第一章 ガード下の影と、母の亡霊
砂の陰影
——昭和六十年、晩秋——
第一章 ガード下の影と、母の亡霊
有楽町のガード下は、いつも同じ匂いがした。焼けた油と、煤と、電車が通るたびに震える鉄骨の錆の匂い。霧雨がその全部を湿らせて、街灯の下で細かい光の粒になって舞っていた。世の中は地価の高騰と株価の急伸に浮かれ始めていたが、このガード下だけは、戦後の匂いをまだ色濃く残していた。
三好は喫茶店の隅の席で、冷めたコーヒーをスプーンでかき混ぜていた。表のガラスには彼自身の顔が映っている。三十を少し過ぎた、疲れた顔だ。だが、この顔も、この名前でさえ、彼にとっては借り物だった。
三好という名は、本来の戸籍上の名ではない。彼はある情報機関の下部組織に属する、非公式の工作員だった。表向きは平凡な貿易会社の経理係として働きながら、月に数度、指定された場所で接触係と落ち合い、指令を受け取る。誰かの動向を探ること、書類を運ぶこと、時には誰かの過去を洗い出すこと。それが彼の本当の仕事だった。
そして、その彼自身がずっと調べ続けている案件が一つだけあった。それは、彼自身の背中に刻まれた、意味の分からない入れ墨のことだ。線と点と、記号のようなものが皮膚に刻まれ、まるで古い地図のように見えた。物心ついた頃からそこにあった。母がそれを彫らせたのだと、養父からだけ聞かされていた。
「お前を守るためだ」
養父はいつもそう言った。母は三好が幼い頃に姿を消した。何かから逃げるように、あるいは何かを守るように。三好はその言葉にしがみついて生きてきた。母は自分を守るために消えたのだ、と。そう思わなければ、二十数年という歳月に意味がなくなってしまう。
皮肉なことに、彼がこの世界に足を踏み入れたのも、母を捜すためだった。情報を扱う組織に潜り込めば、いつか母の足跡にたどり着けるかもしれない——若い頃の三好は、そう考えていた。だが十年近く経った今も、確かな手がかりは一つも掴めずにいた。
「三好さん、また来たんですね」
カウンターから声をかけてきたのは、この店で働く娘だった。名を翠という。年は二十二、三というところか。化粧気のない顔に、どこか作り物めいた汚れのない笑みを浮かべている。
「暇なんだよ、休みの日は」
「今日も、お母様のこと、調べてらしたんですか」
三好は曖昧に頷いた。母を捜していることだけは、彼が唯一、翠に明かしていた自分の事情だった。それ以外のすべて——彼の本当の仕事、本当の名前——は、深い霧の向こうに隠されたままだった。
「見つかりっこないんだがな。もう二十年以上前の話だ」
「そんなことないです。私、手伝います」
「お前が手伝うような話じゃない」
「どうしてですか」
「危ないからだ」
翠は少し首を傾げた。
「危ないって、どういうことですか。お母様を捜すだけなのに」
三好は答えに詰まった。
「……さあな。そんな気がするだけだ」
「変な三好さん」
翠はそう言って笑った。その笑い方には、迷いのかけらもなかった。組織の中で生きる彼にとって、これほど純粋な善意は、もはや異物のようなものだった。
半年前、二人が初めて言葉を交わした夜のことを、三好はふと思い出していた。裏路地で、翠が見知らぬ男に絡まれていた。
「やめてください……!」
三好が声をかけたとき、男はこう凄んだ。
「関係ないだろう、お前には」
「関係ないが、見ちまったからな」
それだけで、男は毒気を抜かれたように去っていった——実際には、三好は任務の接触先へ向かう途中で、組織の人間として鍛えられた反射的な動きで男の腕を制していたに過ぎなかった。翠はそのことに気づいていない。あのとき彼女は、震えながらもこう言ったのだった。
「……はい。ありがとうございます」
そして頭を上げたその目には、恐怖よりも強い好奇の色が浮かんでいた。
「三好さんって、いつも何を考えて歩いてるんですか。さっきから、遠くを見てるみたいな顔をされてて」
「人捜しをしていてね」
「誰を捜してるんですか」
「母親だ。もう二十年以上会っていない」
「見つかるといいですね」
その素っ気なさが、三好の胸に染みた。
現在に戻って、三好は席を立ちながら翠に言った。
「じゃあな。今度こそ、あんまり首を突っ込むなよ」
「はーい」
翠は明るくそう答えたが、三好にはその返事が、いかにも聞き流すためだけの返事だと分かっていた。
——だが三好は、まだ知らない。この「はーい」が、彼女なりの覚悟の返事だったことを。翠は、もう動き始めていた。




