第十一話 灰色猿
セリアの眼前に立ちはだかるのは、岩巨人が三体。
ここはかつて十年を費やした試練の場よりもさらに奥深く――
洞窟の広間は天井が高く、黒ずんだ鉱石の結晶が頭上に突き出している。
溶岩の赤黒い筋が壁面を走り、時折地の底から熱風と冷気が交互に吹き上がる。
「はあっ!」
クライゲラクが閃き、ひと振りで一体を袈裟斬り。さらに勢いを乗せてもう一体の胸を貫く。
――ブンッ!
残った巨人の拳が迫る。空気を裂く轟音と共に圧力が押し寄せるが、セリアは軽やかに跳躍してかわす。
「らぁっ!」
落下の勢いを剣槍に込め、頭頂から縦に真っ二つに裂いた。
崩れ落ちた巨体は結晶の岩床に砕け散り、赤黒い火花が散った。
――「纏」の完成から三十年。
あれほど苦戦した岩巨人すら、もはや敵ではない。中位の魔物ですらセリアを止められる存在はいない。狩場を広げ、迷宮の奥地を探索する日々。
「……はぁ~、こいつらじゃ食べるところないんだよなぁ。もう十日はまともに食べてない気がする……」
《八日と四時間だ》
「またそれかよ……。大体合ってるんだからいいだろ!
それに、重要なのは時間じゃなくて気持ちだっての。わかる?相棒」
数十年の付き合いを経て、セリアにとってラグルスはすっかり「相棒」になっていた。
《我は事実を伝えたまでだ。……それと相棒はやめろ》
「まあいいや。取り敢えず食べられる魔物を探すかぁ。……はっ」
セリアの掌に炎が灯り、やがて小さな猫の姿を形作った。黄金の毛並みを思わせる炎は尾を揺らし、瞳が紅く輝いている。
一体、また一体と数を増やし、十匹ほどの炎の猫が出現した。
「『金火猫』。探索といえばこいつだろ!」
セリアは得意げに指を弾き、金火猫たちは赤い尾を引きながら四方へと散っていった。
その直後、セリアの左目に赤い炎が宿る。視界は分かれ、金火猫たちの見ている風景が彼女に流れ込んでくる。
(周囲は……金属鰐、ドラゴンゾンビ……毒蜘蛛)
「……食えるやつがなんにもいない!」
セリアは地面を叩きながら叫んだ。
「金属鰐?歯が折れる!ドラゴンゾンビ?臭くて食べたら吐く!毒蜘蛛?……あれで三日寝込んだんだからな!」
《食事など、あと一月は取らなくても問題はあるまい》
「これだから神は……!わたしにとって食事は生きるためだけじゃなく、楽しみなんだよ!四十年以上、この地獄暮らしで、唯一の!!」
セリアは拳を振り上げて抗議する。
――そのとき、視界に違和感が走った。
「……ん?」
左目に映る金火猫の視界。そこに現れたのは、背丈がセリアとそう変わらぬ猿に似た魔物だった。
鋭い眼光としなやかな四肢。だがその姿を見た瞬間、金火猫の視界はぷつりと途絶えた。
「……消された?」
セリアは息を呑む。
「今の……猿? わたしより少し大きいくらいで……」
《……猿、か》
「おい。なんか知ってるんだろ?」
《……まだ断言はできん。だが、もし我が思う通りの存在なら――セリア。お前にとってはこの迷宮で初めて、上位との会合になるかもしれん》
「……上位ね。ようやくか。 勝てると思う?いまのわたしなら」
《そうだな……。十中八九お前が勝つだろう。一対一ならな》
「……その言い方、相手は何体もいるってことだな?」
《そうだ。奴らは群れで行動する。魔物にしては知恵が回り、互いの動きを補い合う。岩巨人のような鈍重な敵よりも、よほど厄介だ》
「さっき金火猫で見たのは一体だけだったけど……正直、あの一瞬じゃ数まではわからなかったな」
《ならば退け。群れの規模次第では勝ち目はない》
「そうだな……っ!」
言いかけた瞬間、セリアの左目が次々と暗転していく。
視界のひとつ、またひとつ。金火猫の眼が闇に潰されていく。
最後に残った最寄りの一体も掻き消された。
「嘘だろ……もう来てる!」
《見つかっていたか! 仕方がない……迎え撃つぞ!》
セリアはクライゲラクを纏状態にし、緊張を孕んだ呼吸で闇を睨み据える。
やがて、湿った岩壁の奥から影が滑り出した。
それは、猿に似て猿ではない。
灰色の体毛に覆われた二メートルほどの躯は、異様に細く引き延ばされたような輪郭をしていた。
腕は不釣り合いに長く、指先から伸びた爪は地を擦り、岩を削るたびに甲高い音を立てる。
そして顔には――笑み。
だがそれは感情ではなく、凍りついた肉を貼り付けたかのような、歪で不気味な笑顔だった。
「……っ! 先手必勝!」
セリアは背筋を走る寒気を押し殺し、左手に灼熱の炎を凝縮させる。
瞬く間に膨張した火球は、洞窟の闇を赤く照らし出しながら灰色猿へと飛ぶ。
――ズバッ!
