第93話 vsゴウザン その1
神炎の炉の内部。
赤いマグマの光が壁面を照らし、熱気が肌を焦がすような空間の中で、ルシアたちは慎重に前進していた。
炉の内部は想像以上に広かった。搬入口から続く通路は左右に枝分かれし、それぞれの先に鉄格子の檻が並んでいる。囚われた人間たちの数は、外から見ていた時よりもはるかに多い。ざっと見ただけでも、数百人はいるだろう。
「多すぎる……」
テオが呻いた。
「一人ずつ解放していたら日が暮れる。アマルに乗せて搬入口から外に出し、海流図の安全なルートで海岸まで誘導するんだ」
ルシアが言った。
「アマルだけで全員運べるか? 何往復も——」
「できる」
テオはアマルを撫でながら頷いた。
「アマルの容積は見た目より遥かに大きい。体内に人間を収容して運ぶことはできる。ただし……僕がここにいる必要がある。アマルの指示は常時出し続けないといけないから、僕は戦闘に参加できない」
「分かった。テオは人質の誘導に専念しろ。俺たちが周囲を固める」
「うん。任せて」
一行は手分けをした。テオがアマルに指示を出しながら最初の檻へと向かい、ルシアとマイヤとステラが周囲の警戒にあたる。
最初の檻の鍵をルシアが純白の剣で断ち切ると、中の人間たちが驚いたように顔を上げた。虚ろだった目に、少しずつ光が戻ってくる。
「……助けに来た。アマルの中に入ってくれ。海岸まで送り届ける」
テオが優しく声をかけると、人間たちは震えながらも頷き、アマルの中へと誘導されていった。
二つ目の檻、三つ目の檻。
救出作業は順調に進んでいた。
だが——。
ドン、と。
炉の奥から、地面を揺らすほどの重い足音が響いた。
一歩。また一歩。
足音のたびに、炉の床が微かに震える。壁面に吊り下げられた鎖が揺れ、マグマの液面が波打った。
「……何かくる」
マイヤが包丁を構えた。
暗い通路の奥から、巨大な影が姿を現した。
「でかい……!」
ステラが思わず後退った。
その体躯は、人間の三倍はあろうかという巨大さだった。分厚い筋肉の塊のような体に、岩盤のような黒灰色の鱗が全身を覆っている。頭部には二本の湾曲した角、顔の下半分は巨大な顎に覆われ、四本の太い腕がだらりと下がっていた。手のひらは人間の胴体ほどもあり、指の先には鋼鉄をも砕く鉤爪が光っている。
そしてその体から発散される魔力の圧力が、ザガンとは比較にならないほど濃密で、重かった。
「……ほう」
巨体の魔族が、炉の天井に頭をぶつけそうになりながら身を屈め、ルシアたちを見下ろした。声は地の底から響くような低音で、炉の空気そのものを震わせた。
「リフィア様の炉に、人間が紛れ込んでいるとは。珍しいこともあるものだ」
「お前が幹部か」
ルシアが純白の剣を抜き、静かに問うた。
「そう呼ばれているな。我が名は剛山。リフィア様直属の幹部にして、この炉の番人だ」
ゴウザンは巨大な顎をゆっくりと動かし、ルシアたちを一人ずつ値踏みするように見渡した。
「下っ端どもは倒したようだが、我と貴様ら人間にとっては天と地ほどの差がある。……王都でザガンを相手に這いつくばっていた剣士が、ここまで辿り着いたことは評価してやろう。だが、それで終わりだ」
テオが救出作業を続けながら、ルシアへと視線を向けた。その目が「どうする」と問いかけている。
(テオの作業を止めさせるわけにはいかない。……俺が時間を稼ぐ)
「マイヤ、ステラ。テオの援護を頼む」
ルシアが静かに言った。
「は? 一人でやるつもりか」
マイヤが眉をひそめた。
「最初はな」
「無茶だ」
「無茶じゃない」
ルシアはゴウザンを真っ直ぐに見据えた。
「ザガンに完敗した俺が、今どれだけ戦えるか。……確かめたいことがある」
マイヤはしばらくルシアの横顔を睨みつけ、それから舌打ちをした。
「……分かった。だが、やばくなったらすぐ言え」
「ああ」
ルシアはゴウザンへと向き直り、剣先を静かに向けた。
「行くぞ」
「……ほう」
ゴウザンの巨大な顎が、にたりと歪んだ。
「面白い。その細い剣で、この体のどこを斬るつもりだ」
ゴウザンが動いた。
巨体に似合わぬ素早さで、右の前腕を横薙ぎに振るう。その一撃は、炉の壁面を軽く砕くほどの質量だった。
ルシアは屈んで躱した。
風圧だけで体がよろめく。
(速い。体が大きい分、リーチも長い。真正面からの力勝負は論外だ)
すかさずゴウザンが左腕を振り下ろしてきた。ルシアは横に跳んで回避し、着地と同時に足元からマナを引き上げ、循環させた。
シュッ!
