第四話 最初の炎
洞窟の床に横たわる巨大ムカデの死骸から、鉄錆のような臭気が立ちこめていた。
赤黒い体液はまだ熱を帯び、じわじわと岩肌に染みを広げていく。
ぬめりを帯びた脚は痙攣し、カサ、カサと乾いた音を立てていた。
セリアは剣槍を杖のように突き立て、肩で荒く息をしながらその死骸を見下ろした。
「これが、魔物……」
全身は震え、勝利の実感はあるのに、喉の奥はカラカラに渇いていた。
同時に、吐き気で胃が縮み上がり、唇を噛むだけで精一杯だった。
《――食え》
唐突にラグルスの声が響いた。
「……は?」
《それは食料だ。血も肉も、お前を生かす糧となる》
セリアは本能的に一歩退いた。
目の前の死骸はあまりに生々しく、体液の臭気が鼻孔を刺す。
「これを、食べろって?」
喉の奥が反射的に拒絶する。口に入れる以前に、この臭気だけで嘔吐しそうだった。
《嫌なら餓死することになる。選択肢はない》
冷酷な宣告に、胸が凍る。
だが――
「待ってくれよ! ……そうだ、火! せめて焼いたりできないか!?」
生き延びるためなら仕方ないと頭では理解している。
それでも、このまま食らう未来だけは受け入れられなかった。
苦し紛れの提案が口を突いた。
《……火、か。ふむ、丁度良いかもしれんな》
「丁度いい……? まさか火があるのか!?」
思わず声が裏返る。だが返ってきた答えは――
《用意があるわけではない。だが、お前の力は『炎』。訓練さえ積めば、肉を焼く程度は容易いはずだ》
(また訓練かよ……)
心の中で毒づく。
だが、生で食わずに済む選択肢があることに、安堵が勝っていた。
「焼いて食べられるなら、やるさ。……で? どうやるんだ? 具体的に頼むぞ」
神器の時を思い出し、あらかじめ釘を刺す。
《……ここにいてはまた魔物が来る。元の場所に戻るぞ。それも忘れずにな》
ラグルスの声は不満げだったが、セリアもこの場で再び襲われるのは御免だった。
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「重っ……くっそ!」
ずるずると、三、四メートルはある死骸を引きずる。
ただでさえ戦闘で体力を削られた体には酷すぎる重労働だった。
「ぜぇ、ぜぇ……っ。やっと、ついた……!」
死骸を岩床に放り投げ、全身で呼吸を繰り返す。膝は笑い、肺は息をするたび痛んだ。
《その程度の距離で時間をかけすぎだ。……まぁよい。では訓練だ》
「おいおい! せめて休憩させてくれよ!」
声を荒げるが、返ってきたのは冷酷な言葉だった。
《そのムカデ、時を置けば腐る。もっとも、腐った肉が好みなら好きに休むといい》
「誰がそんなもん食うか!」
思わず剣槍を振り上げる。
頭の奥で、ラグルスの嘲りがくぐもった笑いとなって響いた。
《ならば立て。お前に必要なのは休息ではなく――炎だ》
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《まずは、その神器を体内へ戻せ。出したときと逆の手順だと思え》
「……はっ!」
――シュン
剣槍が淡い光となって胸の奥へ戻っていく。魂の一部が肉体に還る感覚に、セリアは思わず胸を押さえた。
《できたな。ではここからが本番だ。想像しろ――お前は炎の友。我がそう創った。火を生み、操るのは呼吸と同じことだ》
「炎……」
赤を思い描く。薪が爆ぜる音、火花が散る光景。
前世の残滓を必死にかき集め、両手に熱を意識する。
《想像できたなら、次は実際に出せ。両の手から炎を》
「炎、炎……!」
念じる。だが――
「……っ、出ない!」
掌には微かな温もりがあるだけだった。
焦るな。お前ができて当然と信じ切れていないからだ。炎を操ることは呼吸と同じ――そう思い込め》
セリアは目を閉じ、呼吸を整える。
炎を灯す自分を、当たり前であると想像する。
(できる……。私にはできる……!)
温もりが形を持ち始める。
「――出ろっ!」
叫んだ瞬間、掌の前でぱちりと火花が弾けた。
一瞬で消えた小さな火種。
だが確かにそこに、炎が生まれた。
「見えた……! 今の、炎……!」
胸が震える。それは、自分だけの力で生んだものだった。
《初めにしては悪くない。次は炎を絶やさぬことだ》
セリアは両手を前に出し、再び集中した。
息を吸い、呼吸に合わせて心の奥に灯る熱を押し出す。
――ボゥ
今度は掌に小さな炎が宿り、揺らめいた。
オレンジ色の光が洞窟を照らし、岩壁に赤い影を踊らせる。
「やった……! 出た……!」
手は熱く、汗で濡れていたが、その炎はセリアの意思に従って燃えていた。
《まだ小さい。だが食事には十分だろう。さあ、焼いてみろ》
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セリアは顔をしかめながら、剣槍でムカデの甲殻を割り、肉を抉り出した。
粘つく体液が滴り落ち、鼻を突く悪臭が漂う。
「……うぇっ。これ、本当に食えるのか……?」
《味を求めるな。生きるための糧と心得よ》
掌の炎を近づける。
じゅっ、と音を立てて肉が焼け、焦げた匂いが悪臭を押しのけて広がる。
セリアは震える手で肉を口に運んだ。
「っ……!」
噛んだ瞬間、強烈な苦みと土臭さが広がる。
だが、火を通したおかげで吐き出すほどではなかった。
「まずい。けど、食える……!」
涙目になりながらも飲み込む。
喉を通った瞬間、全身に微かな活力が満ちていく。
《……これで餓死の心配は減ったな》
「……減ったって言い方やめろ」
セリアは力なく笑いながらも、この不味いはずの食事に小さな達成感を感じていた。




