第四十二話 本物の炎
一瞬、森の外れに重たい沈黙が落ちた。
先に口を開いたのは、セキトだった。
「……なんだ、お前は」
金火猫が消えた前方で、セキトが目を細める。
レティシエラの横に立つ紅髪の少女――セリアを、上から下まで値踏みするように眺めた。
「見たところ、人間だよな」
「そう見えるなら、その通りだろ」
セリアは、肩の力を抜いたまま答えた。
その前で、レティシエラが苦しげにセリアを見上げる。
「……セリア、さん。ここは、危険です。逃げて――」
「喋らなくていい。ここは任せろ」
セリアは短く言って、レティシエラのほうをちらりと見る。
「人間が、劣等種を庇う、ねぇ」
セキトが鼻で笑う。
「お前、状況分かってるか? そいつは反乱の芽だぞ」
そのとき、セキトの背後にいた聖衛隊のひとりが、はっと顔を上げた。
「隊長、その女……見た覚えがあります」
後ろの聖衛隊員のひとりが、セリアをじろじろと眺めながら口を挟む。
二十代半ばほどの、短髪の男だ。
「この女、どっかで見た顔だと思ったら……陽だまり亭の看板娘ですね。最近街では有名みたいですよ」
セリアは一瞬だけ目を細め、その男に視線を向けた。
「へぇ。あんた、陽だまり亭で飯食ってたんだ」
「はい。おかげで仕事も捗りますよ。腹が満ちていれば、劣等種を狩る力も出る」
短髪の男は愉快そうに笑う。
「安心していいですよ、お嬢さん。城壁の中で大人しくしてる人間相手に、俺たちは手荒な真似はしませんから」
「……そうか」
セリアは低く呟く。
「あんたらは、きっと正しいんだろうな。この世界ではそうするのが当たり前だもんな」
セリアは、ゆっくりと前に出た。
レティシエラと聖衛隊のあいだに、ぴたりと立ちはだかる形になる。
「勘違いしないでくれよ」
セリアは静かな声で言った。
「わたしは別に、劣等種が可哀想とか、みんな仲良くとか、そんな綺麗ごとを言うつもりはない」
「ただ――あんたらが、わたしの友達を笑って傷つけるのが、心底気に食わないだけだ」
「……ほう」
聖衛隊員たちの表情が、露骨に変わる。
さっきまで守るべき対象として見ていた人間が、自分たちに啖呵を切っている。
「隊長。こいつ、随分と口が悪いな」
もう一人の聖衛隊員――三十代半ばの無精髭の男が短く反応する。
「そうですねぇ。人間だからって、見逃してもらえると思ってるんじゃないですかね」
短髪の男もそれに同調するように答える。
それを受けセキトは短く笑うと、レティシエラではなく、セリアのほうへと視線をずらした。
「せっかくのいい女だ。守ってやる価値もあるかと思ったが――」
そして、面倒そうに指を鳴らす。
「おい、お前ら」
「顔と身体には傷つけるな。大人しくさせて、手足を縛れ。あとでゆっくり話を聞いてやる」
無精髭の男がにやりと笑い、短髪の男も薄く笑みを浮かべた。
「了解しましたよ、隊長」
「嬢ちゃん、悪いな。劣等種なんかの味方をするからだ」
二人が左右からじりじりと距離を詰めてくる。
レティシエラの息が、一瞬だけ荒くなった。
「セリアさん……逃げて……」
「心配ないさ」
セリアは、レティシエラから目を離さぬまま小さく笑った。
「わたしは、レティシエラが思ってるよりずっと強いよ」
セリアは右手を、軽く横に払う。
空気の中に、小さな光が灯った。
ぽっと生まれたそれは、瞬く間に大きさを増し、熱と光を纏いながら一本の線を描いて伸びていく。
現れたのは――剣槍クライゲラク。セリアが迷宮で生死をともにした、もう一つの相棒。
「これは……」
レティシエラがかすれた声を漏らす。
聖衛隊員たちも、一瞬だけ動きを止めた。
「まさか、神器――」
無精髭の男が目を見開いて驚く。
しかし――
言い終わるより早く、セリアの姿がふっと掻き消えた。
低い姿勢のまま懐へ滑り込み、クライゲラクの切っ先が無精髭の鎧の隙間、脇の下から心臓へと一息に突き上げられる。
「……あ?」
男の口から、間の抜けた声が漏れた。
次の瞬間、背中から刃が飛び出し、血がどっと吹き出す。
「が、は……っ」
セリアは表情一つ変えずに刃を引き抜き、倒れかけた身体を蹴るようにして横へ転がした。
