第四十一話 セキト
リレンヌの城壁の外、森の外れ。
以前、背骨狼の巣を潰しに来た場所から、そう遠くない位置。
そこに、血と土で汚れたレティシエラの姿があった。
髪は泥と血で乱れ、服はあちこち裂けている。
左腕は力なく垂れ下がり、片膝を地についたまま、苦しげに息を吸っていた。
その前に立つのは、エルフの青年リカルド。
以前と同じ細身のシルエットだが、その瞳には、もはや柔らかさの欠片もない。
その背後には、白銀の鎧を着た人間の男が三人。
そのうち一人、赤茶けた髪を後ろでまとめた男が退屈そうに腕を組んで事の成り行きを眺めていた。
獣人の少年を迷いなく蹴り飛ばした、あの男――セキトだ。
「リカルド……どうして」
レティシエラはかすれた声で問うた。
喉の奥に血の味が広がる。
「どうして、裏切ったのです」
「裏切った……?」
リカルドは、口の端だけで笑った。
「最初から、俺とお前は同じ方向を見ていたわけじゃないさ、レティシエラ」
その声には、かつて補佐として静かに支えていた頃の柔らかさはない。
「お前はずっと、立派な『レティシエラ様』でいた。人間も獣人も龍人も、みんな守りたいだの、綺麗ごとばかり」
リカルドはゆっくりとレティシエラへ歩み寄る。
「小娘のくせに、ちょっと精霊術が得意だからって、偉そうに」
「……そんなつもりは」
「あったさ」
リカルドの瞳に、押し殺してきた感情が滲む。
「お前が『ミリラーネ様の再来』とか持ち上げられるたびに、どれだけ虫唾が走ったと思う」
レティシエラは目を見開いた。
「精霊は、お前の『綺麗な願い』にはよく応えたよな」
リカルドは嘲るように口の端を歪める。
「皆を守りたい、誰も傷つけたくない――そうやって祈るたびに、精霊は素直に力を貸してくれた。
だからお前は、それで全部上手くいってるつもりでいた」
レティシエラが言葉を失う。
「その横で、すぐそばにいた俺が何を考えてたかなんて、気にも留めなかったろ?
精霊も、お前の見たいものだけ見せてりゃ良かったからな」
レティシエラの胸に、冷たいものが落ちる。
どうして、精霊術を使う自分が、リカルドの変化を察知できなかったのか。
その疑問に、リカルドは自ら答えを与えた。
「そんな時だよ。俺が聖衛隊に見つかったのは」
リカルドは目だけで背後のセキトたちを示す。
「あいつらは言った。『命は助けてやる。代わりに、仲間になれ』ってな」
「……それで、あなたは」
「迷うと思うか?」
リカルドは笑った。
「ここに残って、お前の後ろで一生補佐をして、最後は人間に踏み潰されるか。それとも、俺自身が力を持つか」
その言葉に、レティシエラの喉が震える。
「聖衛隊の連中は言った。『仲間になったら力をやる。お前にもフィアスを扱う資格を与える』ってな」
レティシエラは思わず目を見開いた。
「……あなた、まさか」
「そうさ」
リカルドは右手を軽く掲げた。
その足元にある枯れた蔦が、じわりと黒くにじむ。
それらがするすると延びていき、腕を伝って指先へ絡みついた。
棘だらけのそれが、蛇のようにうねりながら空中で形をつくる。
「もらったんだよ、『荊棘のフィアス』を!」
その瞬間、レティシエラの胸に、あの違和感が蘇る。
最近、リカルドの精霊術の通りが良くなったと感じていたこと。
木や草に呼びかけたとき、ときどき精霊たちが、彼のほうを先に振り向くように思えたこと。
「精霊術の力もぐんと上がった。精霊は、より強い力を握ってるほうに従う。だからお前には俺の本音なんて、もう届かなかった」
レティシエラは唇を噛む。
精霊たちは、確かに彼女に囁きかけていた。
