第二十八話 フィアス
夜。
リレンヌの城壁近く、警備本部の執務室。
机の上には、書類が山のように積まれている。
蝋燭の炎が小さく揺れ、紙の影を壁に映し出していた。
上司と思しき男が、一枚の報告書を手に取り、低く読み上げる。
「街門にて、全裸の女を保護。記憶喪失を自称。危険性は不明……」
静かな部屋に声が響いた。
「……随分と珍しい報告だな、レインズ」
「はい。ですが、彼女――セリアさんは本当に記憶を失っているようでして。街に害を与えるような素振りもありません」
レインズは背筋を伸ばし、真っ直ぐに答えた。
「だが、街の外で何の荷物も持たずに無傷だったのだろう? 不自然だ」
「はい。ただの一般人ではない可能性は十分にあります。記憶を失っているとはいえ、街の食堂で大げさに感動したりと……どこか普通の人間らしからぬところがあります」
「ふむ……」
上司は顎に手を当て、しばし思案するように目を細めた。
「セリア、と言ったな。明日以降もしばらく監視を続けろ。行動に不審な点があれば、すぐ報告しろ」
「はっ」
「それと――」
男は机の引き出しから、銀の徽章を取り出した。
中央には、翼を持つ十字架の紋章。
「この件は、バランティン聖衛隊にも共有しておく。最近、劣等種共が街に紛れ込む事例が増えている。……警戒を怠るな」
「了解しました」
レインズは一礼し、執務室を後にする。
重い扉が閉まると同時に、上司は窓の外を見上げた。
外には淡く光る月と、街を覆う静かな闇。
「――ウィアード様の光が、この地に影を落とさぬように」
その声だけが、静寂の中に溶けていった。
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翌朝。
雲ひとつない青空の下、リレンヌの街に活気が満ちていた。
「セリアちゃん! そっちの樽、裏まで運んでおくれ!」
「了解!」
セリアは店の裏口から大きな水樽を抱え、裏庭まで運ぶ。
女将――メリダの店「陽だまり亭」で働き始めて、初日の朝。
慣れない手つきながらも、仕込みや配膳を手伝っていた。
(……こうして生活するのって、案外悪くないな)
昨日までとは違う日常。
窓から差し込む日差しや、通りで賑わう人々。
その全部が、迷宮では決して手に入らなかったものだった。
通りに出ると、子どもたちのはしゃぎ声が聞こえてきた。
朝の光を浴びた広場の一角で、数人の少年たちが棒切れを振り回している。
「いくぞ! 砂のフィアス!」
掛け声とともに、少年が棒を振り下ろした。
地面の砂がふわりと浮き上がり、渦を巻くように棒へと絡みつく。
「おおっ、レオンのフィアス、また強くなってる!」
「さすが、聖衛隊志望だな!」
子どもたちが歓声を上げる。
セリアは足を止め、思わず見入った。
「……フィアス?」
「子どもたち、今日も元気だねぇ」
背後から、メリダの明るい声がした。
「フィアスってのはね、ウィアード様から授けられた加護の力さ」
メリダは腕を組みながら、どこか誇らしげに言葉を続けた。
「私たち人間は、ウィアード様の加護によって生まれた時に力を授かるの」
「ほとんどの人は、ちょっと身体が丈夫になる程度だけど、稀に『特定のものを操る特別な力』を持つ人がいるのさ。それを『フィアス』って呼ぶんだよ」
「特定のものを……操る」
セリアは小さく繰り返した。
「そう。さっきの子は砂を動かしていたから、砂のフィアスってところかしらね」
「動かすって、それだけ?」
セリアが不思議そうに首をかしげると、女将は目を丸くした。
「それだけって、あんたねぇ!」
腰に手を当て、やれやれと首を振る。
「フィアスを持ってるだけで十分すごいのよ。フィアス持ちは、それだけで聖衛隊の候補に選ばれるくらいなんだから!」
「いや、砂をこう、ドバーッて出したりはできないのかと思ってさ」
「なに言ってんの! そんなの無理に決まってるでしょ!」
メリダは笑いながら首を振った。
「フィアスっていうのは、そこにあるものを借りて動かす力なの。無から生み出せるのは、ウィアード様だけよ」
「そうなんだ……」
「もしかしたら、セリアちゃんもフィアスを持ってるかもね!なんてね」
メリダは冗談めかして笑い、店の方に向き直った。
「さ、そろそろお店に戻りましょ。もう少しで開店時間だよ」
二人は並んで店へ戻る。
通りの喧騒が背に遠のき、パンの焼ける香りと共に朝が満ちていく。
――開店してからは、あっという間だった。
昼を過ぎても客足は途切れず、セリアは忙しなく皿を運び続ける。
「おばちゃん! その子だれ!?」
「セリアちゃんっていうの。どう?すごくかわいいでしょ?」
「びっくりしたよ。いきなりこんな美人が接客してるんだもんな。こんな子が街にいたら知ってるはずだけど、見たことないな。別の街から来たのかい?」
「そんなところです……」
セリアが曖昧に笑うと、男客は感心したように頷いた。
「お客さん、手は出しちゃ駄目よ! うちの大事な看板娘なんだから!」
「はは……」
メリダの冗談に、店の空気が明るく和む。
――そのとき
「こんにちは!」
扉の鈴が鳴り、レインズが顔を出した。
「おぉ、レインズ!」
セリアは笑顔で手を振る。
「連日来るなんて珍しいじゃない! まさかセリアちゃん目当て?」
メリダが茶化しながら言う。
「ち、違いますよ! ……いや、違わないかもですけど!」
言ってから自分で赤面し、慌てて両手を振る。
「いえ、上からセリアさんが上手くやってるか見てこいって言われたんです!」
「セリアさん、どうです? 初日で大変じゃないですか?」
「楽しくやってるよ。まぁちょっとは大変だけどね」
「セリアちゃんはうちの看板娘だからね~」
「いや、まだ働いて初日なんだけど……」
セリアは苦笑しながら、手にした皿を拭いた。
その横で、レインズが少しだけ安堵したように微笑む。
「それなら良かったです。上も心配してたので」
レインズは腰の剣を軽く叩きながら、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、セリアさん。フィアスって使えたりしますか?」
「え? あー……」
《断言はするな。誤魔化せ》
ラグルスが囁く。
「えっと、記憶ないからさ。もしかしたらあるのかもしれないけど、今はよくわかんないんだよな」
「そうでしたか。いえ、一応確認しておけと言われていたものですから」
レインズはそう言って、すぐに笑みを戻した。
「おばちゃん、魔眼魚定食ひとつ!」
「悪いな、何もわかんなくて」
「全然! 気になさらないでください。上には適当に報告しておきますから」
「助かるよ」
セリアが笑うと、レインズも少し照れたように頭に手を当てた。
――その後も店は忙しく、客足が絶えなかった。
いつのまにか外は夕暮れ色に染まり、陽だまり亭の窓から橙の光が差し込む。
「セリアちゃん、初日で疲れたでしょ」
メリダが湯気の立つ鍋を片づけながら声をかける。
「セリアちゃんがいる影響なのか、今日はいつもより混んでたわよ」
「楽しく働けたよ」
セリアが笑うと、メリダも嬉しそうに頷いた。
「それなら良かったわ。あ、そうだ――これ、お給料ね」
メリダは布袋を取り出して差し出す。
「ほんとは月末にまとめて渡すんだけど、今お金持ってないでしょ?」
「それは助かる! ありがとう!」
セリアは笑顔で袋を受け取り、軽く振ると、中から小さな硬貨の音が心地よく鳴った。