甲高い音とともに、猿の伸びた爪が火球を両断する。飛び散った火花に照らされ、不気味な笑顔だけが浮かび上がった。
しかしその隙を逃さずセリアは肉薄、クライゲラクを突き立てる――が。
「っ……!」
左右から影が跳び出し、二体の灰色猿がセリアを挟撃する。
剣槍で一体を弾くも、もう一体の爪が肩を浅く裂き、熱い痛みが走る。
「くそっ!」
セリアは体勢を崩さぬよう後方へ跳ぶ。
しかし、今度は頭上から四体目がするりと落ちてきた。爪が洞窟の岩を削りながら振り下ろされる。
(まだいるのかよ!? でも――!)
セリアはクライゲラクを突き上げ迎え撃つ。
――ガギィィン!
火と爪が激しく弾ける。纏状態の刃でさえ、その爪は焼き切れずに火花を散らして拮抗する。
振り払われた衝撃で、セリアは数歩後退した。
薄闇の中、四体の灰色猿が弧を描き彼女を囲み、不気味な笑みを浮かべている。どの個体も動きを揃え、距離を詰めずにじっと機を窺っていた。
《四体か。群れとしては小規模だな。だが油断するな。奴らは互いの間合いを計り、連携して狩る。お前にとっては初めての経験だ》
「……わかってる」
セリアは剣槍を構え直し、じりじりと周囲を見渡す。
(どいつもこいつも、一体一体が今までの魔物より格上……でも、退く気なんてさらさらない!)
――次の瞬間、痺れを切らしたのか灰色猿たちが動いた。
二体が左右へと素早く展開し、残り二体が真正面から迫る。練り上げられた戦術の挟撃。
「はっ!」
敵の接近を確認し、セリアは左手に溜めていた煙状の炎を地面へ叩きつける。
「――煙炎羅」
炎は一気に広がり、地を這いながら周囲を濃い赤煙で覆い尽くした。炎の薄幕が視界を奪い、猿たちの不気味な笑顔が煙に呑まれて消える。
《ふむ……使えるようになったな》
ラグルスの声を背に、セリアは跳躍して煙の上空へ抜け出す。
「喰らえっ!」
空中から振り下ろした掌に紅蓮の炎が収束する。
それは巨大な奔流となって、煙を突き破り猿たちを飲み込んだ。
――ズバババッ!
炎の奔流を、猿たちは爪で切り裂く。
しかし、その刹那。
切り裂かれた炎は散らずにまとわりつき、やがて形を変えて硬質化していく。
クライゲラクの纏のように、うねる紅蓮が結晶となり、百足のような無数の足を持つ炎鎖が生まれ、猿たちを絡め取った。
「『大百火足』。上手くいった!」
鎖は締め付けるごとに熱を帯び、灰色の毛皮を焦がしていく。
(今しかない……!)
セリアはクライゲラクを振りかざし、投擲の構えを取った。剣槍の周りに紅蓮が渦を巻き、灼熱の輝きを放つ。
「はあああああっ!!」
《セリア!後ろだっ!!》
剣槍を放つ、その瞬間。ラグルスが叫ぶ。
――ザシュッ!
背筋を凍らせる感覚と共に、闇から伸びた新たな爪が首を薙ごうとしていた。
セリアは反射的に身を捻り、致命傷だけは避ける。だが背中に鋭い痛みが走り、血が飛沫を描いた。
「くっ、五体目……!」
痛みを堪えながら振り返った彼女の目に、不気味な笑みを浮かべた新たな灰色猿の影が映っていた。




