第三十九話 戦争の種
ここ最近は、露骨な監視の気配は感じない。
それでも、セリアは念のため周囲の視線を確かめながら、大通りから一本外れた細い路地へと身を滑り込ませた。
陽光が届かなくなるにつれ、街の喧騒は背中のほうへ遠ざかっていく。
(……よし、つけられてはいないな)
角を二つ曲がり、さらに狭い路地を抜ける。
やがて、見慣れた崩れかけた倉庫が視界に入った。
その裏手、地面にぽっかりと開いた地下への階段。
この一月のあいだに、ここへ来るのはもう何度目になるだろうか。
最初は完全に情報の取引相手として見ていたレティシエラの顔も、今ではようやく知り合いと呼べるくらいには馴染んできた。
セリアは周囲にもう一度だけ視線を走らせると、何事もない顔で暗がりへと足を踏み入れた。
「あら? セリアさんではないですか」
振り向いたレティシエラが、わずかに目を丸くし、それからいつもの柔らかな微笑を浮かべる。
「……どうしました? 少し表情が暗いようですが」
「気のせいだよ」
否定はしたものの、自分の声がどこか重いことは、セリア自身がよく分かっていた。
レティシエラはそれ以上踏み込まず、小さく首を振る。
「……そうですか。すみません。変なことを言ってしまいましたね」
「いや、別に。気にしないでくれよ」
一拍置いて、レティシエラが姿勢を正す。
「それで、今回はどういうご用件でしょう? 情報でしたら、前回の続きもいくつか……」
「ああ、いや」
セリアは壁にもたれ、腕を組んだ。
言葉を探すように、視線だけがゆっくりと天井をなぞる。
「特に、これといった用事があるわけじゃないんだ。ただ、ちょっと聞きたくてさ」
「……聞きたいこと、ですか」
「ウィアードを倒したとして、その後の世界って、どうなるんだろうなって」
獣人の男が一人、壁にもたれかかったまま耳をぴくりと動かす。
机の端では、龍人の女が磨きかけの短剣を持つ手を止め、銀髪のエルフの青年が書き物から顔を上げた。
誰も口は挟まないが、視線だけが一斉にセリアとレティシエラのほうへと集まる。
レティシエラは一瞬だけ目を見開き、それから静かにセリアを見つめ返した。
「そうですね。これは……正直に申し上げると――戦争、かと」
「戦争……」
セリアは無意識にその言葉を繰り返す。
さっきまでぼんやりしていた迷いが、ざらりとした形を持つ。
「ええ。そもそもが、ウィアードを討とうとする過程で、戦争になる可能性が高いのです」
レティシエラは言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「仮にそれをどうにか回避して、上手く暗殺のような形で倒せたとしても――
人間たちは、証拠もなく、わたくしたち異種族を犯人だと決めつけるでしょう」
「その場合、人間からの報復が始まることが予想されます」
セリアはわずかに眉をひそめた。
自分がいま立っている地下と、陽だまり亭の温かな喧騒の光景とが、頭の中で不自然に重なる。
「勿論、わたくしたちも、それは本意ではありません」
レティシエラは静かに首を振る。
「元々、人間たちを守るために創られた種族ですから。できることなら、またそうありたいと思っています」
セリアは、あの地下通路を歩いた日のことを思い出した。
レティシエラが、ミリラーネから何度も聞かされてきた「神々の時代」の話を、少し誇らしそうに語っていたことを。
レティシエラは自分でも思い出したように、ほんのわずか口元を緩める。
「子どもの頃のわたくしにとって、ラグルス様やイーリア様は、絵本の英雄のような存在でした」
「理不尽なものから人々を守り、ときに進むべき道を示してくださって、わたしたちと共にアルマルドの地に平和を築いてこられた、遠い憧れの方々で……いつか自分も、ああいう守る側になれたらと、本気で思っていたのです」
そう言うと、レティシエラはすぐに表情を引き締め、まっすぐセリアを見据えた。
「だからこそ、現状に甘んじるつもりもありません。このまま踏みにじられ続ける未来を、ただ受け入れる気も、ないのです」
