第二十一話 「外」
湿った岩肌の匂い。重く、熱を失った空気。
ゆっくりと、セリアは瞼を開いた。
視界の上に、黒ずんだ天井が見える。
――いつもの、洞窟。
《戻ったか》
「……うん。帰って、きた」
声を出すと、喉がひりついた。
ふと前を見ると、魔法陣が焦げつき、ひび割れた文様から薄煙が立ち上っている。
紫だった紋様は色を失い、中心には黒い焼け跡だけが残っていた。
《少し、怪しかったがな》
「ははっ、確かに。相棒の声がなかったら、あのまま向こうに行ってたかもな」
短い沈黙。セリアは短く息を吐いて続ける。
「……幻だった。でも、本当にあそこに自分がいた気がする」
《そういうものだ。あの封印は、剥き出しの魂に理想を見せる。力ではなく、心を縛る術――まさに幸福の牢獄だ。》
「……そういうこと、か」
セリアはゆっくりと立ち上がる。
脚はまだ震えていたが、心臓の鼓動とともに身体の中心に小さな熱が戻っていく。
そのとき、奥から柔らかな声がした。
「おかえり」
振り向けば、ネスヴィラが立っていた。
闇の衣を纏いながらも、その表情はどこか穏やかで、口元がわずかに緩んでいる。
「ネス……ママ」
その言葉に、ネスヴィラの目が細められる。
「さすが、ワタシの子。あの封印、けっこうすごいやつだった」
「やっぱりそうかよ……」
「そう。普通の魂なら、戻れない。ずっと幸せな夢の中で、彷徨い続ける」
ネスヴィラは淡々と語る。その瞳の奥に、かすかな光が揺れていた。
「でも、アナタは戻ってきた。アナタと、その元神。二人だから」
セリアは静かに目を閉じ、呟く。
「……相棒。ありがとな」
《礼は要らぬ。お前自身の力で乗り越えたのだ》
《……それと、相棒はやめろ》
「はいはい。……そういや、出口、もう行けるんだよな」
《そうだ。封印は砕けた。迷宮の外がようやく見える》
セリアは頷く。
「じゃあ、行くか。今度は本物の空を見に行こう」
その背に、ネスヴィラの声が届く。
「待って」
振り返ると、ネスヴィラの手のひらに、黒い宝石があしらわれたネックレスが浮かんでいた。
闇の粒子がゆっくりと宝石の中へ吸い込まれていく。
「これは……?」
「アナタに、あげる。ここを出る子には、いつも渡してる」
「強く願えば一度だけ、ワタシと話ができる。どこにいても」
セリアはその首飾りを手に取る。
冷たい石なのに、指先が温かく感じた。
「……ありがとな。大事にするよ」
「うん」
ネスヴィラは短く頷き、ほんの少しだけ微笑んだ。
「じゃあ、行ってきます!」
「いつでも帰ってきて、いい」
ネスヴィラはひらひらと手を振る。
セリアは小さく頷き、迷宮の奥へと歩き出す。
足音が遠ざかり、やがて、その気配も消えていった。
静寂が戻る。
その場にひとり残ったネスヴィラは、しばらく出口の方を見つめていた。
表情はいつも通り無機質。けれど、その紅い瞳の奥にはかすかな温度が宿っている。
「……」
影の衣が揺れ、彼女の姿はゆっくりと闇に溶けていく。
残ったのは、淡く瞬く封印の残光だけだった。
________________________________________
セリアは壊れた封印を抜けて、暫く歩く。
ふと振り返ると、ネスヴィラの姿はもう見えない。
「長かった。……いや、短かった、かも」
これまでの迷宮での日々が、頭の中を駆け巡る。
鍛錬、戦い、敗北、そして炎。
《百年と二百四十五日。我の予想通りだったな》
「まだ数えてたのかよ……」
セリアは軽く笑い、歩を進める。
やがて、空気が変わった。
湿った岩肌の匂いが薄れ、代わりに冷たい風が頬を撫でていく。
前方の闇の奥に、淡い光が差し込んでいた。
「光だ……!」
《……そうだな》
ラグルスにとっては、千八百年ぶりの外の世界。
長い憎しみの歳月を、ようやく越える瞬間が訪れていた。
「……これからだな」
《そうだ。まだ、これは始まりに過ぎない》
セリアは拳を握り、前方の光へ歩を進める。
一歩。また一歩。足元の岩が砕け、差し込む光が少しずつ強くなる。
やがて洞窟の終端が見えた瞬間、光が全身を殴りつけた。思わず腕で顔を覆う。
暗がりに慣れた瞳には、太陽の光はあまりにも鋭い。
ふと、頬を風が撫でた。
新鮮な空気に、土と緑の匂いが混じっている。
少しして、セリアは目を開けた。
視界いっぱいに広がるのは、柔らかな草原と、その奥に連なる木々。陽光を透かした葉の輝きが、金色の粒のように瞬いていた。
「これが、外……」
息を呑む声が、風に溶けて消えていく。
《ようやく……》
ラグルスの声も、どこか掠れていた。
千八百年ぶりの外気。その懐かしさに、言葉が詰まる。
セリアはしばらく立ち尽くす。
頬を撫でる風、草の匂い、太陽の光。
どれも、迷宮の中では決して得られなかった感覚。
今だけは――
洞窟で過ごした長い日々も、復讐の炎も、すべてを忘れて。
ただ、初めての「外」を、全身で感じていた。
これで第一章 迷宮篇は終了となります。
ここまで読んでいただいた皆様ありがとうございます。
ブックマーク、評価、感想等いただけると励みになります。気が向いたらで良いので、よろしくお願いいたします。