「な――!」
もう一人の聖衛隊員が、慌てて一歩退く。
「この……!」
短髪の男は怒りに顔を歪め、左腕を前に突き出した。
その腕には金属製の手甲がはめられている。
「――鉄腕」
呟いた瞬間、手甲の金属が不自然に膨れ上がる。
指は太く伸び、鋼の塊が節くれだった巨大な握り拳の形を成していく。
「逃げられると思うなよ!」
鉄の巨拳が、地面を抉りながらセリアへ迫る。
しかし、セリアはその場から動かなかった。
ただわずかに体の向きを変え、迫る鉄の拳に合わせてクライゲラクを横から振り抜く。
瞬間、鈍い手応えと共に、巨拳が真横に裂かれた。
「なっ――」
鉄の塊が、紙のように両断される。
切断面から飛び散った金属片が、周囲の木々に刺さった。
「お、おい……!」
短髪の男が目を見開いたときには、セリアはすでに距離を詰めていた。
「悪いが、待ったは無しだ」
低く言い、腹部めがけて柄尻を叩き込む。
鎧越しでも肺の空気が全部抜けるほどの衝撃が走り、男の身体がくの字に曲がった。
そのまま、掬い上げたクライゲラクの刃が、首筋をなぞる。
鮮血の弧が、森の空気に散った。
「次」
クライゲラクの刃先を、セリアはまっすぐセキトへ向けた。
「お前の番だ」
セキトは、さすがに眉をひそめた。
「……まさか神器を使えるとはな」
それでも、完全に余裕を失ったわけではない。
口元にはまだ、薄い笑みが残っている。
「面白ぇ」
セキトは、一歩前へ出た。
「雑魚二人を倒すのは想定外だったが……だからって、調子に乗るなよ」
そう言うと、彼は手に持っていた剣を地面に捨て右手をゆっくりと掲げた。
「見せてやるよ。――『本物の力』ってやつを」
空気が、ぴんと張り詰める。
次の瞬間、右手の手甲から黒い金属の爪が伸び出す。
一本一本が一メートル近い長さを持つ、巨大な鉤爪。
それが、手甲と一体化するようにセキトの腕に食い込んだ。
「神器、ガルモア」
セキトは、それを軽く振ってみせる。
鋭い音が空気を裂いた。
「それだけじゃねぇ」
今度は左手を持ち上げる。
普通の金属製の手甲。だが、その表面には薄く油が塗られているのが見て取れた。
セキトは右の鉤爪を、その左手の甲にぎり、と押し当てる。
「――燃えろ」
ギギギ、と金属同士が擦れ合う音。
次の瞬間、火花が散り、左の手甲から勢いよく炎が噴き上がった。
炎は蛇のように右腕へ絡みつき、ガルモアの鉤爪一本一本を包み込んでいく。
「炎のフィアスか」
セリアが目を細める。
「そうだ。お前も同じだろ?さっきはちんけな猫を出してたな」
セキトは笑う。
「だが、あんな子供騙しとは違う。本物の炎を見せてやる」
燃え盛る鉤爪を広げ、セキトが地面を蹴った。
一瞬で距離が詰まる。
「……」
セリアは冷たい表情でその一撃を受け止める。
炎をまとった鉤爪と剣槍がぶつかり合い、轟音とともに火花が四方に散る。
続けざまに振るわれる斬撃。
セリアは身体をひねり、刃をいなし、時に受け止めながら後退する。
「ほう。ついてくるか」
セキトが口元だけで笑った。
「じゃあ、これはどうだ」
セキトは一歩引き、身体を低く構える。
ガルモアの鉤爪が横一文字に振り抜かれた。
「紅爪衝!」
鉤爪にまとわりついていた炎が、
振り抜かれた軌道に沿って、刃の形を保ったまま空間を飛んだ。
轟音とともにセリアへと襲いかかる。避ける暇はない。
「セリアさん!」
レティシエラが悲鳴を上げる。
炎の爪が、セリアの身体を包み込んだ。土が抉れ、熱風が周囲に吹き荒れる。
レティシエラの視界が白く染まった。
「……っ!」
熱と煙がしばらくその場を覆い尽くし――やがて、ゆっくりと晴れていく。
焦げた土と、黒く焼けた草。
その中心に、少女の影が立っていた。
「なっ……」
セキトの目が見開かれる。
セリアは、変わらずそこにいた。
服はところどころ焦げ、ほつれている。
だが、露出した肌には、傷一つ、火傷一つついていない。
「……今のが、『本物』ねぇ」
セリアは自分の腕を一瞥し、軽く手首を回してみせた。
「派手ではあったけどさ」
金色の瞳が、静かな冷たさを帯びる。
