第三十話 定休日
あれから三日後。陽だまり亭の定休日。
「今日は休みだからね。ゆっくり休んでおいで!」
メリダが笑顔で声をかける。
昨日までの喧騒が嘘のように、店内には穏やかな静けさが広がっていた。
「おばちゃんは?」
「仕入れに出るのさ。昼には戻るけどね」
「そっか。じゃあ、わたしはちょっと街を見て回ってくるよ」
「気をつけておいで。あんた、けっこう目立つんだからね」
「はいはい」
セリアは笑いながら手を振り、朝の光の中へ出ていった。
店の扉が閉まると同時に、耳の奥にラグルスの声が響く。
《これでようやく動けるな》
「そうだな。でも……一応、ね」
通りに出たセリアは、何気ない足取りで人の波に紛れた。
朝の光が石畳を照らし、商人たちの呼び声が飛び交う。
焼きたてのパンの匂いが漂い、街はいつも通りの活気に包まれている。だが、セリアの意識はその喧騒の外側にあった。
(……さっきから、一定の距離を保ってついてきてるな)
視線を動かさず、店のガラスに映る反射を使って後方を探る。
人混みの中、薄灰色の外套をまとった男の影。
露店の客を装いながら、セリアの動きに合わせて一定の距離を保っている。
《監視だな。レインズの上司が差し向けたか》
「まぁ、定休日なら監視して当然か」
セリアは気づかぬふりで雑貨屋に立ち寄った。
並ぶ装飾品を手に取り、値段を聞き、軽く世間話を交わす。
そのまま数軒の屋台を回り、果物をひとつ買って頬張った。
露骨に撒くのではなく、あくまで街を歩く一人の女を演じながら。
――やがて、一刻ほど経ったころ。
(……やっと、いなくなったか)
背後の気配がふっと消えた。
セリアは気配の残滓を確かめたのち、肩の力を抜いた。
《どうやら問題なしと判断されたようだな》
「向こうも、一日中張り付いてるほど暇じゃないってことかな」
《現時点ではさほど警戒されていないということだ。今のうちに動くぞ》
「了解。……で、まずは何からだ?」
《把握すべきことは大きく分けて二つだ》
《一つはウィアードの戦力。つまり、ウィアード本人の力と、その直属部隊――『バランティン聖衛隊』の規模と実力の把握だ》
「レインズに聞くのは危ないし……聖衛隊の連中に直接話を聞くってのも手だけど、どうしても不自然になっちゃいそうだよな」
《やり方次第だが、それは最後の手段にしておけ》
「了解。じゃあ、もう一つは?」
《人間以外の種族――獣人、エルフ、竜人たちの現状を知ることだ》
セリアは足を止め、通りを見渡した。
陽光が白い壁を照らし、人々は穏やかな顔で行き交っていた。
見た目には、どこまでも平和で穏やかな世界。
「……あの聖衛隊の態度を見る限り、ろくな状況じゃなさそうだけどな」
《だろうな。ウィアードの加護を受けぬ者たちは、今や『堂々と差別してよい存在』として扱われているはずだ》
「だったら、その差別されている人たちに直接聞くのが早いか」
《ふむ。ウィアードと敵対しているなら、聖衛隊の情報を掴んでいる可能性も高い》
「スラムにいるって言ってたよな」
《その通りだ。そこへ向かうぞ。場所は分かるな?》
「ああ、大体の場所はレインズから聞いてる。問題ない」
セリアは通りを抜け、薄暗い路地の方へと歩き出した。
喧騒が少しずつ遠のき、道が細くなるにつれて、空気の匂いが変わっていく。
湿った石の匂いや、腐った木箱の臭気があたりを漂い出す。
明るい市場から、ほんの十数分歩いただけで、まるで別の世界だった。
しばらく進むと、道端に座り込むみすぼらしい人影がぽつぽつと増えていく。
痩せ細った獣人――
毛並みはまだらに抜け、耳の先は裂け、その尻尾も骨のように細っていた。
ボロ布を纏ったエルフの女――
尖った耳と、かつては陽光を映したであろう銀髪。
それらは埃にくすみ、白い肌の上には鞭痕が残っていた。
そして、無言でうずくまる竜人の老人――
頭には短く折れた角が二本、背中には太い尻尾が覗いていた。
その尾の先には鎖の跡が残る。
誰も目を合わせようとはせず、通り過ぎるセリアを避けるように身を縮める。
(……ひどい有様だな)
そのとき、少し離れた場所で獣人の少年が小走りで路地を横切るのが目に入った。
《追うぞ》
ラグルスの声が短く響く。
セリアは頷き、軽く足を速めた。
「おーい、聞きたいことがあるんだけど……!」
呼び止められた少年がびくりと肩を震わせ、振り返る。
「! な、なんですか!?」
怯えた表情。その顔に見覚えがあった。
――あのとき、聖衛隊に蹴り飛ばされていた少年だ。
「待って、何もしないよ。ちょっと聞きたいことがあるだけなんだ」
できるだけ柔らかい声でセリアが言う。
「ひっ、人間の人、ですか?」
少年の耳がかすかに伏せられる。
「……人間、だけど、君に危害を加える気はない」
セリアは両手を上げてみせた。
少年はまだ半歩後ずさりながら、慎重に口を開く。
「な、何を聞きたいんですか?」
「この街のことだよ。特に、聖衛隊のこと」
セリアの声には抑えきれない棘が混じる。
少年はためらい、少しの沈黙のあとで小さく答える。
「……あの人たちは、いつも僕らを追い払います。少しでも逆らえば、殺されるか……良くて奴隷です」
「皆で抵抗したりしないのか?」
少年は顔を上げ、かすかに笑った。
「そんなの……できませんよ。加護がない僕たちじゃ、人間――特に聖衛隊には勝てっこないですから」
「街から逃げたりとかは?」
「僕には、動けない母がいます。ほかの人たちも、怪我や病気で動けない人ばかりなんです。街を出たって、行き倒れるか……魔物の餌になるだけです」
少年の声は震えていたが、そこには涙の余地すらなかった。
虐げられることに慣れすぎた諦め――そんな響きがあった。
「……えっと、お姉さんは、なんでそんなこと聞くんですか?」
「え?いや、この街にきたばっかでさ。聖衛隊とか、何もわからなくて……」
「それだったら……お姉さんみたいな人、こんなところに来ないほうがいいですよ。じゃないと――」
少年の言葉が途中で途切れる。
その直後、背後の通路から怒鳴り声が響いた。