だが、そこにリカルドへの警戒はなかった。
「……あなたは、それで満足だったのですか」
「満足?」
リカルドの顔に、初めて露骨な歪みが浮かんだ。
「足りないに決まってるだろ。お前みたいな小娘が『守護者の再来』だの持ち上げられてる世界で、誰が満足なんかできる」
また一歩、レティシエラに近づく。
「神だの守護者だの、くだらない偶像をありがたがって。神がいるとすれば、それはウィアード様に他ならない。 この世界を今!支配している力こそが!本物の神だ!」
レティシエラの瞳に、悲しみと怒りが浮かぶ。
「あなたは……そんなもののために、自分の仲間を」
「仲間?」
リカルドは嗤った。
「俺にとっての『仲間』は、最初からここにはいなかったよ」
そして、叫ぶように言葉を吐き出した。
「お前のことはずっと、いつかめちゃくちゃにしてやろうと思ってたんだ!」
その叫びと同時に、リカルドはレティシエラへ飛びかかった。
精霊術で強化された足が地面をえぐり、踏みしめた足元から草むらがぶわっと逆立つ。
低木の枝や雑草が一気に伸び上がり、リカルドの握る剣へと絡みついた。
瞬く間に、刃の周囲を黒ずんだ荊棘が覆い、ぎざぎざとした即席の大剣の形を成す。
「――っ!」
レティシエラは残った力を振り絞り、細剣でその一撃を受け止めた。
金属と棘がぶつかり合う嫌な音と共に、腕に痺れるような衝撃が走る。
絡みついた蔦の棘が、細剣の側面をきぃっと引っかいた。
「っ……!」
「どうした、『レティシエラ様』! 里の期待を一身に背負った再来様が、そのざまか!」
リカルドが押し込む。
レティシエラの足元の土が、ずりずりと後ろへ抉れていった。
その時――
唐突に、リカルドの身体がびくりと震えた。
「……え?」
レティシエラの目の前で、リカルドの胸元から、銀色の刃が突き出していた。
血がどろりと流れ出し、空気に鉄の匂いが広がる。
ゆっくりと、リカルドの体が横へ崩れた。
その背後に立っていたのは、赤茶の髪を持つ聖衛隊の男――セキトだった。
彼は何でもないことのように剣を引き抜き、靴の裏で血を払った。
「……本当に、お前みたいな劣等種に、ウィアード様が力を与えたとでも思ったのか」
淡々とした声だった。
「お前を利用しただけだ。異種族の裏切り者が、仲間の首を運んでくる。
これ以上、人間にとって都合のいい『餌』があるか?」
リカルドの瞳から、徐々に光が消えていく。
「けどな――」
セキトは、吐き捨てるように続けた。
「劣等種がフィアスを使ってる姿ってのは、やっぱり見てて気分が悪い。
一瞬だけでも、同じ力の担い手みたいな顔をしてるのが、耐えられねぇ」
だから、と。
「つい、刺しちまった」
その一言で、リカルドの瞳から完全に生気が失われた。
エルフの青年は土の上に崩れ落ち、そのまま二度と動かなかった。
レティシエラは唇を震わせる。
「あなたたちは……仲間さえも、道具としか見ないのですね」
「はっ、勘違いするなよ」
セキトは肩を揺らして笑った。
「俺たち人間にとって、劣等種は皆道具だろ。
魔物から身を守る盾であり、労働力であり、恐怖を押しつけるための踏み台だ」
セキトはゆっくりとレティシエラへ歩み寄った。
そして、何の前触れもなく、彼女の腹部を蹴り上げた。
「――っ!」
鈍い音が響き、レティシエラの体が地面を転がった。
喉の奥から、胃の内容物がこみ上げる。
土と血の味が、口の中に広がった。
「見た目だけは悪くねぇんだよな、お前」
セキトは面白そうにレティシエラを見下ろす。
「だから、すぐに殺すのは勿体ねぇ」
背後の二人の聖衛隊員が、嗜虐的な笑みを浮かべる。