純白の剣が弧を描き、ゴウザンの左腕の鱗を浅く斬り裂いた。
「む」
ゴウザンが左腕を見下ろした。鱗の表面に、細い傷が走っている。
「……この俺の鱗に傷をつけるか。ザガンに這いつくばっていた男にしては、やるではないか」
「まだ始まりだ」
ルシアが剣を構え直した。
ゴウザンが今度は四本の腕を同時に動かした。前の二本が正面から迫り、後ろの二本が背後へと回り込もうとする。
(四本腕の同時攻撃。前を躱せば後ろに当たる……!)
ルシアは前の二本の腕の間を強引に潜り抜け、ゴウザンの懐へと飛び込んだ。
シュッ! シュッ!
腹部の鱗を二度斬り、素早く後退する。
「おおっ」
ゴウザンが腹部を見下ろし、感心したように低く唸った。
「懐に飛び込んできたか。胆力だけは認めてやろう」
だが次の瞬間、ゴウザンの体が大きく沈んだ。
全体重を前足に乗せ、地面を砕くような踏み込みで、ルシアとの距離をゼロにした。
「だが——」
ドンッ!!!
ゴウザンの右拳が、ルシアの真横の床に叩きつけられた。直撃ではない。だが衝撃波だけで、ルシアの体が横に吹き飛んだ。
「ぐっ……!」
炉の壁面に背中から激突し、ルシアは片膝をついた。
(……衝撃波だけでこの威力か。直撃を受けたら一撃で終わる)
「どうした、剣士。もう膝をつくか」
ゴウザンがゆっくりと歩み寄ってくる。その足音のたびに、床が震えた。
ルシアは息を整えながら立ち上がった。
背中に鈍い痛みが走る。だが骨は折れていない。
(まだ戦える。……だが、このままでは時間が経つにつれて消耗していく一方だ。ザガンとの違いは分かった。体の大きさが生み出す質量と射程、そして四本腕による手数の多さ。一人で対応するには——)
「ルシア!!」
マイヤの声が飛んだ。
「まだ大丈夫だ」
ルシアは即座に答えた。
「大丈夫に見えないんだけど!!」
ステラが叫ぶ。
「……見た目だけだ」
ルシアは剣を構え直し、ゴウザンを真っ直ぐに見据えた。
額に汗が滲んでいる。だがその瞳には、王都での敗北の時のような絶望の色はなかった。
冷静で、静かで、決して折れない意志の光だけが、そこにあった。
「まだ終わらない」
ルシアの呟きに、ゴウザンの顎がにたりと歪んだ。
「……面白い人間だ。いいだろう、もう少し付き合ってやる」
四本の腕が、再び動き始めた。
炉の奥でマグマが轟音を上げ、赤い光が激しく揺れる中。
ルシアと剛山の戦いは、まだ始まったばかりだった。




