第五話 大迷宮ネスヴィラ
「……ふぅ。まだ小さいけど、ちゃんと出せるようになったな」
掌に灯る炎を見つめ、セリアはほっと息を吐いた。
だがすぐに、ラグルスの冷酷な声が響く。
《満足するには早すぎるぞ。その程度では料理か松明替わりにしかならぬ》
「また始まったよ……」
肩を落としながら炎を揺らしてみる。
「……あれ? そういえば、熱いのに……痛くない」
炎は確かに熱を帯びている。だがそれは肌を焼く灼熱ではなく、優しい温もりだった。
《当然だ。お前は炎を司る者。その炎は外敵を焼き尽くすが、己を傷つけはしない。己の炎に呑まれるようでは、神とは呼べぬ》
「……そりゃそうだな。自分で出した炎で焼けました、なんて笑えないし」
冗談めかしつつも心に安堵が広がる。
だが、その安堵を打ち消すようにラグルスの声が続いた。
《だが、その炎を自在に操れなければ、この洞窟から出ることは叶わん》
「自在って……言うのは簡単だろ!」
セリアが声を荒げると、炎は不安定に揺らぎ、そして――消えた。
「あっ……」
失敗に肩を落とすセリア。その耳へ、嫌味が突き刺さる。
《……やはり百年はかかるかもしれんな》
苛立ちを飲み込みながら、セリアは話題を変える。
「なぁ、そもそもこの洞窟ってなんなんだ? 炎を操れないと脱出できないって、どういうことなんだよ」
食事を確保できるようになり、わずかに余裕が生まれた今だからこそ、自分が置かれた環境が気になって仕方がなかった。
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《……そうだな。まず、この洞窟――正確には『大迷宮ネスヴィラ』と呼ばれていたものだ》
「大迷宮……?」
大げさな名前に、セリアは思わず眉をひそめる。
《これは我がここに封じられる、はるか昔から存在していた》
《その広さは、一つの王国の地下を丸ごと掘り抜いたほど。幾千もの分岐、幾万の階層、そして無数の魔物が巣くう、正真正銘の地獄――》
「……呼ばれていた、って。今は違うのかよ」
《それは不明だ。我がここに封じられてから千七百三一年と百六八日が経過している。その時代の名を述べているにすぎん》
「千七百年……」
思わず背筋が冷える。
(そんな長い間、「わたし」を探していたのか……)
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「……で、この大迷宮が広いからってだけで、百年かかるわけじゃないんだろ?」
《勿論だ。それは要因の一つにすぎん。脱出を阻む理由は二つある》
《一つは魔物だ。お前が倒した大ムカデは最下層にすぎぬ。ここには想像を絶する怪物が無数に潜む。そして――その頂点に立つのが『魔人ネスヴィラ』。この迷宮の名の由来そのものだ》
名前を聞いた瞬間、冷たい戦慄が背筋を這った。
(魔人ネスヴィラ……? 聞いたこともないけど、響きだけでやばそうだ……)
《奴は、長き年月を経て力と知恵を得た魔物、『魔族』の一人。その圧倒的な暴力の前に、多くは戦う前に武器を手放し、死を受け入れる》
セリアの喉がひゅっと鳴った。
「……だから炎を操れるようになって力をつけないと、戦う前に終わるってことか」
《その通りだ。今のままなら、出会った瞬間に塵と化す》
セリアはごくりと唾を飲み下す。
「……でも、力をつける前に襲ってくるなんてことは、ないのか?」
《無論、絶対はない。だが、その可能性は低い》
安心させる言葉を期待したが、返ってきたのは薄氷のような答えだった。
《まず、この場所は奴から遠く、弱き魔物の生息域だ。強大なものに出会う確率は低い》
《そして、ネスヴィラは迷宮のすべてを己の所有物と見なす。ゆえに内部にいる限りは、むしろ庇護に近い。だが――》
《奴は所有物が外に出ることを決して許さぬ。脱出の瞬間、必ずお前の前に立ちはだかるだろう》
「つまり、いつか絶対に戦うってことか……」
安堵と不安が入り混じる。だが聞かねばならない。
「二つってことは……もう一つは?」
《二つ目は、封印だ》
ラグルスの声が低く響き渡る。
《迷宮の出口には『奴』が施した神の封印がある。力では破れぬ。触れた瞬間、己の魂と向き合わされる》
「魂……?」
《己を解せぬ者は、封印に絡め取られ、永遠に出口の前を彷徨う亡霊と化す。死すら許されず、ただ迷い続けるのだ》
ぞっとしてセリアは胸を押さえた。
(記憶のない私が、自分を理解できるのか……?)
《……だからこそ鍛えねばならぬ》
《記憶がなくとも、今ここにいる『セリア』こそ真実。過去の記憶ではなく、魂の在り方が答えとなる》
「魂の、在り方……」
セリアは剣槍を見下ろす。
あの武器も炎も、自分の魂が形を成したもの――なら、自分は空っぽなんかじゃない。
《力だけでは足りぬ。心もまた鍛えろ。さもなくば封印は決して開かぬ》
洞窟の闇は深く、先は見えない。
ネスヴィラも、封印も、今のセリアには遠すぎる話だった。