「正直、期待外れだ」
「馬鹿な……まともに食らったはずだ……!」
セキトが歯噛みする。
「なあ、相棒。もう誤魔化さなくても良いよな?」
《……逃がしはするなよ》
その返答に、セリアは口の端をわずかに上げた。
「――纏」
次の瞬間、クライゲラクは炎を纏い、やがてその姿を変貌させていく。
透き通る硬質の炎が刃から柄へと走り抜け、剣槍全体を赤い結晶の鎧のように覆い尽くす。
「なっ、纏だと……?」
セキトが目を剥いた。
「馬鹿な。そんな芸当、七柱くらいしか……」
一瞬、セキトの瞳に困惑の色が浮かぶ。
だがすぐにかき消すように歯を食いしばり、鉤爪を握り直した。
「はっ!真似事に決まってる!たかが定食屋の給仕ごときが――」
言いかけたセキトの言葉を、さらに異様な光景が奪う。
セリアの足元から、今度は彼女自身を包む炎が立ち上がる。
赤橙の光は金を溶かしたように滑らかに流れ、肩から胸元をなぞる炎紋は、鼓動に合わせて規則的に脈動する。
細く編み込まれた炎が身体の曲線を包み、腰から裾にかけて紅蓮の布が広がった。
炎衣――不知火。
「なっ……なんだ、その姿は……!」
セキトが、ほんのわずか後ずさる。
「フィアスじゃねぇ。もっと……」
「お前、さっき言ってただろ」
セリアは、静かに歩み出た。
「『本物の炎』を見せてやるって。どうした、もう終わりなのか?」
「ふざけるなっ!」
セキトが吠える。
炎を纏ったガルモアが、再びセリアへ襲いかかった。
鉤爪が、真正面からセリアの身体を薙ぐ。
炎と爪が、不知火と激突した。
――だが
不知火は、セキトの炎をまるで飲み込むようにして、傷一つ負わない。
鉤爪が触れた部分で、炎が逆流するように弾け、セキト自身の周囲に小さな爆ぜる火花が散る。
「ぐっ……何だ、これは……!」
セキトの顔から、余裕が完全に消える。
続けざまに放たれる斬撃も、突きも、炎も――
全てが不知火の炎に触れた瞬間、その勢いを失って霧散していく。
セリアは一歩も引かない。
ただ、まっすぐにセキトへ歩み寄りながら、その攻撃を受けていた。
「それで終わりか」
クライゲラクの結晶炎が、静かに明滅する。
「お前が言った本物の炎は、その程度か」
「黙れぇっ!」
セキトが最後の力を込めて鉤爪を振り下ろした、その瞬間――
セリアの姿がふっと揺らめいた。
次にセキトがセリアを認識したときには、彼女はすでに懐のど真ん中にいた。
「じゃあ、今度はこっちの番だ」
低く告げ、クライゲラクの柄で、セキトの腹を下からすくい上げる。
「『纏』もできないくせに、神器に名前を付けるな」
鈍い音と共に、セキトの体が軽々と宙へ舞った。
「が、あっ……!」
セキトの身体が空中で無防備に晒される。
セリアは一歩下がり、深く腰を落とした。
クライゲラクを振りかぶり、投擲の構えを取る。
剣槍の周りに紅蓮が渦を巻き、灼熱の輝きを放つ。
「――終わりだ」
次の瞬間、クライゲラクが空を裂いた。
紅蓮の尾を引きながら飛翔する剣槍は、炎の矢と化してセキトの胸元を貫いた。
瞬間、轟音が爆ぜる。
ガルモアごと、セキトの身体が内側から炎に呑まれる。
「が、ああああああああっ――!」
悲鳴は、爆炎の中にかき消えた。
紅蓮の柱が天へ伸び、周囲の大気を震わせる。
しばらくして炎が収まったとき、そこにセキトの姿はなかった。
焦げた金属片と黒く焼けた土だけが、その場所に残されている。
クライゲラクは、いつの間にかセリアの手の中に収まっていた。
焦げた匂いの残る風の中で、セリアだけが、静かに立っていた。
不知火の炎衣はまだ彼女の身体を包み、結晶炎を纏ったクライゲラクが静かに光を返している。
レティシエラは、その姿から目を離せなかった。
――聞かされてきた神々とは、似ても似つかないはずなのに。
紅の髪も、炎をまとうその輪郭も、ミリラーネから幾度となく語られた神々の姿と異なるはずなのに。
何故だか、するりと重なって見えた。
胸の奥が、熱いのか、痛いのか、自分でもわからない。
ただレティシエラは、紅く揺れるその横顔から、一瞬たりとも視線を逸らすことができなかった。