一度だけ言葉を切り、レティシエラはわずかに声を落として続ける。
「……ですが、ウィアードを倒すということは、高い確率で戦争に発展するということだと、わたくしたちは考えております」
ぱち、とランタンの炎が弾ける音だけが、しばしのあいだ地下室に響いた。
壁にもたれた獣人の男がわずかに姿勢を変え、机に肘をついていた龍人の女が、手元の短剣から視線を上げる。
誰も口は挟まない。ただ、重い沈黙だけがセリアの背にのしかかった。
「そうか。……いや、なんとなくはわかってはいたんだ。ちょっと考えたらわかる話だもんな」
セリアは頭をかきながら、軽く苦笑いをした。
迷宮で燃やし続けてきたのは「ウィアードへの復讐」であって、「世界戦争の火蓋」じゃない。そんな言葉にならない違和感がうずく。
レティシエラは少しの間セリアの顔を見つめ、それから静かに問いを重ねた。
「……それで、セリアさん。あなたは戦争の種を眼の前にして、どうなさいますか」
「な、なに言ってんだよ!? 別に、なんともしないって! ただ、ほんとにただ、ふと疑問に思っただけなんだ」
思わず声が少し上ずる。
近くの獣人の耳がぴくりと動き、数人がちらりとこちらを見るのをセリアはわざと無視した。
「悪かったな。変な質問しちゃってさ」
「いえ、こちらこそ。……また変なことを聞いてしまいましたね」
レティシエラは小さく首を振り、表情をやわらげる。
地下の空気が、少しだけ張り詰めから解放された。
「実は、こちらからもお伝えしておきたいことがございます」
「ん?」
「数日後に、わたくし、エルフの里に戻ることになりました」
「え!? そうなんだ。なんかあったのか?」
唐突な話に、セリアは思わず身を乗り出した。
その反応に、近くのエルフたちが目を見交わす。
「いえ、トラブルではありません。リレンヌで得られる情報が、ある程度まとまってきましたので……一度、里に報告を上げることになったのです」
「そっか。なんかやばい話じゃなくて良かったよ」
セリアが胸をなで下ろすと、レティシエラはほんの少しだけ目を細めた。
「……それで、なのですが」
一拍置いてから、言葉を継ぐ。
「おそらく、わたくしはそのままエルフの里に留まることになると思います」
「もう帰ってこないってことか」
「そうなると思います。この拠点で集められる情報は、その時点で価値が薄くなりますから。
解体されるか、あるいは……わたくしの補佐をしているリカルドが、必要に応じて引き継ぐことになるかと」
セリアは視線を足元に落としながら答える。
「……そうか。じゃあ、会うのはこれが最後かもしれないってことだな」
「はい。その可能性は十分にございます」
「じゃあ、今日ここに来れて良かったってことだな。ちゃんと、別れを言うことができる」
そう言って笑うセリアに、レティシエラは思わず小さく吹き出した。
「ふふ。エルフに『別れを言えて良かった』なんて仰る人間は、そう多くありませんよ」
「そうかもな」
レティシエラは姿勢を正し、改めてセリアを見つめる。
「わたくし、セリアさんとはあまり良い出会い方ではありませんでしたが――」
最初に会ったとき、床に転がる仲間たちと、その真ん中に立つセリアの姿が脳裏をよぎる。
レティシエラは小さく笑みを深めた。
「それでも、お会いできて本当に良かったと思っております」
「……こっちの台詞だよ」
セリアは頬をかきながら視線をそらし、すぐにまたレティシエラを見た。
「もし、戦争になるようなことがあって――行くところにお困りでしたら、エルフの里へいらしてください。人間だからといって、追い返したりはいたしません」
「ははっ、考えておくよ」
今度は、口元だけで静かに笑う。
「……わたしも、出会えて良かったよ。元気でな、レティシエラ」
「はい。セリアさんこそ、お元気で」
二人の言葉が交わされた瞬間、ランタンの炎がふっと揺れ、地下室の空気がほんの少しだけ温かくなった気がした。




