前にちらっと見せてもらったとき、なんだか地図みたいだなって思ったんですけど」
三好は苦笑した。
「意味なんて、俺にも分からないさ。物心ついたときからあった。母がそれを彫らせたんだ、とだけ聞かされてる」
「変わった模様でしたよね。線がやたら多くて」
「ああ、それは」
三好は少し言いよどんでから、続けた。
「その線、半分くらいは、俺が後になって足したものなんだ」
「え?」
「二十代の頃、この模様が気味悪がられるのが嫌でな。銭湯だ、健康診断だってたびに、じろじろ見られるのが耐えられなかった。それで、行きつけの彫師に、『それらしい図案に見えるように、線を足してくれ』って頼んだんだ」
「そんなこと、できるんですか」
「彫師も、意味の分からない模様だったからな。深く聞かれもせず、適当に線を足して、点と点を繋いでくれた。俺にとっては、ただの見栄えの問題だった」
翠は少し驚いたような顔をした。
「じゃあ、今の模様は、元々の形とは違うんですか」
「かもな。もう自分でも、どこが元々の線で、どこが俺が足した線か、はっきり分からない」
三好はそう言って、自嘲するように笑った。
「くだらない話だろう。二十代の若造の見栄なんて」
「くだらなくなんかないです」
翠は真顔でそう言った。
「三好さんなりの、生きるための工夫だったんですよね」
三好はその言葉に、何も返せなかった。ふと、彼の中で何かが緩んだ。目の前のこの娘に、いっそすべてを話してしまいたい——そんな衝動が、不意に込み上げてきた。
「翠。実は、俺の仕事のことなんだが」
「はい?」
「貿易会社の経理係だってのは、半分は嘘なんだ。本当は——」
言いかけて、三好は口をつぐんだ。
「本当は?」
「……いや、何でもない。忘れてくれ」
翠は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
「変な三好さん。まあ、いつか話したくなったら、聞きますから」
三好は曖昧に頷いた。だが心の中では、自分を戒めていた。工作員としての身分を明かすことは、翠を今よりもさらに深く、危険な渦の中に引きずり込むことに他ならない。母のことを話すだけでも、すでに十分すぎるほど彼女を巻き込んでしまっている。これ以上は——。
「じゃあ、私、もう少し調べてみます。区の公文書館とか、行けば何か出てくるかもしれません」
「危ない、って前にも言っただろう」
「三好さんこそ、危ないって言いながら、本当は誰かに手伝ってほしいんじゃないですか」
図星だった。三好は苦笑するしかなかった。
——このとき三好が飲み込んだ一言が、後にどれほど重い意味を持つことになるか、彼自身まだ分かっていない。そして、二人はまだ気づいていない。翠の何気ない一本の電話が、すでに何者かに聞かれていたことを。




