第三十五話 背骨狼
「事件があったのは、あの辺りのようです」
レティシエラが指さす。
「あの辺りは人間の商隊もあまり通らず、わたくしたちにとっては都合の良いルートではあったのですが……」
「取り敢えず向かうか。警戒は怠らずにな」
しばらく進むと、地面に砕けた荷車の残骸と、乾いた血痕が点々と残っていた。
破れた麻袋や、ちぎれた布切れが草むらに引っかかり、風に揺れている。
「これは……」
獣人の青年が、苦い顔で呟いた。
「どうやら、魔物に襲われた跡みたいだな」
セリアが、しゃがみ込んで車輪の割れ目に指を滑らせる。
「この感じですと、襲われてからそこまで日は経っていないようですね」
エルフの青年が、血痕の色を確かめながら言う。
レティシエラは周囲をぐるりと見渡し、口を開いた。
「……暫く、この辺りで様子を見てみましょう。戻ってくる魔物がいるかもしれません」
「了解」
セリアは近くにある小岩に腰掛ける。
「行方不明になってるのは、獣人の連中か?」
静寂の中、セリアが低く問いかける。
「獣人の隊商が多いですね」
レティシエラが頷く。
「ですが、運び屋の中には人間も混ざっています。身分を隠して、こちら側に荷を運んでくれる人もいますから」
「人間も、か」
「はい。できれば、誰も失われないのが一番です」
レティシエラは、血痕の先へと目を細める。
「獣人たちも、人間たちも。このルートを使う人たちは、皆生きるためにここを通るのですから」
その言い方に、セリアはふと口元をゆるめた。
「……ほんと、あんたらしいよな」
「え?」
「いや、なんでもない」
セリアは肩をすくめ、空を一瞥する。
風が一度、向きを変えた。
《……来るぞ》
一瞬、ラグルスの声が硬くなる。
ほぼ同時に、獣人の青年が耳を立てた。
「右前方、茂みの中から……何か来ます!」
がさり、と草むらが大きく揺れ、その中から灰色の毛並みをした獣が姿を現した。
狼に似ているが、肩までの高さが人間の腰ほどもあり、背中には骨のような突起が並んでいる。
「背骨狼……!」
レティシエラが小さく息を呑む。
「群れで動く魔物です。他にもいる可能性があるので気を付けてください」
最初の一匹に続き、左右の茂みからも、同じ魔物が顔を出す。
低い唸り声が、草地に満ちていく。
「三……いや、四。まだ奥にもいるな」
セリアは目を細めた。
「前衛はわたくしとセリアさん。残り二人は後ろから援護をお願いします」
レティシエラが即座に指示を出す。
「了解です」
エルフの青年が短く返事をし、弓を番える。
レティシエラ自身は腰の細身の剣を抜く。刃が陽光を受けて細く光る。
最初の一匹が、低く身構えたかと思うと、地面を蹴って突っ込んできた。
同時に左右からも、二匹が回り込んでくる。
「正面は任せろ!」
セリアはそう叫ぶと、腰に下げていたランタンの蓋を半分だけ開けた。
中で揺れていた小さな炎が、ふっと大きく息を吹いたように膨らむ。
(フィアスってことにしとくか)
セリアはその炎を拳にまとわせると、突っ込んできた一匹の顔面めがけて踏み込み、
「せいっ!」
炎を纏った拳を横殴りに叩き込んだ。
ボッ、と鈍い音を立てて炎が弾け、背骨狼の顔面を焼く。
獣は悲鳴を上げて地面に転がり、前足で必死に顔を掻きむしった。
「ギャウゥッ!?」
「……! 今の、フィアスを――」
レティシエラは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに左から迫る別の一匹へと意識を切り替える。
迫りくる牙を最小限の動きでかわしながら、細剣で前足の腱を正確に断ち切った。
背骨狼の体勢が崩れ、その首筋にもう一閃。血飛沫が草地に散る。
「やるね」
セリアは、レティシエラが左の一匹を問題なく対処できているのを確認すると、右側から回り込んでいた一匹に目をやる。
そちらは、獣人の青年が短槍で距離を取りつつ牽制し、エルフの青年が弓矢で動きを鈍らせていた。
「そっちももらう!」
セリアは地面を蹴って一気に間合いを詰める。
背骨狼は矢を避けようとしてわずかに身を捻り、足元がぐらりと揺らいだ。
その頭上から、セリアはランタンの炎を拳にまとわせたまま振り下ろす。
「おらっ!」
炎を纏った拳が、背骨狼の頭頂部に叩きつけられる。
鈍い手応えとともに、獣の体が地面にめり込むように崩れ落ちた。
《ふむ。素手でも悪くない動きだ》
(今はほめてる場合じゃないだろ)
心の中でラグルスに突っ込みを入れつつ、セリアは息を整えた。
