第二十九話 夜
セリアが働き出して初日の閉店後。
最後の皿を片付け終え、店の明かりが落ちる。
セリアは階段を上がり、自室の小さな屋根裏部屋に戻った。
(……ふぅ、ようやく終わった)
木製の床に足を踏み入れた途端、どっと疲れが押し寄せる。
部屋には簡素なベッドと机、窓際には小さなランプ。
迷宮の岩壁とは違う、柔らかな木の匂いがした。
セリアはベッド脇に腰を下ろすと、服を脱ぎ捨てる。
「あ~、やっと解放された! 働いてるより、長い時間服着てるほうが辛いな」
《気を抜くな。まだ女将が入ってくる可能性がある》
「そうなんだけどさ、女同士だからいいだろ?」
《そういう問題ではないが……好きにしろ》
セリアは苦笑しながらベッドに転がり、天井を見上げた。
店での喧騒が嘘のように静まり返り、遠くで風の音がかすかに鳴っている。
「……それにしても、朝から晩まで働き詰めだな。情報収集する暇がない」
《確か三日後に定休日と言っていたはずだ。その日を狙う》
「ああ、そういえばそう言ってたっけ」
少しの間、沈黙が流れる。
「……静かだな。迷宮の中の夜とは、まるで違う」
セリアはベッドの上で横になったまま、ゆっくりと視線を横に向けた。
小さな窓から夜の光が差し込み、壁に淡い影を落としている。
街の灯が遠くで瞬き、風が静かにカーテンを揺らした。
「迷宮じゃ、朝も夜もわからなかったからな。……地上では夜は夜ってちゃんとわかるんだな」
《お前にとっては、これが本当の夜というものだろうな》
「うん。……なんか、不思議な感じだ」
セリアは片腕を額に当て、ぼんやりと光の揺らめきを見つめた。
迷宮の暗闇とは違う、息づく闇。
人の営みの残り火がまだどこかで燃えているような、柔らかな夜だった。
(……夜って、温かいんだな)
そっと指先を上げる。
意識を向けると、空気がわずかに震え指先に小さな炎が灯った。
《……やめておけ》
「わかってる。ちょっと試しただけだよ」
セリアはふっと息を吹きかけ、炎を消した。
「昼間見たフィアスって、私でいうところの炎みたいなもんなんだろ?」
《似て非なるものだ》
ラグルスの声が静かに響く。
《フィアスとはどうやら、神の力の劣化版だ。本来の神の力を多くの人間が扱えるように、ウィアードが制限を設けて作り替えたものだろう》
「制限?」
《無からは創れぬ、という枷だ。朝に見た砂のフィアスがよい例だ。仮に炎のフィアスなら、すでにある火を操ることしかできんはずだ》
「……つまり、わたしの炎とは違うってことか」
《そうだ。お前の炎は、存在そのものから生まれる。神の力は、形なき理を直接、現実に干渉させる》
「そりゃあ確かに、目立つわけだ」
《現代では、無から創るなどウィアード以外にあり得ぬ現象だと認識されているようだ。見られた場合、我らが迷宮を脱したことに気づかれる恐れがある》
セリアは苦笑した。
「なら、使うときはフィアスのふりをすればいいってことか。実際の火を借りて、動かす感じで」
《それが無難だ。炎の出所さえ悟られねば、疑われることはあるまい》
ラグルスは少し間を置き、低く呟いた。
《……だが、奴も上手くやったものだ》
「ウィアードが?」
《そうだ。本来、我から奪った力では人間すべてに力を行き渡らせることなど不可能。だが奴はフィアスとして劣化させることで、秩序を保ちながら加護を広く行き渡らせた》
「これが、ウィアードが望んだ人間だけで成り立つ世界、か」
セリアはしばらく黙り、僅かに手を握りもう一度開いた。
指先に残る微かな熱を感じながら、静かに目を閉じる。
「……わかったよ。取りあえずは、人前じゃ炎は出さない」
《それでいい。まだ時ではない》
窓の外では、街の灯がひとつ、またひとつと消えていく。
セリアは目を閉じ、夜の静けさに身を沈めた。