「まずは殺さずに、少し遊ばせてもらう。どれくらいで心が折れるか、試してみたい」
その声には、露骨な悪意だけがあった。
「それが済んだら……リレンヌの大通りに、お前を吊るしてやる。
劣等種全員に見せてやるんだ。守護者の再来だか何だか知らねぇが、人間様に逆らった末路ってやつをな」
レティシエラの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
自分が吊るされるだけならまだいい。
その姿を、異種族たちに見せつけると言うのだ。
――希望だったものを、見せしめとして踏みにじるために。
「そんなこと……させません」
レティシエラは腰の短剣に手を伸ばし、その切っ先を自らの喉元へ向ける。
「……これ以上、あなたたちの道具になるくらいなら」
刃が肌に触れ、細い血の筋が浮かび上がる――その瞬間、
「おっと」
セキトの足先が、レティシエラの手首を容赦なく蹴りつけた。
鋭い痛みと共に、短剣が地面に弾き飛ばされる。
「楽に終われると思ったか? まだ楽しみはこれからだろ」
レティシエラは呻き声を押し殺しながらも、もう一度手を伸ばそうとする。
だが、その腕をセキトが乱暴につかみ、無理やり引き起こした。
「逃げようとしても無駄だし、死のうとしても無駄だ。お前に選べる道なんて、最初から一つもねぇんだよ」
セキトの靴が、再びレティシエラの腹を蹴り上げる。
その勢いでレティシエラは数メートル後ろに吹き飛ぶ。
胃の中身が逆流し、喉の奥から嘔吐がこぼれた。
視界がにじむ。
このまま、嬲られてから大通りに吊るされる。さっきまで脅しにしか思えなかった言葉が、今は現実そのものに思えてくる。
(……ごめんなさい、ミリラーネ様。皆さん……)
ぼやけた空を見上げるように、レティシエラの瞳が揺れた、そのとき。
地面を、ひとすじの熱が走った。
「……?」
セキトが眉をひそめて足元を見る。
レティシエラの視界の端で、小さな炎が駆け抜けた。
炎は途中でふわりと跳ね上がり、金色の毛並みを持つ、小さな猫の形を象る。
金火猫。
猫はレティシエラとセキトのあいだに割り込むように立ち、背を丸めた。
「……フィアス、か?」
セキトが鼻で笑う。
「こんな玩具みたいな炎を出したところで――」
言い終わる前に、金火猫の炎がぱっと強くなる。
じり、と周囲の空気が熱を帯び、レティシエラの肌にもかすかな熱気が触れた。
(……フィアス、じゃない?)
どこか感触の違う熱。
それが何かを考える余裕はなかったが、さっきまで絶望に冷えていた胸の奥に、ほんのわずかだけ「何か」が戻ってくる。
セキトが苛立ったように舌打ちし、金火猫へと一歩踏み出す。
その瞬間――
「ここまで、一人でよく踏ん張ったな。レティシエラ」
落ち着いた声が、レティシエラの背後から届いた。
セキトがはじかれたように顔を上げる。
レティシエラも咄嗟に上体を起こし、後ろを振り向く。
森の影と光の境目に、ひとりの少女が立っていた。
燃えるような紅の髪が、木々の隙間から差し込む光を受けて揺れ、金色の瞳が、まっすぐこちらを射抜いている。
レティシエラには、その姿を忘れようがなかった。
「……セリア、さん」
「遅くなった」
セリアは、レティシエラに近づきながら、短く笑った。
「もう大丈夫だ。ここから先は、わたしがやる」
セリアがレティシエラの横に立つと、金火猫はセリアの足元に近づき満足げに尾を揺らして、ぱちりと小さな火花になって消えた。
その残り火が風に散っていくのを見つめ、レティシエラは張りつめていた呼吸を、ようやくひとつ大きく吐き出した。




