第三十一話 スラム
「おい! お前、そこでなにしてる!」
振り向くと、薄暗い路地の奥から二つの影が現れる。
一人は、肩幅の広い獣人の男。
逞しい体つきで、毛並みは黒く、片耳には古い切り傷が走っている。
もう一人は龍人の男。
人間のような顔立ちだが、額には短い角が二本、腰の後ろには太い尾がのぞいていた。
どちらも粗末な革鎧を身につけ、腰には刃の欠けた短剣が下がっている。
「……誰だ、そっちの人間は」
獣人の男が、低く唸るような声で問う。
少年が怯えたように一歩後ずさった。
「ち、違うんです! この人は、その……話を聞かせてほしいって!」
「それを信じたっていうのか。人間の言うことを」
竜人の男が、冷ややかな声で言い放つ。
「待ってくれ! 本当だ、何かしようなんて思ってない」
セリアは両手を軽く上げ、できるだけ穏やかに声を返す。
獣人の男が一歩前に出た。
鋭い牙がのぞき、低い唸りが喉から漏れる。
「そんなわけあるか! ここは聖衛隊でさえろくに近寄らねぇ場所だ。そんなところに人間の女が、丸腰で一人で来るなんて……『殺してくれ』って言ってるようなもんだぞ」
《……状況を鑑みれば、そうなるのも無理はない》
ラグルスが小さく呟く。
セリアはため息をつきながらも、静かに獣人の目を見返した。
「物騒な言い方するなよ。別に喧嘩を売りに来たわけじゃない」
竜人の男が、わずかに片眉を上げる。
「……じゃあ何の用だ?」
「知りたいだけだよ。聖衛隊のこととか、人間以外の種族についてとか」
「はっ! 何を言うかと思えば……そんなもん、聞かなくても分かることだ。仮におめぇが何も知らない馬鹿だとしても、わざわざここに聞きに来る必要なんざねぇ」
獣人の男が吐き捨てるように言った。
「悪いがアジトまで来てもらう。……抵抗はするなよ」
《ここは言う通りにしておけ》
ラグルスの低い声が、小さく響く。
セリアは静かに頷き、短く返した。
「わかったよ。抵抗しない。案内してくれ」
「えっと、お姉さん……大丈夫?」
少年が不安げに声を上げる。
「ああ。……悪いな、巻き込んじゃって」
「僕はいいよ。でも……」
「心配するなって」
「いいから、さっさとついてこい!」
獣人の男が声を荒げる。
「わかってるよ。……じゃあな」
セリアは少年に軽く手を振り、獣人と竜人の男に前後を挟まれる形で薄暗い路地の奥へと歩き出した。
スラムのさらに奥、崩れた倉庫の裏口から地面へ続く細い階段を下りる。
湿った土と錆びた鉄の匂いが鼻を刺した。
ランタンの淡い光が、石壁に影を映している。
《地下の隠れ家のようだな》
(聖衛隊の目を逃れるにはうってつけってわけか)
狭い通路を抜けると、広間のような空間が広がっていた。
壁際には机と地図、聖衛隊の巡回経路らしき記録や報告書が散らばっている。
粗末なつくりながら、整然とした拠点の気配があった。
十数名の影――獣人、龍人、そして耳の長いエルフたち。
彼らが一斉にセリアを見た。
湿った空気にざらついた声が混じる。
「おい……それ、まさか人間か?」
「どういうつもりだ。ここに人間を連れてくるなんて」
ざわめきが広がり、空気が一瞬にして張り詰めた。
セリアの後ろにいた龍人の男が、低く答える。
「怪しい女がスラムをうろついていた。放っておくには危険だと判断した」
その声に応えるように、奥の暗がりから細身のエルフの男が姿を現した。
銀髪を後ろで束ね、細い眉の下から鋭い眼差しが光を反射する。
「……なるほど。勝手な真似をしてくれたな」
「すまない。だが、念のためだ。作戦に支障が出ては困るだろう」
龍人の言葉にも、エルフの男は眉ひとつ動かさない。
「それならば、路地で片をつけておけばよかったものを」
低く静かな声が、広間の奥に響く。
「わざわざここへ連れてくるなど……この場所を晒したも同然だ」
鉄のきしむ音がどこかで鳴り、誰かが小さく息を呑む。
湿った空気が重たく沈み、ランタンの炎がわずかに揺れた。
その静寂の中――
エルフの男の冷ややかな視線が、セリアを射抜いた。
「……お前、人間だな。単刀直入に聞く。何の目的でスラムに足を踏み入れた?」
「さっきも言ったけど、話を聞きに来ただけだよ。人間以外の種族とか、聖衛隊のこととか」
セリアは淡々と答えた。
「話を聞きに?」
エルフの男がわずかに眉をひそめる。
「この国で人間が『私たち』に近づく理由は二つしかない――支配か、搾取だ」
ざわ……と空気が揺れた。
周囲の獣人や龍人たちが一斉に立ち上がり、腰の武器に手をかける。
「待てよ。話を最後まで――」
「嘘に決まってる!」
さっきまで黙っていた獣人の若者が吠えるように言葉を被せた。
「聖衛隊のスパイだ! どうせ俺たちの居場所を嗅ぎつけて来たんだ!」
「だから違うって!」
セリアは両手を上げて制したが、誰も聞こうとしない。
「もうやっちまおうぜ!」
獣人の一人が唸り、飛びかかるように前へ出た。
《殺すなよ》
「わかってるって」
「おい待て!」
エルフの男の制止を聞かず獣人の鋭い爪が振り下ろされる。
(……遅い)
外での初めての対人戦。
相手の力量は未知――だが、迷宮の魔物たちに比べれば児戯のようなものだった。
セリアは一歩踏み込み、獣人の腕を軽くつかんで捻る。
短い悲鳴とともに、骨の軋む音が響き、男の体が床に沈んだ。
「なっ……!」
別の獣人が咆哮し、龍人の尾が唸りを上げる。
一斉に襲いかかる影。
(このまま受けても全く問題ない――けど)
セリアは素早く身体を捻り、加減して蹴りを繰り出す。
次の瞬間、二人が床を滑り、椅子が弾け飛んだ。
「くっ……なんだ、この女……!」
「フィアスも使ってないのに……!」
荒い息と怒号、刃の光。
だが、セリア涼しい顔で拳をいなし、刃を受け流す。
必要最小限の力で、戦意だけを削ぎ落としていく。
無駄な殺気も、焦りもない。
やがて広間の中央――
床には、数名がうめき声を上げて転がっていた。
セリアはその中心で、息ひとつ乱さず静かに立っている。
「……まだやる?」
その淡々とした声に、誰も返す言葉を持たなかった。
打ち捨てられた椅子が軋み、埃が舞う。
張り詰めた沈黙が、冷えた地下に広がる。
――そのとき
「そこまでです」
澄んだ女性の声が、静かに響いた。
その声だけで、場の空気が一瞬で変わる。
振り向いた先。階段の上から、白金の髪を持つエルフの女性が歩み出てくる。
薄明かりの中、白磁の肌が柔らかく光を反射し、鎖骨まで伸びる髪が微かな風に揺れた。
長く尖った耳がその輪郭を彩り、その気配だけで地下室の空気が変わった。