そのとき、茂みの影から、もう一匹が低く唸り声を上げる。
背中の棘を逆立てながら、レティシエラめがけて突進してきた。
「レティシエラ!」
セリアが叫ぶのと同時に、レティシエラはわずかに体の向きを変えた。
真正面からは受けず、あくまで半歩だけ外側へ。
牙がかすめる距離で身を翻し、その横腹に細剣を深々と突き立てる。
「っ……はあっ!」
刃を引き抜くと、背骨狼は数歩よろめき、どさり、と音を立てて崩れ落ちた。
「……心配無用だったか」
セリアはランタンの蓋を閉め、周囲を一通り見渡した。
「ひとまず、片付いたな」
拳についた煤を軽く払って言う。
「皆さん、お怪我は?」
レティシエラが周囲を見回す。
獣人の青年は肩で息をしながら、噛み千切られかけた肩当てを押さえていた。
革の隙間から、うっすらと赤い筋が覗いている。
「……ちょっと噛まれたッス。でも、歯が滑ったんで大丈夫ッスよ」
「私は怪我はありません。ただ、少し……息が上がりましたね」
弓を握ったまま、エルフの青年が静かに息を整える。
二人の返事を聞き、レティシエラは胸を撫で下ろす。
「セリアさんも、お怪我は?」
「わたしは平気だよ。このくらいなら、散歩みたいなもんだ」
セリアは肩を回してみせた。
レティシエラは一度頷き、それからセリアの手元のランタンへと視線を落とす。
「……それにしても、先ほどの炎。フィアス、ですよね?」
「ん?」
セリアは軽く首をかしげ、腰のランタンを持ち上げた。
「これのことか? まあそんなところかな。でもあのくらいしかできないよ」
「いえ、あのくらいとおっしゃいますが……」
レティシエラは苦笑いする。
「あの背骨狼たちを一撃で倒す威力は、下手な使い手には出せません」
「そ、そうなのか?いや、あんまり知らないからさ……」
《……本来の力からすれば、爪の先ほども使っておらんのだがな》
(そうなんだよ……。かなり手加減したはずなんだけどな)
セリアは心の中だけで返事をする。
レティシエラはそんな様子を見て、ふっと表情を和らげる。
「一度ここで整えましょう。……皆さん、少しだけこちらへ」
レティシエラは、四人が自然と輪になる位置に立ち、そっと目を閉じた。
静かな息を一つ吐くと、そっと呟く。
「――ヒール」
その言葉に応えるように、周囲の空気がふわりと揺れた。
目には見えない何かが集まってくる気配とともに、柔らかな光がレティシエラの足元から立ちのぼる。
それはやがて細かな粒となって四人の体へ降り注ぎ、肌の上で淡く溶けていった。
「……おお」
獣人の青年が、驚いたように目を見開く。
「さっきまで肩がズキズキしてたんスけど……だいぶ楽になってきました」
噛まれかけた肩当ての隙間から覗いていた赤い筋も、じわじわと薄くなっていく。
「私も、だいぶ息が楽になりました」
弓を握ったまま、エルフの青年が胸に手を当てて、ゆっくりと息を吐いた。
セリアも軽い疲労感が取れて、拳を握り直すと、さっきよりも指先まで血が巡っている感覚がある。
《精霊術か。それもかなり高い練度で使いこなしている》
「ありがとな。ずいぶん楽になったよ」
「いえ。まだ調査は終わっていませんから、ここで無理を残すわけにはいきません」
レティシエラは微笑み、改めて辺りを見渡した。
足元には、倒れた背骨狼たちの死骸。
だが、それらが占める面積に比べて、辺りに残る血痕や、引きずられた跡はあまりにも多すぎる。
「……やっぱり、おかしいな」
セリアがしゃがみ込み、地面に残った跡に指を這わせた。
「この数の背骨狼だけで、人がごっそり消えるとは思えない」
「襲撃された荷車の数を考えると、もっと大量に死体が転がっててもおかしくないはずですが……」
エルフの青年も眉をひそめる。
「それに、血の匂いも妙ッス」
獣人の青年が、鼻先をわずかにひくつかせた。
「ここでばらまかれた、というより……どこかに運ばれているような……」
レティシエラは少し考え込み、それから森の奥へと視線を向けた。
「おそらく、この子たちは門番に過ぎないのでしょう。本命は、もっと奥にいるはずです」
「親玉ってやつか」
セリアは立ち上がり、拳を鳴らした。
《気配も、まだ奥から続いておる。……さきほどより、濃いな》
「だろうな。あの程度で終わりなら、こんなにやられたりしない」
セリアが呟く。
風向きが変わり、奥の森から生臭い匂いが流れてくる。
「行こう」
レティシエラが小さく頷き、一行は慎重に森の奥へ足を踏み入れた。




