第三十二話 レティシエラ
「レティシエラ様……!」
先ほどのエルフの男が、階段を下りてきた女性に慌てて声をかけた。
レティシエラと呼ばれたエルフは、セリアとそう変わらぬ年頃に見える。
白金の髪は鎖骨あたりでまっすぐに整えられ、その前髪の奥から、淡い銀灰色の瞳が静かに覗いていた。
じめついた地下室の空気を、ひと息で塗り替えるほどの気配と気品をまとっている。
「リカルド。これはどういうことでしょうか?」
その穏やかな声に、リカルドと呼ばれたエルフの男の背筋が伸びる。
リカルドは、冷や汗を浮かべて答える。
「そ、それが……その人間が一人でスラムをうろついていたようでして……」
レティシエラの視線が、転がる仲間たちをゆっくりと見渡した。
「――それで、ここまで連れてきたはいいけれど、あっけなく返り討ちにあった、と」
「い、いえ!こいつらが勝手に――」
「ふふっ、言い訳の必要はありません」
レティシエラは小さく微笑んだ。
その笑みは穏やかでありながら、誰も逆らえない静かな力を持っていた。
そして、くるりとセリアの方へ向き直る。
「ああ、すみません。自己紹介がまだでしたね」
柔らかな声で言いながら、優雅に一礼する。
「わたくしはレティシエラと申します。ここのまとめ役をしている者です」
「ご丁寧にどうも。わたしはセリア。ようやくちゃんと話を聞いてくれそうな人、でいいのかな?」
セリアの軽い調子にも、レティシエラは穏やかに微笑んだ。
「はい。彼らが手荒な真似をしてしまって、申し訳ありません。……とはいっても、こちら側が一方的にやられているみたいですけど」
「ははっ、手加減はしたさ。 まぁ、こっちもこの街の常識とやらを知らなかったからさ、お互い様ってことで」
「ありがとうございます。――正直なところ、これ以上セリアさんに暴れられたら、少し面倒だなと……思っておりました」
(少し、ね)
セリアは内心で苦笑いをする。
その笑顔の奥にある静かな圧に、かえって妙な緊張を覚えた。
「それで、彼らにも何度か聞かれたかとは思いますが、改めて伺います。スラムまで来た理由を教えていただけますか?」
「聖衛隊のこととか、人間以外の種族のこととかを聞きたくて来たんだ」
「えっと、わたし、記憶喪失でさ。そのへんの常識とか、ほとんど知らないんだよ」
「記憶喪失、ですか……」
レティシエラの声に、わずかな興味が滲む。
「でもなぜこちらに? それらの情報なら、街の人々に聞いた方が自然に思えますが」
「そりゃそうなんだけどさ」
セリアは苦笑し、わずかに目を伏せる。
「どうも、人間に聞くと偏りがあるっていうか……。みんな、人間以外を見下してるし、聖衛隊を崇めてるしで、正直ちょっと気味が悪くてね」
レティシエラの目が細くなる。
「それで私たちに、話を聞きに?」
「そんなところかな」
レティシエラはしばらく黙り込み、セリアをじっと見つめた。
その瞳は穏やかだが、奥に探るような光がある。
「……なるほど。あなたがここに来た理由は、理解しました」
「良いでしょう。セリアさん、あなたの知りたいこと――わたくしたちの知る範囲でお話しします」
その言葉に、周囲が一瞬ざわついた。
「えっ、いいのか? そんな簡単に……」
レティシエラは片手を軽く上げ、静かに制する。
「ふふ。正直なところ、わたくしは最初からセリアさんのことを聖衛隊のスパイとは思っていませんでした。余力を残して獣人や龍人を圧倒するその力。しかも、武器もフィアスも使っていないようですし。
並の聖衛隊の兵では、ここまでは出来ないでしょう」
「そんな人間が聖衛隊にいたら、わたくし、顔を知らないはずがありません」
「そもそも聖衛隊がその気であれば、スラムを一掃するくらい訳ないのです。こんな回りくどいことは必要ありません」
「いや、あえてそう思わせて油断を誘う――なんて可能性もあるんじゃない?」
「……ええ。ですが、聖衛隊がそんなことをするとは思えません。彼らにとって私たちは、取るに足らない存在。策を弄する価値すらない相手ですから」
「なるほど。そういう扱いってわけか」
セリアは小さく呟いた。
「ですので、あなたの知りたいことをお話しします。ただし、条件があります」
レティシエラの瞳が、わずかに厳しさを帯びる。
「ここで見聞きしたことは、誰にも口外しないでください。この場所の存在が知られれば、わたくしたち、非常に困ります」
「わかった。それは約束する。……でも良いのか?こんな口約束で」
「……本音を言えば、もっと確実な手を打ちたいところです。ですが、あなたと事を構えるとなると、こちらの被害も大きくなるでしょう。それに、なんとなくですが、わたくしには分かるのです。あなたは約束を破るような人ではないと」
セリアは片眉を上げた。
「そんなに信じちゃっていいのか?」
「ええ。あなたに悪意はないようですし」
「そんな断言できるなんて、まるで見えてるみたいだな」
「ふふ。そんなところです」
その言葉のあと、レティシエラは机の上に広げられた古びた地図へと手を伸ばした。
指先でゆっくりと円を描きながら、レティシエラは静かに口を開いた。
「では、この世界の始まりからお話しします」




