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第十二話 魔人ネスヴィラ

「助かったよ、相棒」


《その傷、戦闘に支障はないか》


「問題ない。唾でもつけときゃ治る!」


笑ってはいるが、背中を焼くような痛みは消えてはいない。だが、この迷宮で目覚めたばかりの頃なら心を折られていただろう痛みも、今のセリアにとってはただの戦闘の一部に過ぎない。


セリアは荒い息を吐きながら、闇に目を凝らす。


――囲まれている。

四方に散った四体、そして背後を狙う一体。灰色猿の群れは、もはや戦闘ではなく狩りの態勢を整えていた。


《来るぞ!》

その声と同時に、手負いの獲物を仕留めるべく不気味な笑顔の群れが一斉に跳躍する。


それからの戦闘はまるで息をつかせなかった。


正面の一体を剣槍で受けた瞬間、横合いから伸びた爪が頬を裂く。

振り払うより早く、背後の殺気に身を沈めれば、今度は頭上すれすれを別の一体が飛び抜けた。


――ゴオォン! ガギィン! ザシュッ!


炎と爪がぶつかり合う轟音が何度も洞窟を揺らし、焼けた毛皮の臭気が鼻を刺す。

一瞬でも捌きを誤れば、喉笛を裂かれ、心臓を抉られる。

それは三分にも満たない攻防。

けれどセリアには、何十もの死線を潜る思いであった。


________________________________________


「はあ、はあ……」


剣槍を支えに立つセリアの肩は荒く上下し、頬を汗と血が混じり合って伝い落ちていた。

その背中の裂傷は深みを増し、全身には浅い切り傷が無数に刻まれている。左顔面は大きく裂け、左眼はすでに光を捉えず、視界の半分が赤黒い闇に沈んでいた。


耳鳴りが洞窟の轟音と混ざり合い、残りの右眼の視界も霞んでいる――それでもその眼光は戦意の衰えを感じさせない鋭さがあった。


彼女の数メートル先に灰色猿が三体。

地面には首を刎ねられ絶命した一体と、胴を貫かれ沈黙した一体の亡骸。

残存する三体のうち二体は深手を負っていた。片方は半身が爛れ爪を砕かれており、もう片方は片腕を失い血を滴らせている。


――だが、最後の一体は。


その灰色猿だけは無傷のまま、赤い瞳と歪んだ笑みを絶やさず、じっと彼女を見据えていた。


「くそっ……わざとか。あいつら、意図的に一体を無傷で残してるな。」


《群れの知恵だ。戦闘の余力を温存させるか、あるいは敗北時の逃走役として生き残らせる。どちらにせよ、人間の兵法に近い動きだ》


灰色猿たちは、手負いながら戦意の衰えないセリアを前に攻めあぐねているのか、こちらの様子を伺っている。


《まだ動けるか?》


「動ける……って言いたいけど、正直、限界かも……」


《そうだろうな。……ならば、我が力を貸そう。ここで死なれては困る》


言葉と同時に、温かな光が身体を包んだ。

全身を満たすその力は、痛みを和らげ焼けつく筋肉を解きほぐす。

震える指先に力が戻り、血の滲む足取りさえ、戦闘の前のように軽くなる。


「……これ、すごいな。まるで――」


《錯覚するな。傷が癒えたわけではない。仮初の力を注ぎ込んでいるだけだ。長くは持たんぞ》


光に包まれたセリアを前に、灰色猿たちは警戒の唸り声を上げ構えを強める。

だが次の瞬間、セリアは一気に踏み込み、爛れた灰色猿を斬り裂いた。


――ザシュ! 


鮮血が赤黒い岩床に散る。

しかし、その隙を逃さず二体目が左から爪を伸ばす。


「……そこだッ!」

セリアに爪が届く前に灰色猿の足元から紅蓮の火柱が噴き上がり、猿の毛皮を焦がす。

だが灰色猿は炎を物ともせず突進し、セリアの左腕を貫いた。


「ぐっ……でもっ!」

痛みを押し殺し、槍を突き立てる。灼熱が走り、猿の胸を貫いた。


残るは無傷の一体のみ。


「はぁ、はぁ……次はお前だ。」


――しかし、最後の灰色猿は一歩退き、赤い瞳を細めると背を翻した。


群れの知恵なのか、勝てぬと悟り逃走を選んだのだ。


「逃がすかよ!」

セリアは剣槍を振りかざし、炎を一点に収束させる。紅蓮の奔流がクライゲラクに渦を巻き、洞窟全体を照らした。


――先程邪魔されたのと同様の、セリア渾身の一撃。


「はああああああっ!!」


――ズオオオオン!


放たれた一撃は矢のごとく疾走し、逃げる背を貫いた。

灰色猿の身体は抵抗もなく貫かれ、爆ぜるように四散する。


残ったのは、岩壁に焼き付いた紅蓮の残光だけだった。


「はあ、はあ……。勝った……勝ったぞ……!」


だがその直後、セリアを包んでいた光が消える。

力はすべて燃え尽き、仰向けに倒れ込んだ。


《よくやった。我の補助あっての勝利だがな》


「……一言、多い……っての……」


返す声も途切れがちで、視界は霞んでいく。

ラグルスの声が遠のき、洞窟の赤黒い光が揺らめく中、セリアの意識は闇に沈みかけていた。



――ズシン


地面が鳴動する。

彼女を見下ろす影、それは金火猫の探索で一度視たドラゴンゾンビだった。

灰色猿とセリアの戦闘が終わるのを待っていたかのように、静かに身を潜めていたのだ。


「く……そ……」


《ちっ、ここでか!》

ラグルスが珍しく焦りの声を出す。

立ち上がろうにも、セリアの脚は鉛のように重く、全身が悲鳴を上げる。もう一歩も動けない。


(ここまで、なのか……?)


ドラゴンゾンビの顎がゆっくりと開き、腐った牙が血と肉を求めて迫る。


その時――



――ズシッ、ズシッ


重圧が、洞窟全体を支配した。

空気が圧縮され呼吸が詰まる。指先すら動かない。

ドラゴンゾンビですら怯えを隠さず、硬直した。


やがて闇の奥から姿を現したのは、三メートル近い大男だった。

全身を漆黒の鎧で覆い、背には身の丈ほどの大剣を背負っている。

最も異様なのはその双眸――赤い光を帯び、瞳孔が縦に裂けている。


長い黒髪が肩に垂れ、呼吸に合わせて鎧の隙間から黒い息が洩れる。近づくたびに空気が重く圧縮され、セリアは呼吸すらままならない。


男はただ一瞥する。それだけで、ドラゴンゾンビは洞窟の闇へ逃げ去った。


(み、見ただけでわかる……。こいつが……魔人、ネスヴィラ!)


セリアの全身に冷や汗が噴き出す。奥歯が勝手にカチカチと鳴り、全身の筋肉が凍りついて動かない。

それでもセリアは必死に目を逸らさず、その赤い眼光を見返そうとした。

男は一拍ののち、背を向けて去っていく。

音もなく――しかし、残された圧はなお洞窟を支配していた。


(た、助かった……のか?)


《……どうやら奴に気に入られたようだな》


「助けて、くれたってことかよ……」

戦闘の傷と、先ほどまでの重圧で声が途切れ途切れになる。


《あれが、お前が越えねばならぬ壁――『魔人ネスヴィラ』だ》

《怖気づいたか?》


「はっ……まさか。まだ勝てない。……けど、いずれ――!」


セリアの血に濡れた唇が、笑みの形を浮かべていた。


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